日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS クリスマスは誰のもの ルカ1:46-55 2010/12/19

<<   作成日時 : 2010/12/19 17:37   >>

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世界的にみると20億人以上の人がキリスト教を信仰しているといわれています。
日本においては日本全体の1%程度といわれています。
でも、日本においてクリスマスを知らない人はいませんし、一度もクリスマスを祝ったことのない人はいないのではないかという気がします。




Happy Christmas (War Is Over)というジョンレノンの曲があります。
1971年のアドベントにこの曲はリリースされ、この時期にはよく耳にする曲の一つだと思います。
ジョンレノンはただのクリスマスソングではなく、永遠に残るクリスマスソングを作りたいとしてこの曲を作ったそうです。


さぁクリスマスだ この一年何をしたの?
もうこの年も終り 新しい年が今始まったのさ
だからクリスマス 楽しんでほしいんだ
近くにいる人や親しい人、 お年寄りや若い人と

心からメリークリスマス そしてハッピーニューイヤー
今年は何も恐れることない、いい年であるよう願おうよ

そうクリスマスが来たんだ 弱い者にも強い者にも お金持ちにも貧乏人にも この世界は間違っているから

ハッピークリスマス 黒人にも白人にも 黄色い人や赤い人にも すべての争いをやめようよ

さぁクリスマスだ この一年何をしたの?
もうこの年も終り 新しい年が今始まったのさ
だからクリスマス 楽しんでほしいんだ
近くにいる人や親しい人、お年寄りや若い人と

心からメリークリスマス そしてハッピーニューイヤー
今年は何も恐れることない、いい年であるよう願おうよ

戦争を終わりにできる、もし君が望むなら 戦争終わりにしよう、今すぐに

この曲の中で、クリスマスは誰のものでもないとジョンは訴えました。
クリスマスは誰のものでもない 泣いている人 恵まれない人 そしてみんなのものだという想いをこの歌に感じました。
「クリスマスを祝おう 戦争は終わった」大国アメリカににらまれながらも執拗に声高に反戦を訴えました。
クリスマスというものは選ばれた誰のものでなくみんながささやかでも祝い楽しむために、たとえ戦争中であってもその想いは変わらないというジョンの願いを感じました。


私たちのナザレン教団と同じジョン=ウェスレーの精神に起源を持つ救世軍ではこの時期 社会鍋という活動をしています。
私たちは 世界中から 争いや差別がなくなり、だれもが平和で命の危機に晒されることのないクリスマスを迎えられるようにお祈りしたいと思います。



さて、
天使ガブリエルが神に遣わされて、マリアのもとを訪れました。

おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(28,31節)

聖霊が降り、神の御子を宿すというのです。
では、いったい、いつマリアは身ごもったのでしょうか。
天使が「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げた時でしょうか。
わたしたちには「いつ」なのかを知ることはできません。
ただ、一つ手がかりはあります。
それは35節の天使ガブリエルの言葉です。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」。
「あなたに降り」「あなたを包む」という二つの動詞に注目しましょう。
どちらの動詞も、未来形が使われています。

天使ガブリエルは未来の出来事として語っているのです。
当時マリアは12歳から14歳くらいであったろうと考えられています。
そのように幼いマリアにとってこの宣告はとても重いものであったと思います。
未来の予告を受けたマリアは、ただちに不思議な行動を取りました。
常識的には、賢くない選択です。
夫となるヨセフには相談しないで、親類のエリサベトを訪ねたのでした。
しかもルカは、たいへん意味深い言葉でこの訪問を物語っています。

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。(39,40節)

「急いで」という語は「熱心に」「懸命に」とも訳せます。
ですから、マリアは「決死の思いで」「一目散に」出掛けたのです。

しかも、「急いで」エリサベトを訪問したマリアは、
三ヶ月ほどエリサベトのもとに滞在してから家に帰ったのでした。
このマリアの不思議な行動はどのような意味があるのでしょうか。
ガブリエルの訪問を受けた後にマリアがとった行動の意味は明らかです。
自分が男の人と接触がないことを証明するためです。
これは、マリアの生きた時代を考えるととても不思議なことです。
未婚の女性が子を宿すことは、古代ユダヤでは大問題でした。
相手が婚約者であれば、すぐに結婚式を挙げればすむでしょう。
あるいは、その後に相手との結婚話が進めば大丈夫です。
そうではない場合、この女性はたいへんなトラブルに陥ります。
だからこそ、常識的にはマリアは、すぐにヨセフを訪ねるべきでした。
ヨセフに事情を話して理解してもらうのが一番の解決のはずです。
ヨセフとの間にできた子だということにしてもらえば良いのです。
いくらヨセフが正しい人でも、マリアの頼みなら断らないでしょう。
それが一番安全で確実な解決策です。
それなのに、なぜマリアは「急いで」エリサベトを訪ねたのでしょうか。
これでは、胎内の子はヨセフの子ではないと主張するようなものです。
そうなると、人々はいつマリアが身ごもったかと推測するでしょう。
マリアは自分をたいへん危険な状態に追い込むことになりかねません。
それを承知で、敢えてエリサベトを訪ね、三ヶ月も滞在したのでした。
三ヶ月は、子供を宿していることが明らかになるのに十分な期間です。
なぜこんな不思議な行動を取ったのでしょうか。

