日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 人生の分かれ道 2010/12/5 夕礼拝

<<   作成日時 : 2010/12/13 08:33   >>

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私は中学校3年生のクリスマスに始めて教会に行きました。
その時クリスマスソングをたくさん覚えました。

当時私はベースパートを担当していましたので、かなり大人になるまでクリスマスソングはベースパートしか歌えませんでした。

高校生になって、合唱部に入れられました。
3年生の時の先輩は中学時代に全国制覇をした人たちでしたから、かなり体育会系の練習でした。
最初に覚えた曲はワーグナーのタンホイザーでした。
この切り株の話は、ワーグナーのオペラ、タンホイザーを思い出させます。
歌劇タンホイザーの物語との共通点がありました。
罪を犯した主人公が、赦しを得るために教皇のところに行きました。
教皇から、もしもこ の枯れた杖から緑の葉が生えない限り、おまえの罪は赦されないと言われます。
枯れた杖から芽なんか出るわけがありません。
ところが一人の女性の自分の命を捨てる愛によってタンホイザーは救われます。
そして物語の最後には教皇から、芽が出た枯れた杖が届けられるのです。


イザヤ書のエッサイの株というのは、木の切り株のことです。
そしてエッサイというのはダビデという有名な王様のお父さんでした。
エッサイの切り株ということは、神様 から祝福と約束を与えられていたダビデの王家が、木が切り取られるように倒されてしまった。
そしてもう、神様からの祝福も、神様からの希望もなくなってし まったということを意味しています。

本来、芽は枝から、若枝は幹から出るものです。
直接に株から、あるいは根や杖から出るものではありません。
株と言われているのは、正しくは切株です。
その切株から芽が出、もう切り倒されて死んだと思われた木の根から、思いがけなく若枝が出だというのが、イザヤの言葉であり、この歌詞です。
その上に主の霊がとどまる。この芽とか若枝は新しい王を指しているようで、彼によって正義と公平が実現し、また平和が訪れると語っているのが、この聖書の言葉の大略です。
切株から芽、若枝が出るとは、預言者イザヤが生きた旧約のイスラエルを象徴し、御子キリストが降誕するまでの長いイスラエルの歩みを象徴する言葉です。

では、いったい切株や根から直接芽や若枝が出るとはどういうことでしょうか。

イスラエルは当時の周辺の国に比べて、当初は頑強なまでに王制を拒否して来ました。旧約の合言葉、イスラエルの真の王はただひとり神、ヤーウェなのです。

エッサイとは紀元前千年頃にイスラエルに繁栄をもたらしたダビデ王の父親の名です。このダビデにソロモンが続き、王朝は続きました。
そして、二百年後に活躍したのが預言者イザヤです。
彼はこの三百年を振り返り、また彼の生きた時代の中で、時の指導者や民に語っています。
この二百年に何があったのでしょうか。
ダビデ、ソロモンの繁栄の後のイスラエルの歴史は厳しさが増します。
紀元前921年に王国は南北に分裂し、イザヤの目の前で紀元前721年に北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされました。
この強大なアッシリアと他方、南西に控える古くからの大国エジプトの間で彼の国・南ユダ王国はまるで小舟のように揺れ続けます。
亡国一歩手前のところで、王も、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ピゼキヤと代わります。
従って切株とか根というのはエッサイから出たダビデ王朝の意でしょう。
事実、南ユダ王国はダビデ王家の血筋を引く王が続きます。
これら代替わりする王たちは、強国になびき、イスラエルの真の王である神ヤーウェを忘れ、正義や公平をないがしろにする故に神より切り倒されるという歴史が続きます。そうすると切株から出る若枝とは一面から言えば、予言者イザヤの期待をも表しているかもしれません。

今度の若枝は、つまり王は神に従い、正義と公平、そして平和を実現してくれるだろうかと。
しかしその期待は裏切られ、またしても切り倒されるという歴史が繰り返されます。
繰り返し期待が裏切られます。
王こそ罪の元凶だと言いたくなります。
もう王は捨てられるべきで、全く違った体制やリーダーが表れるべきだと思わせられます。
年輪を重ねた大きな切株、しかももう死に絶えたかに見える切株、しかしそこに予想すらしなかったひとつの若枝が出て来るというのがイザヤが語っていることです。

