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zoom RSS 来るべき主を知る 2010/11/28 ヨハネ1:1-14

<<   作成日時 : 2010/11/28 12:44   >>

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教会のもみの木の飾り付けをしました。
この界隈では一番乗りでしたが、街中はクリスマスムード一色です。

そろそろ2010年の重大ニュースなどをまとめる時期になりました。
今年1年間を振り返って、みなさんにとってどんな年だったでしょうか。

世の中的には明るいニュースが少ない1年であったように思います。
昨日ラジオを聴いておりましたら、スポーツにおいてもサッカー日本代表だけが盛り上がったものの、それ以外はあまり大きなニュースがないなどと言っていました。

さて、初代教会はクリスマスではなく、イースター(主の復活祭)を盛大に祝っていたそうです。
イースターはユダヤの伝統における過ぎ越し祭のときでしたから 祝いやすかったということもあったと思います。
このイースター前のレントの期間には断食をし、祝い事を避けました。
洗礼もこのイースターだけに執り行われたそうです。

今から約1500〜1600ほど前から、イースターではなくクリスマスが祝われるようになったと伝えられています。
丁度そのころ(476年)西ローマ帝国が没落しました。
西ローマ帝国の滅亡は、一般的にはゲルマン民族の大移動によって滅亡したといわれています。
たしかにゲルマン民族は優秀で力もありました。
しかしこの西ローマ帝国の力も弱っていました。
天候の不順などから農作物の不作が続き、生産能力が低下していました。
また統治者たちは、ただ自分の出世のために働いていただけとなりました。
さらに、侵入してくるゲルマン民族との戦いのために多くの傭兵を雇う必要が生じました。
都市に重税をかけ、経済が没落していきました。
塩野七生しおの ななみさんの『ローマ人の物語』にはこうありました。
パックスロマーナと呼ばれたローマ帝国が最盛時代の金利は年率12パーセントだったのに、この時代にはたった4パーセントにまで下がったと言われています。
30万人だったローマ軍は60万人に倍増し、それを保持する税は重くなりました。
農地の借地料は10パーセントから50パーセントに跳ね上がり、耕作を放棄する農民が続出し、さらに税をまかなうために借地料が上げられるという悪循環に陥っていたそうです。
バブル崩壊後の日本のような状況だったのかもしれません。
そんな中だったからこそ、人々は光の到来であるクリスマスを祝うようになったのかもしれません。



初代のキリスト者は、「主イエス・キリストは十字架と復活によって罪と死を滅ぼし、永遠に生きておられる救主である」という信仰を告白し、迫害に耐え、信仰を守り通し、教会は全世界に広がって行きました。
実は12月25日は、ローマ帝国の祝日で冬至のころの太陽神ミトラの祭でした。
その祭日をキリスト教化してクリスマスとしました。
キリストは「義の太陽」(マラキ4:2)と呼ばれる救主です。
そこで太陽神という偶像を退け、冬至を境に昼の時間が長くなるので、12月25日を闇を追い払う義の太陽であるキリストの降誕日・クリスマスとし、今では全世界でクリスマスが祝われています。
「暗闇の中に輝いている光がある。イエス・キリストの誕生は、その光の誕生であり、私たちは、その暗闇に輝く光を見て、『天に栄光、地に平和』と歌いつつ生きていこう」とクリスマスの祝いを始めたのです。
「お先真っ暗に思える中で、光を仰いで生きる。」それがキリストを信じる姿だからです。クリスマスを祝うというのは、そういうことです。

クリスマスの前、4週間の期間を「アドベント(降誕節)」と呼びます。
キリスト降誕を祝う心の備えをしますが、本日はアドベント最初の日曜日です。

私たちは、この世界の造られた日付を正確には知りません。
ずーっとずーっと昔に起こりました。
この世界の初めよりずっと前に、そのことばが神とともにおられました。
今日のみ言葉には、「初めにことばがあった。」
と書かれています。
この「ことばは神様とともにあった。」
というのです。
初めにおられた神であることばは、神の子供と呼ばれることもあります。
神はすべてのものを造られました。
見える物も、見えない物も、すべては神によって造られたのです。
使徒ヨハネは、「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」(10節)と告げています。

キリストは「すべての人を照らすまことの光」としてこの世に来られました。
キリストは一時的に来られたのではなく「彼は世にいた」(10)お方でした。
いいえ、それだけでなく、「世は彼によってできた」(10)のですから、天地が創られたときから居られたのです。
しかし、残念ながら「世は彼を知らずにいた」(10)のです。
生きとし生ける者、だれ一人としてこの光から洩れる人はいません。
すべての人がこの光に照らされるのです。
私たちがそのことを自覚さえすれば、光が有するすべての賜物を我がものにすることができたのです。キリストはお客様として来られた方ではありません。
キリストは「自分のところきた」(11)のに、「自分の民は彼を受けいれなかった」(11)のです。


