日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 収穫の主に感謝 2010/11/21 マタイ9:35-38 

<<   作成日時 : 2010/11/21 20:54   >>

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かつて私が参加した宣教セミナーにおいて、この箇所からの説教がありました。
それを聞いて、私ははっとしました。
自分は「収穫が多い」ということを信じているのだろうか、と考えさせられたのです。
たしかに、ナザレンの教職者が足りませんから、「働き人が少ない」という箇所は確かにアーメン。であります。
しかし、自分の身の回りに収穫があるということを本当に信じているだろうか、その危機感を持っているのだろうか。と考えさせられました。
でも、今日はこの話はしません。

さて、主イエスはすべての町や村を回っておられました。
聖書にはよく、すべてという言葉が出てきます。
何度かお話をいたしましたが、神のなさるすべては、すべてであると読みます。
ですから、すべての町や村をめぐっておられたのであります。
会堂で教え、福音の力によってあらゆる病気やわずらいを治しておられました。
すると、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になりました。
羊飼いはがいない羊は、食物を得ることができません。
瀕死の状態の羊のように弱りはて痛々しく、絶望の淵にある人々をご覧になられたのです。
当時は、民衆の生活は苦しく、日々の糧を得ることすら難しい時代でした。
貧富の差、社会的な不正義、抑圧する指導者など、さまざまな原因が考えられます。
先行き不安定で、希望の持てなかった時代、どことなく現代社会と重なって見えます。
主イエスはこのような有様を見て、深く哀れまれたのであります。

ここで用いられている言葉は、共感福音書のイエス様の思いにのみ用いられている言葉です。
語源をはらわた、内臓に由来する言葉であります。
日本語でも「断腸の思い」という言葉がありますが、まさにそのような思いでおられたのです。
別の約の聖書には、「腸のちぎれる思いに駆られた」となっています。

この時も、そのような思いで民を哀れまれ、弟子達にこうおっしゃいました。
収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。


主イエスは、疲れたもの、重荷を負いたるものは私のもとに来なさい。とおっしゃいました。
自覚的に、自分が疲れているから、と自覚して自らの足で主のところに来ることのできる人はまだいいのです。

しかし、現実にはそうではない人たちが沢山いるのであります。

この時、弟子達自身は、まず、収穫の主に祈るように、との教えを受けます。
弟子達は、まず神に祈ります。
この働き手は、神から送り出されるものであります。

主イエスは、12名の弟子を呼び、汚れた霊どもに対する権能をお与えになりました。
弱り果て、打ちひしがれている人々に、希望と救いをもたらす使徒として派遣するためです。
彼らが汚れた霊を人々から追い出すことにより、すべての病とわずらいを治すことができるようになるためです。
この働き手は、まさに神から送り出されたものであります。
主イエスは自分自身が、救い主であるという業を示したところで、
その救いを広めるために、権能を弟子達に授けたのであります。
この1節と同じ表現が35節でも用いられています。
あらゆる病気やわずらいを治す力があたえられたのであります。
驚くべきことは、このことを弟子達も受け入れたということです。
弟子達は、ほんの少し前までは、ガリラヤ湖で魚を取っていた者
収税所で人から税金を取っていた者たちであります。
多分、ここにお集まりの方々よりも、信仰歴の短い者達であったでしょう。


では、今日の私どもにとって「収穫」とは何でしょうか。
このことは重要なことです。
私どもが何を目標にして生き、働き、活動するのか。
このことによってそれが明確にされるからです。
その目標は、教会の中のことだけでなく、私ども個人の信仰生涯です。

農夫は働きます。
朝早く起き、田んぼ・畑に行き、野良仕事をします。
土を耕し、種を蒔き、肥料をやり、雑草を取り、労苦します。
何のためでしょう? 当然それは収穫のためです。
全ての労苦は、刈り入れの喜びを知っているからです。
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」 詩篇126:5〜6
この「刈り入れ」という言葉と「収穫」という言葉は同じ言葉であります。

