日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 信じる者となる 2010/11/14 ヨハネ20:24-31

<<   作成日時 : 2010/11/14 14:09   >>

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書物には あとがき、といいますか編集後記 という箇所があります。
本日の箇所は本文の最後の箇所とあとがきです。

「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に『私たちは主を見た。』と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った」

これは、今日でもよくある多くの方々の考え方だと思います。
私たちもだれかキリストの話しをしたときに、この類のことを言われることがあります。
先週学びました箇所で、他の弟子達は、すでに復活したイエス様に出会っていました。
しかしその時は、このトマスだけはいませんでした。
世の中にもそういう人がよくいますが、間が悪いといいますか、でも、逆にそれが普通なのかもしれません。
主イエスはなぜ、トマスがいるときに現れなかったのか。
そんな風に思いました。

もし、自分がトマスだったら、この教会に復活の主が現れて、そのときに自分だけトイレにいたら…。
神様のくせにどうして、私がいないときに現れるんですか とクレームをつけると思います。

そしてその後、復活の主イエス様はトマスがいる所にお現れになって、トマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われました。
キリストの最大の特徴は、この「復活」ということが「教え」ではなく、「事実」だということです。


NHKの大河ドラマで『龍馬伝』をやっています。
ご覧になっている方も多いと思いますが、龍馬の役は、福山雅治が熱演しています。
才能の幅も広く人気のあるミュージシャンの福山が大河の主演を演じるので、功を奏して高視聴率だそうです。
しかし、いくら福山のファンでも「私は、福山雅治の存在は信じるけど、坂本龍馬などという人は、架空の人物でしょう?信じないわ」と言う人はいないと思います。
真実の歴史というのは、人が直接見たという「事実」とか、確実に信頼できる情報からの話の集積であるはずです。
ある国が核兵器、集団破壊兵器を所持している、そんな話から戦争も起こるのです。
情報が確かかどうかは、実際に見聞きした人がどれだけその情報を正確に伝えるのか ということなのだと思います。
ビデオデータが流出したということも 情報を伝えたいという気持から起こったことなんだろうと思います。
そのような意味で新約聖書は、直接復活の主に出会った人たちの証言です。
言わずには居られなかった。
情熱に突き動かされて、伝えねばならないと命を懸けて語り、書き記したのです。

また世界の多くの地域で、また日本でも、特にキリシタンの時代には、多くのキリシタン達が、「それでも主は復活なさった神だ」と証言して、殉教していきました。
デタラメのことのために、人は死ねません。
キリシタン達が、死んだのは、それが事実だったからと、思いませんか?
つまり、イエス・キリストが復活なさった神であるということは、死を持ってしても宣言され続けてきた、確実な情報だということです。
ですから、間違いありません、イエス・キリストは、死から復活なさって今も生きておられる神だと私たちは伝えなければならないのです。


十字架の傷跡を体に残す復活のイエス様に対して、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白をします。
そのトマスに対して、イエス様が「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいました。
皮肉とも取れる御言葉です。
このイエス様の言葉が、本当は福音書本文の最後です。
読む度に、重たいボディブロウを打たれたような感覚になります。
ドシンと体に響く言葉がここにあります。
イエス様を「わたしの主、わたしの神」として信じる。
それは、その人間の単なる認識を意味しません。
それはその人間の、それまでの人生の死を意味し、そして新しい命の誕生を意味するのです。

私たちはここでトマスらに向けられた言葉によると「十字架の傷跡を体に残す復活のイエス様」を信じます。
その方を、「わたしの主、わたしの神」と信じるのが、キリスト信仰です。
今日の個所では、トマスの告白とは違うもう一つの告白の言葉が出てきます。
これは、イエス様がラザロを復活させる直前に、マルタがイエス様に対して告白したものと同じです。
つまり、「イエスは神の子メシアであると信じる」という告白です。
すべてが決定的な言葉ですけれど、特に「イエス」という名が決定的であることは言うまでもありません。
「神の子」とか「メシア」という言葉は、当時一般的な称号でもありました。
ローマの皇帝も自らを「神の子」としていましたし、「メシア」はユダヤ人の中では、油を注がれることを通して神様に聖別された人物を意味しますから、イエス様以外にもいくらでもいます。大祭司や王、また預言者も、そういう意味ではメシアです。しかし、「十字架の傷跡を残す復活のイエス様」を「神の子メシアであると信じる」信仰を証しすることは、当時の人々にとって命がけのことでした。少なくともそれまでの人生が終わることを意味し、時には、命が奪われることも意味することでした。