讃美歌に「この世の闇路を照らしたもう、妙なる光の主はきませり、主はきませり、主は、主はきませり」と歌われています。
まことの光、妙なる光はイエス・キリストを指しています。
キリストは「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は闇のうちを歩く事がなく、命の光を持つであろう」(ヨハネ8:12)と私たちに呼びかけています。

この神の出来事を伝える聖書のクリスマス物語は、それをよく読んでみますと、そこには生きることの不安と悲しみが渦巻いています。
『ルカによる福音書』は、イエスの両親となったヨセフとマリアがローマ皇帝アウグストゥスの勅令に従って、人口調査のために,身重の状態でナザレからベツレヘムまで旅をしなければならなかったし、宿屋には泊まる部屋もなかったことを記します。
それは、社会と状況に振り回されなければならかかった人間の姿そのものです。
世界的に豊かだといわれる日本において全国に住む家を持たない人がどれだけいるでしょうか。

クリスマスの物語に出てくる羊飼いたちは夜通し羊の番をして野宿をしなければなりませんでした。
羊飼いは当時、差別の対象ではありませんでしたが一番底辺にいた人たちです。

東方の博士たちは将来の不安を抱えて砂漠を旅します。
しかし、そこで神の光が輝いたのです。
羊飼いたちは、その光の中で「天に栄光、地に平和。あなた方の救いが現れた」と聞きます。
東方の博士たちは、不思議な星に導かれます。
ヨセフとマリアは、貧しい家畜小屋の中で、そのすべてを体験します。
それらのクリスマス物語は、すべて、状況に翻弄され,貧しく、悲しく、つらく生きていかなければならない中で、人生が暗闇でしかないと思える中で、神の救いの光が与えられたことを伝えます。
そして、彼らが救いとして見出したものは、家畜小屋の飼い葉桶に眠る小さな赤ん坊でした。
それが救いのしるしだと聖書は語ります。
人間的に見れば、全く無価値なものに過ぎないと思えるようなもの、飼い葉桶の中の貧しく小さなキリスト、そこに神の救いが宿ったのです。
それが小さなキリストであるのは、それが、どんな状態の中でも決して揺るがない神の救いの確かな希望の根であるからです。
希望は、華々しさの中にあるのではありません。
希望は、貧しく、弱く、つつましやかな飼い葉桶の小さなキリストにあるのです。
闇の中の光は星でした。
太陽のように全てを照らすだけの光の量はありません。
しかし、光の中でなく、夜の闇の中だからこそ東方の博士たちを導くだけの輝きを持っていたのです。

このことを知る人は、だから、自分の人生を、根を持ったしっかりとした歩みの中で生きることができます。
神の救いを見た者は、たとえそれが現実的には多くの苦労を負わねばならないものだとしても、自分の人生を救いの光の中で歩むことができるのです。
神の救いのしるしを見出す者は、たとえそれが苦労の多い人生であっても、生きることを喜ぶことができるのです。
だから、聖書のクリスマス物語の人々は、「そのことを心から喜んだ」と聖書が伝えるのです。

さて、現代に生きる私たちは、どこに自分の救いを見出すことができるでしょうか。
自己保身の争いや駆け引きを繰り返している政治でしょうか。
私たちを動かし,支配しているように見える経済・お金でしょうか。
高級外車に乗り「セレブ」とよばれる人たちのような贅沢な生活でしょうか。
それほどでなくても、人間関係がうまくいったり、まあまあの生活ができたりするささやかな幸せでしょうか。
ただ、いずれにしても言えることは、私たちを救う神の光が,確かに、私たちに与えられているということです。
その救いのしるしを私たちはクリスマスに覚えるのです。
それは、ちょうど東方からの博士たちが神の光の星に導かれて砂漠を旅したように、私たちもまた、その神の救いの光を見て生きるということを意味しています。
クリスマスの出来事は、2000年前の歴史の出来事ではなく、今、ここで、わたしやあなたに起こる出来事にほかなりません。
クリスマスを祝うということは、そういうことです。
最初にクリスマスを祝ったローマ時代のキリスト者たち、そして今、クリスマスを祝おうとしている私たちが、「暗闇を照らす真の光があって,世に来た」、「救いはその神の光にある」ということを確信する時、それが「クリスマスの時」にほかなりません。
私たちの状況は、確かに苦しいものがあります。
不安も限りなく増大しています。
しかし、「暗闇を照らすまことの光があって,世に来た」のです。
だから、私たちは、ローマ時代のキリスト者たちがクリスマスを祝ったように、クリスマスを祝い、聖書のクリスマス物語の人々が、神の救いの光に導かれて生きたように、その光の導きを信じ、その示す道を歩んでいきましょう。
「あなたの救いが与えられる。」この言葉を宿して,この時を過ごしましょう。

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