また、日々の生活の辛さは、家庭の幸せ、喜びの基礎でもあります。
自分が蒔き、育てた実を刈り入れるわざでもあります。

第一に、収穫は私どもの人生の目標ということです。
収穫を願わない農夫はいません。
報酬を求めない労働者はいません。
食べていかなければならないからです。
そのためには、刈り入れを有効に行う知恵と努力が必要です。
労苦をした分、収穫もそれに応じて豊かになるのです。
それが喜びです。
働き甲斐があるというものです。
農夫は多くの収穫を願って、働くのです。
種蒔きは収穫に希望をおく自己投資です。
少年期、青年期において、自己をどれだけ耕したか、深く掘り下げ、種を蒔き、どう自己を育てたかによって、壮年期、老年期の成熟と稔りが変わってきます。私どもは、自分が蒔いた人生の刈入れをするのです。
教会もまた、刈入れを目標とします。
それは、個人の信仰と深いかかわりがあります。
伝道することが種蒔きです。
救うべき魂を求めて、福音を宣べ伝える使命を教会は与えられています。
種を蒔き、芽が生え出でると、お世話をします。
雑草を取る、栄養を与える。
それは実を結び、収穫に与るのです。
一個の魂はそのように育てられ、成長し、成熟すると、次の種蒔きをするように期待されます。
教会の伝道は、種を蒔き、その種が成長し、実を結ぶ。
そして、次の種を蒔き、刈り入れる。そういうサイクルのことです。

第二番目に収穫には働き人必要であるということです。
神の畑には、労働者がいます。まず、種を蒔く人が必要です。
そして、刈り入れる人も必要なのです。
私どもの信じる神は、人をして愛を伝えられます。
収穫の豊かさをこの世の人に与えようとなさいます。
それが神の恵みであり、神の計画なのです。
必ず、人間を通してご自身の計画を達成しようとされるのです。
本来は弱い人間を用いて、神の世界を豊かにされようと委ねられるのです。
それは、個人ではあなた、わたしという人間であります。
教会を通しての収穫に与らせ、救いの計画を遂行されるのです。
 コリント一3:6〜7 
 「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」
私どもはこの救いの計画の上に、置かれているだけなのであります。
成田教会が今、ここにあるのは、先達の祈りと種蒔きがあるのです。
召されて、天におられる愛兄姉、牧師たちがいます。
そういう先輩たちの、祈り、汗、努力、涙、労苦の実を、現在、私どもは刈り取っているのです。
あるいは、いつの日か実るであろう収穫のときを願いつつ種を蒔き続けているのであります。
私どもが今、蒔いた種は見える形で実を結ばないかもしれません。
5年後、10年後だってあるのです。
子の時代、孫になってから、ひ孫の時になって、祈りが聞かれた、実を結んだということもあるのです。
それでも、私どもは今の時を生かして、種蒔きをするのです。
神は種蒔きをする人を求められています。
教会は、時がよくても悪くても、伝道する使命があるのです。

三番目に、収穫は、神の時である。ということです。
時は、神の御手にあります。
み言葉を宣べ伝えている時に、神はご自身の栄光を現されます。
私達は、神の救いの計画の中で収穫の時を待っています。
ただ、時が経つのに身を任せているのではありません。
希望と喜びを持って待ち望んでいるのです。

この収穫の時に思いを馳せている私どもに、主イエスは、委ねられた務めになによりも忠実であることを求められるのです。
今、私どもは既に受けている恵みを証しすることが求められています。
私どもは何も持っていないように思われますが、最初に大切なものが与えられています。
キリスト者の使命は、神の愛、キリストの救い、聖霊の導きを生活のただ中で「証し」するということです。
そのことによって、あなたの傍らに居られる、傷ついて途方にくれておられる隣人に救いの恵みを分かち合うことができるのです。
何も恐れることはありません。
主は、世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。とお約束くださったからです。
この福音を携えて、世に遣わされてまいりましょう。

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