ヨハネはここで、読んだ人間が「信じてイエスの名により命を受けるため」に書いたと言っています。
イエス様の「名」が、問題なのです。
15章には、名に関して、イエス様のこういう言葉が出てきます。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。

この少し先では、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」という言葉もある。

「イエスの名によって命を受ける」はずの「あなたがた」(それは十二弟子のことだけでなく、信じる者すべての者です)は、イエス様が受けたように迫害され、その名の故に殺される。
それも神への奉仕として殺されることがある。
イエス様は、そうおっしゃっている。
殺されるとは、命を奪われることです。
日本でも、現人神と言われる人がいた戦時中は、「イエスは神の子キリストである」と信じ告白することは命がけのことだったのではないでしょうか。
その事実を、私たちは忘れてはいけないと思います。

ヨハネ福音書が書かれた当時、ユダヤ人の弟子たち、つまりユダヤ人でありつつイエス様を「わたしの主、わたしの神よ」と信じ、「神の子、メシア」と信じることは、命がけのことでした。
弟子たちは19節にあるように、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」隠れざるを得ない状況でした。
その前に「あの人のことは知らない」と言って逃げざるを得ない状況があったのです。
「イエスは神の子メシアであると信じる」信仰に生きるとは、そういう危険と隣り合わせのことでしたし、今でもいつ何時そのような状況になるか分からないことでもあります。
キリスト教社会の中でユダヤ教徒として生きることや、ムスリムとして生きるということもまた、そういう危険と隣り合わせであったのだし、今でも程度の差はあっても、同じ状況が続いている地域があるでしょう。
それでもその信仰を生きるとは、「この世における命」よりも「信仰における命」を選択するということを意味するのです。


「信じてイエスの名により命を受ける」とは、イエスの名によって迫害を受ける、殺されるという可能性があることを、イエス様ご自身がお語りになっていることを覚えておかねばなりません。
しかし、さらに覚えておかねばならないことがあります。
先ほどは15章の言葉を読みましたが、その一五章を挟むようにして14章と17章に、イエス様の名が何を信者にもたらすのかが出てきます。

最初に14:25以下をお読みします。

わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。



主イエスが甦られた日曜日に、真っ暗な部屋の中に隠れている弟子たちに吹きかけた命の息としての聖霊、それは父なる神様がイエス様の「名によって」お遣わしになった聖霊です。
その聖霊によって、弟子たちは、イエス様がお語りになったすべてのことを思い起こすことが出来、その意味が分かったのです。
イエス様は、その時、真っ先に「平和があるように」と語りかけました。
その「平和」とは、罪の赦しによって与えられる平和です。
つまり、イエス様の十字架の贖罪と復活によって罪と死の支配から解放されたことを信じる平和、あらゆる恐れから解放された平和、シャローム、神が永遠に共にいますことを知らされる平和です。
その平和が、この時、命の息としての聖霊、命の水としての聖霊によって、弟子たちに与えられたのです。

17:11には、こうあります。これは、弟子たちのためのイエス様の祈りの言葉です。

わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

さらに、弟子たちの宣教の言葉を聞いて信じる者、つまり、イエス様を見ないでイエス様の名を信じる者たち、つまり、私たちのためにこう祈って下さっています。

正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

イエス様の名前、それは時に迫害をもたらし、死をもたらすものです。
しかし、だからこそ、イエス様は「その名によって」の守りを祈ってくださいます。
そして、その名による守りとは、イエス様と父なる神様が一つの交わりをしておられるように、その名を信じる者たちが互いに一つとなり、同時に、父と子の愛の交わりの内に生きることなのです。
それが御名を知らされるということであり、御名を信じるということなのです。
そこに見ないで信じる者たちが生きる命がある。
それはすべて「息」や「水」としての聖霊のなせる業です。
私たちが今日も信仰に生きている、生かされている、礼拝をしている。
それは聖霊が注がれ、父・子・聖霊なる神様と共に生きる平和を与えられているからです。

ヨハネ福音書を特色づける言葉はいくつかあります。
その内の一つは、明らかに「命」です。
この福音書は、最初から最後まで命、それも信じる者たちに与えられる「命」について書いています。
初めに言があった。・・
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