イスラエルの王制を振り返るとこんな気がして来ます。
しかし預言者サムエルの時代に民の声が勝ってサウル王の出現となりました。
そしてダビデ王家の歴史となります。

ところが、罪の元凶ともなった王朝の切株から、全く新しい若枝が出るというのがイザヤの預言です。
その王によって、きっと正義、公正が実現し、すべての生き物の間にある敵意さえも無にするような平和が到来すると彼は語ります。
このような長い歴史の苦悩の中から、もう人間的な期待や望みが絶えてしまったかに思われる中で、本当に主なる神を知り、「大地は主を知る知識で満たされる」(9節)ように人々を治める王(メシア)、が、主なる神の霊によって現れると彼は預言しています。そして、その望みがさらに練られ、清められて行くのがその後の旧約の歴史でしょう。私たちもその歴史をたどりながら、切株から生い出る若枝が、どのように練られ、どのような王として型取られるかを目で追いながら、御子キリストなる王の出現に至るまでをたどるべきでしょう。
どのような若枝、王が現れるのか、それを問い、待ち望むことこそ、クリスマスヘの大切な備えです。

使徒言行録8章26節以下にフィリポとエチオピアの高官との印象深い対話が記されています。
高官はイザヤ書52章13節以下の「王なる主の僕の歌」の「乾いた地に埋れた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。…彼は、羊のように屠り場に引.かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。…彼の命は地上から取り去られるからだ」に来て理解に窮しました。

これはいったいだれのことを言っているのかと。
それは彼の日頃仕えるエチオピアの王とはあまりにも違った王者の姿だったからです。しかし乾いた地に埋もれた根、切り倒された株から、その不毛と絶望を経て、まことの王者キリストが生い出たとフィピポは説きました。
このクリスマスに、旧新約聖書のもつ大きなスケールでキリストを待ち、キリストと出会いましょう。

ハネの福音書を学んでまいりましたが、洗礼者ヨハネについて学びたいと思います。
洗礼者ヨハネは「預言者」でした。
洗礼者ヨハネが登場した時代、すでに文字に書かれた聖書(旧約聖書)ができあがっていました。
神は聖書を通して語られるのであって、もう生身の預言者の口をとおして民に語りかけることはない、という意識がありました。
その中で、洗礼者ヨハネは「今、神が語られる言葉」を告げます。
キリスト教会において、洗礼者ヨハネは最後の預言者であると理解されています。
ちなみにユダヤ教においては、主イエスも預言者として数えられているようです。

洗礼者ヨハネの活動は伝統的な預言者のスタイルを意図的に再現したものでした。
活動の舞台である「荒れ野」は生きるために厳しい場所です。
しかし、イスラエルの伝統の中では、神との出会いの場でもありました。
生きるか死ぬかのギリギリのところで、それでもなお自分を生かしてくださる神の存在を身近に感じ取ることができるのです。
洗礼者ヨハネはこの荒れ野で神の声を聞き、町に住む人々に語りかけます。
だから彼は「声」(3節)と呼ばれます(ちなみにこの箇所はイザヤ40章3節の引用ですが、福音書は原文を少し変えて引用しています)。
「毛衣と革の帯」は、列王記下1章8節に伝えられている預言者エリヤと同じ服装です。「いなごと野蜜を食物としていた」は、荒れ野の中でかろうじて手に入れられるものだけで生きていた、すなわち極限の禁欲と断食のような生活をしていた、ということだろうと思います。
このように、ヨハネは典型的な預言者だったのです。

洗礼者ヨハネが呼びかけたのは「回心」でした。
ヨハネにとって「差し迫った神の怒り」(7節)が問題でした。
そこから救われるために必要なことは「悔い改め、回心」(ギリシア語で「メタノイアmetanoia」)でした(2節)。
本来人間は神に向かうものとして創造されたものです。
しかし、それと同時に神から離れてしまおうとする性質も同時に備え持っています。これはいわば正と負の関係だといえます。
metanoiaの"meta"とは「変える、移す」ということ、"noia"とは「考えたり、判断するときの基準、筋道」のことです。
つまり、自分が今まで行ってきたことを悔いて、思いを変えて、行いを改めることを言います。
悔い改めは生き方の一部の手直しではありません。
過去の過ちを後悔し悲しむだけでなく、心を入れ替え、態度を変えよ、
という意味です。
生きる姿勢全体の方向転換であると言えます。
この悔い改めは、すべての人に求められました。

「自分たちはアブラハムの子孫だ」という誇りや安心感は、神の裁きの前では何の役にも立ちません(9節)。
すべての人が今、回心しなければならないのです。
しかしこのことは逆に、どんな人でも今、回心すれば救いにあずかれる、という希望のメッセージにもなりました。
(こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9節)。
そして、その回心のしるしが「洗礼」だったのです。

ヨハネの悔い改めの説教の結果、彼らは自分の罪を告白してバプテスマを受けました。悔い改めには必ず罪の告白が伴ないます。
「告白」のもともとの意味は、「神が見ているように見る。」ということです。
神が罪だと言われているものに、自分も罪であると認めることが告白です。