これはエリサベトを証人とするためだとしか思えません。
胎内の子が、ヨセフとの子ではないことの証人、
その子が、普通の子供ではなく、神の御子であることの証人です。
胎内の子は、聖霊による神の御子なのです。
マリアは自分の身を守るためにそうしたのではありません。
聖霊により神の力によることを、はっきりと証言するためでした。

神の御子は、聖霊により、全能の神の力によって宿りました。
マリアはその事実を、全力を傾けて証したのでした。
しかし、彼女は自分のことだけを証明しようとしたのではありません。
神の御子は、聖霊により、神の力によって宿られる。
これは、いかなる人間的な行為や考えをも超越した出来事です。
マリアは、御子が宿られたことが、完全に神の奇跡だと証したのでした。
聖霊により、神の力のみによって、神の御子は宿られる。
だからこそ、神の御子は、いまもわたしたちのもとに来て宿られます。
わたしたちの内にも、神の御子キリストが宿ってくださっています。
聖霊により、神の力によって。
パウロは「キリストがわたしの内に生きておられる」と語りました。
わたしたちは、信仰によって、内に御子を宿しています。
わたしたちは、もはや神なしに生きてはいません。
苦難の時も喜びの時も、すべての体験は神と共にしてゆきます。
苦難に遭うと、わたしたちはしばしば考えてしまいます。
「わたしは神に見捨てられたのだろうか」と。
内に共にいてくださるキリストが、そうではないことの証です。
マリアはエリサベトを訪ねた時、信仰的な確信を歌いました。

 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。   (47〜50節)

マリアの確信は、わたしたちの確信でもあります。
わたしたちにも、神は目を留め、偉大なことをなさったからです。
神の御子が、わたしたちの内に宿り、共にいてくださるのです!
キリストはわたしたちの内に生きておられます。
内におられるキリストは、ただじっとして眠ってなどおられません。
わたしたちを通して、ご自分の意志と望みを表されます。
主の母マリアの歌が、わたしたちの歌となるために。
それにしても、マリアの賛歌はなんと力強いことでしょうか。
この歌がわたしたちの生き方と考え方を変え、形作ることでしょう。

 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません(51〜54節)

このマニフィカートとして知られる賛美歌は、威厳と確信に満ちています。
ただの田舎娘がこんな働きを実現することなど不可能でしょう。
マリア自身も、自分が実現してみせると宣言しているのではありません。
これは、神の御子、救い主がなさる働きなのですから。
それでは、マリアはこの賛美歌と無関係な生き方をするのでしょうか。
救い主にまかせて、マリアは勝手に生きるのでしょうか。
いいえ、彼女はたとえ微力でも、この歌に沿う歩みをするでしょう。
思い上がる者を彼女自ら打ち散らすことはできないかもしれません。
しかし、彼女は思い上がる者の味方となって利益を得たりはしません。
権力ある者をその座から引き降ろすことはできないでしょう。
しかし、権力者の横暴を恐れたりその仲間になることはしません。
低くされている者を受け入れ、自分の所まで高めることはできます。
飢えた人々に食べ物を分かち合うことはできます。
富んでいる人々を追い返すことはできないかもしれません。
しかし、彼らに富の一部を貧しい者と分かつよう求めることはできます。
神がそうであるように、憐れみを忘れないようにすることはできます。
彼女は壮麗な神殿を建て上げる力はないかもしれません。
しかし、心から喜んで神に感謝し、礼拝を捧げることはできます。
マリアの胎内に宿る神の御子が、彼女にそれを望み、求めるからです。
わたしたちの内に共におられるキリストも同じです。
わたしたちに、そのような生き方を望み、求めておられるのです。


クリスマスは、神が人となってこの世に来られたことをお祝いする日です。
このことは、どこか遠くの国の何千年も前の出来事ではすまされません。
今日、この時も私たちは心のうちに神を宿していると言うことを知るべきだからです。

マリアとヨセフに託された御子イエスを「聖家族」と呼びます。
命は家族の中に生れます。
愛も家族の中に生れます。
私たちは神の家族として招かれているのですから、神の愛の中、神の命の中を歩むものとなりましょう。

メリークリスマス



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