ここに始まって、「命」という言葉は合計で38回も出てきます。
特に多いのは6章です。
そこは五千人の給食のしるしの後、命のパンを巡っての論争が記されている個所です。そこで主イエスは繰り返し「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」とおっしゃり、さらにこう言われました。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。・・このパンを食べる者は永遠に生きる。」

もちろん、主イエスの肉であるパンと血であるぶどう酒を飲むためには信仰が必要です。そして、その信仰は聖霊によって与えられるものです。
私たちは、聖霊を受けることによってイエス様を肉眼で見ることなく、イエス様の名を信じる信仰を与えられました。
そのことの故に、今日も私たちの真ん中に立ち、「平和があるように」と語りかけて下さるイエス様の命の糧であるパンとぶどう酒、私たちの罪の赦しのために裂かれた肉と流された血を頂くことが出来るのです。
そして、そのことにおいて私たちはこの世の命には死に、神の国に生きる命、父と子と聖霊の交わりの中に生かされる命に生かされるのです。

ヨハネは、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためです」と書きました。この「あなたがた」とは、この福音書を読むすべての読者のことです。
この福音書が紀元1世紀末に書かれたとして1900年もの間、一体、何人の人が読んできたか分かりません。
そして、何人の人が信じ、何人の人が信じなかったかも分かりません。
しかしまた、信じた人が、本当に信じたのか、本当にイエスの名を信じて命を得たのか、それも分からないという思いが、私にはあります。

主イエスが私たちの真ん中に立って拡げる両手、そこには十字架の傷跡が残っています。右の手に打たれた釘と左手に打たれた釘は、私たち一人一人が打った釘です。
ユダヤ人であれ、アラブ人であれ、日本人であれ、何人であれ、すべての罪人が、主イエスの掌に釘を打ちつけて殺したのです。
その釘と釘は、決して一つの釘になるわけではないでしょうけれど、主イエスの一つの体に打ちつけられた釘なのです。
トマスは、その釘痕を見た時に、ひれ伏して、「わが主、わが神よ」と告白せざるを得ませんでした。
その釘痕に自分の罪を見る、ただその時にのみ礼拝が生じるのです。そして、ただその時にのみ平和があるのです。
ただその時にのみ、イエス様の名によって命を受けるということが起こるのです。
そして、ただそのことにおいてのみ、私たちは主イエス・キリストにおいて一つになるのです。

異邦人も、神の民を自負するユダヤ人も、奴隷も自由な身分の者も、男も女も、皆、罪の赦しのために十字架に死んで復活して下さったイエス・キリストを信じて、罪を悔い改めて洗礼を受け、キリストの肉と血を分かち合う礼拝を捧げることが出来る時に一つになれる。
そして、ユダヤ人の父祖にして信仰の父であるアブラハムの子孫になる。
これは、私たちの願望ではなく、神様がイエス・キリストを通して新たに造り出して下さった神の国のヴィジョンです。
だから、私たちは絶えず目を覚ましてこのヴィジョンを見つめ、そのヴィジョンに向って前進するしかありません。

日曜日ごとに、復活の主イエスが私たちに与えて下さる命の言葉、命の息、命の水、命のパンとしての肉と血は、ただただそのヴィジョンを信じて前進するために与えられるのです。
鍵によって戸を締め切っていようが、そこに主は現れ、傷跡の残る両手を広げて「平和があるように」と語りかけて下さる。
そして、私たちに「信じなさい、そして、わたしの名を宣べ伝えなさい」と語りかけて下さる。
しばしば敵となり友となり、無関心にもなってしまう私たちにです。
敵を愛し、迫害する者のために祈り、友のために命を捨て、無関心な者に、「時は満ちた、悔い改めて福音を信じなさい」と語りかけたまうのです。
主イエスは、今日も、私たちに「あなたがたに平和がある。信じなさい」と語りかけ、「取って食べ、飲みなさい。ここに命がある」とご自身の命をパンとぶどう酒に託して分かち与えて下さる。
どうして、その言葉を聞いてひれ伏し礼拝しないでいられるでしょうか。
悔い改めと感謝をもって聖餐に与らずにいられるでしょうか。
主イエスの言葉を聞き、そのことを通して、主イエスを見る者にとっては、「あなたこそ、神の子メシアです。わたしの主、わたしの神です」という告白の言葉が心の底から言える言葉なのです。この告白をすることが出来る人は、幸いです。主イエスは、その幸いを、今日も与えんとして、ここに来て下さっています。信じることが出来ますように。


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