例えば、運転していて信号無視をしてきた人が、聖書にある、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」という戒めを読むとします。
そこで彼が、「私は、今まで他の通行人に、嘘をついてきました。」と神に申し上げる時、罪の告白をしたことになります。
信号無視は危険運転でもありますから、「私は暴力行為や殺人をしました。」と言ってもいいかもしれません。
ところが、「誰でもやっていることなんだから、今さら何を。」と考えるのであれば、それは告白ではありません。
聖書には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者は、あわれみを受ける(箴言28:13)」とあります。
また、「口で、言い表わせばいいんでしょう。『私は嘘をつきました。』」というのも、告白ではありません。
罪を言い表している相手は、神という人格をもっておられる方なのです。
それは、真実のこもったものでなければいけません。
聖書にはこう書かれています。
「罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。(ヨハネ4:8−9)」彼らは、ヨハネの説教を聞いて、悔い改めて罪の告白をしたのです。



「悔い改めよ。神の国は近くに来ている。」でした。
いきなり、「悔い改めよ」と告げたのです。
罪に対しての真理を、大胆に語りました。
相手が誰であろうが、関係なく、罪を指摘しました。


私たちの身の回りにも、私は別に悔い改めるほどの罪を犯していない。という考えをする人があります。
こういう人に、罪を説明し理解してもらうのはとても困難です。

あの人はどうせ受け入れないから…。
あの人は教会には足を踏み入れないと言っていたから…。
私たちはそう言ってあきらめてしまうことがあります。

バプテスマのヨハネは、第一声が「悔い改めよ」でありました。
自分たちこそは神に選ばれた民である。という自覚を持っているイスラエルの人々に語られました。
律法をかたくなに守り、何も非難されるところがない、と思っている人たちに対してです。

むしろ、私たちの身近にいる頑なな人よりも何倍も困難だったことでしょう。
しかしヨハネは、大胆に救い主の到来を告げたのです。


当時の王であるヘロデ王にも、大胆に罪の真理を語りました。
ヘロデヤとの結婚が律法に反している罪だと指摘しました。
そのことが原因で、ヨハネは牢に入れられ、首をはねられることになります。
しかし、バプテスマのヨハネは、相手の顔色をうかがうような人ではありませんでした。
真理のためには、命をかけていました。

パリサイ人、サドカイ人には、「マムシの末ども、誰が必ず来る御怒りから逃れられると教えたか。」と怒鳴りつけました。
形式的な、口だけの信仰生活を、悔い改めて実を結べ。
そうでないなら切り倒されるぞと迫りました。
パリサイ人、サドカイの人々は腹を立てたでしょう。
しかし、彼はひるみませんでした。

また、神さまを無視する群衆には、「悔い改めよ。」と迫りました。

そしてこのヨハネの洗礼は水による洗礼であり、メシアの到来を示すものでした。
また、そのとき彼らは、水に浸かるバプテスマをヨルダン川で受けました。
ヨルダン川の中に浸かることは、霊的には、死ぬ事を意味します。
バプテスマの儀式では、水が墓であり、その中に自分が入る事によって、罪に支配されていた古い自分が葬られることを象徴しています。
信仰者にとっては、こうした意味のほかに、キリストにつながれることも意味します。こうして、彼らはバプテスマを受けることによって、自分が悔い改めたことを公に示しました。

また、同時に大切なことは、「悔い改めにふさわしい実べ。」と勧め、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」ことへの警告でした。
洗礼者ヨハネが求めたことは、具体的な生活の改善でした。

神さまは、このバプテスマのヨハネのメッセージを通して語られたのです。
エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川全域の人々がヨハネのところに出てきて、罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けました。罪の悔い改めのバプテスマがなされました。まさにリバイバルでした。

バプテスマのヨハネは、人々の心の霊的な道備えをいたしました。
神さまの前に、曲がった、でこぼこ道、罪を指摘し、告白に導き、まっすぐに平らにしたのです。
救い主イエスさまに、人々の心を備えたのです。

キリストの教会が語るメッセージは、真理が大胆に語られなければなりません。
罪の罰である滅びについて語られなければなりません。
人に耳障りの良い、摩擦や衝突がないメッセージは、聖書のメッセージではありません。
人を恐れるとそのようになります。


カウセリングのクラスで学んだことです。
牧師がカウセリングを学んで、受け入れ、受容することを学ぶことは良いことである。
教会には預言者の働きがある、真理を大胆に語る必要がある、罪を罪と指摘することが必要だと言われました。
そうでないなら、罪からの救うために来られた主イエスは、必要なくなってしまうのだと。
自分の罪を認め、告白して、初めて救い主が必要とされるのです。
バプテスマのヨハネは、最初のその部分を人々に語り、救い主の道備えをしたのです。

バプテスマのヨハネは、どうしてこのように大胆に、真理を語れたのでしょうか。
彼は、この力を神さまからいただいていました。
荒野で、神さまと親密な交わりをいただいていました。
旧約聖書を良く読み、瞑想し、祈っていました。
ペンテコステの前、聖霊が下られる前は、神は特別な人に聖霊を与えておられました。
ですからこのバプテスマのヨハネは神の霊に満たされていました。
そして、自らの時と使命を知って、大胆に真理を語ることができたのです。

第二にバプテスマのヨハネは、救い主イエス・キリストを指し示し、紹介しました。

バプテスマのヨハネの働きはただ、人々に罪を指摘し、悔い改めを、迫るだけではなく、イエス・キリストを指し示したのです。
イエス・キリストを紹介しました。
彼は、自分の後から来る人を知っていました。
その方は、自分よりもさらに力があり、自分は履物を脱がせてあげる値打ちもないと言ったのです。

当時、履物を脱がせるというのは、奴隷の仕事でした。
私にはその人の奴隷になる資格もないほど、後からくる方が偉大であるというのです。
このとき、ヨハネ派というユダヤ教の一派の勢力は絶大であったといわれています。
バプテスマのヨハネは、人々の目を自分に向けるのではなく、人々の目をイエス・キリストに向けさせました。
バプテスマのヨハネは、自分が何者で、自分の使命が何かを知っており、それに徹しました。
並行記事のヨハネ3:30では、こう言っています。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

救い主イエスさまの道備えをするためには、自分を良く知り、自分を抑えるということが必要です。
自己を出したい人、自分のことを語りたい人は、その自分が邪魔をして、救い主イエスさまが人々の心に入りません。
「あの人は盛んになり、私は衰えなければいけません。」この生き方、姿勢が大切だということです。

イエスさまを人々に紹介するためには、自分を良く知るだけではなく、イエスさまについて、良く知らなければなりません。
彼は自分のしていること対比して、イエスさまがどんなに偉大であるかを人々に語りました。
ヨハネは、自分は水による洗礼を授けているが、イエスさまはご聖霊による洗礼を授けてくださると語ります。
バプテスマとは、それに浸かる、支配されるという意味です。
水は確かに表面を洗い清めますが、それは一時的な清めです。
しかし、救い主イエスさまの洗礼は、聖霊のバプテスマ、聖霊なる神さまに浸かる、支配されるということです。
水と聖霊では、全く違います。
さらに、「キリストの名による」洗礼です。
「キリストの中への」洗礼であるとも言えます。
私たちはキリストの中への洗礼を受けたものですから、キリストの死にもあずかって、古い自分に死にました。
しかし、それは新しい命に生きるということです。


テトス3:5にあるとおり、「聖霊による新生と更新との洗いをもって、私たちを救ってくださった。」とあります。
聖霊によって新しく生まれるということです。
これは、バプテスマのヨハネの、悔い改めのバプテスマとは違いました。次に聖霊のバプテスマは、聖霊に満たされる歩みです。
これは本当に力強い歩みです。
待降節を過ごしているわたしたちにも両面があります。
確かにイエスは2000年前に来られ、神の国はすでに始まった、という面と、最終的にいつか本当の意味で実現する、という面です。
また、それだけでなく、わたしたちの生活の中に日々「主は来られている」ということも大切でしょう。
この「日々の到来(アドベント)」についてはわたしたちの姿勢がいつも問われます。
わたしたちが回心と信仰を持って受け入れなければ、日々のアドベントは受け取れません。
その意味で、洗礼者ヨハネのメッセージは今のわたしたちにとっても切実な呼びかけだと言えるのではないでしょうか。
自分をわきまえイエスさまのことを良く知るときに、私たちは、イエスさまを他の人たちに紹介することができます。
イエスさまの道備えをすることができるようになります。
バプテスマのヨハネが受けた聖霊の力と同じ力が私たちにも注がれています。
私たちもキリストの弟子として、人々がイエス・キリストさまに出会い、救われるための道備えをする者にならせていただきたいと決心しませんか。
そのためには、たとえ人に嫌われようと、真理を大胆に語る。
そこにこそ本当のクリスマスを 喜びを持って迎えることが出来るのではないでしょうか。
真の道を知り、その命の道を歩むかどうかにかかっているのです
このことを祈りつつ実践したいと思います。

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