日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 新しい墓に 2010/10/31 ヨハネ19:38-42

<<   作成日時 : 2010/10/31 06:06   >>

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先週も「準備の日」からみ言葉が始まりましたが、今週も「その日はユダヤ人の準備の日で」と42節でまた繰り返されています。
つまり、この十字架の出来事が年に一回の過越しの祭りの前日であったということ
しかも、その祭りの初日が安息日とも重なる特別の日に備える日であったことが、強調されているのです。

過越し祭とは、ユダヤ人にとっては決して忘れることのできない出エジプトという救済の御業を記念するお祭りです。
エジプトの奴隷であり、民族絶滅の危機にさらされていた自分たちを、神様がモーセを立てて救い出してくださった。
そして、シナイ山で十戒を内容とする契約を結んでくださった。
そのことによって、イスラエルは神の民として誕生した。
ユダヤ人がユダヤ人であるが故の祭りです。
人間では決してなすことの出来ない、おおいなる業をなしてくださった神を讃美する祭りです。

そして、七日ごとに安息日を守ることも、十戒の中で神様に命じられていることです。その一つの理由は、神様が六日で世界を造り七日目を聖なる日として休まれたことを覚えるということです。
その日に、神の被造物である自分を覚え、神様を讃え、その安息に与るのです。
もう一つの理由は、神様が出エジプトをさせてくださったこと、奴隷の身分から解放してくださったことを覚え、神様を讃えるために安息日を守るのです。
創造の御業と救済の御業、それは切っても切れない関係にあり、その神様の御業の中に生かされていることを感謝し、讃美する。そこに神の民の生きる姿があります。

その過越しの祭り、特別な安息日を翌日に控えたユダヤ人たちは、処刑された者の遺体を残しておくことは出来ません。
それは汚れを身に帯びることであり、その地が穢れてしまうからです。
彼らは、処刑者を早く十字架から下ろして処刑者用の墓地に遺体を埋葬したいのです。その場合の埋葬とは、ただ遺体を布でくるんで穴に放り投げるか、ひどい場合は人里離れた所で禿鷹や獣に食べさせるかというものだったようです。
もちろん、葬式などしません。
十字架刑はローマ式の刑罰ですから、その辺りの処置はローマの総督ピラトの管轄になります。
そこでユダヤ人たちは早く殺して、さっさと始末するようにピラトに願ったのです。


しかし、驚くべきことが起こりました。
アリマタヤという地方出身のヨセフという人が、ピラトにイエス様の遺体を取り下ろしたいと願い出たのです。

考えてみると、他人が死刑囚の遺体を引き取るというのは、あまりに非常識です。
主イエスは、非国民、極悪非道なテロリストとして十字架にかけられているのです。
身内であっても、感嘆にはできなかったのではないでしょうか。
そんなことをすれば、自分たちは今までどおりに生きられなくなるからです。
今の世の中でも、家族の誰かが刑務所に入っていると周囲の人に知られれば、その家族は肩身が狭い思いをしますし、様々な不利益を被るでしょう。
現代の都会であれば、人目につかぬ生活は可能ですけれど、今だって田舎に行けばそれは無理な話です。

当時のユダヤ人社会は、それぞれの地域に建つ会堂(シナゴーグ)を中心とした共同体でありました。
そこであらゆる情報が行き交い、律法の規定に従った相互扶助の中で生活しています。
コミュニティから外れるということは聖別された食物を得ることも出来なくなることです。
食べ物を得るために、異邦人に他世ならければいけなくなります。
会堂から追放されれば父なる神を礼拝することが出来なくなるということです。
つまり、ユダヤ人として生きることが出来ないことを意味します。
そのリスクを負ってまで このヨセフは主の遺体を引き受けたのです。

このアリマタヤのヨセフ、彼はピラトに直接願い出ることが出来た地位や身分をもった人物です。
他の福音書によれば、彼はユダヤ人の最高会議の「議員」で「金持ち」でした。現代で言えば、国会議員の上に金持ちだということです。

ヨハネ福音書で「ユダヤ人たち」と出てくる場合、それは血統正しき民族としてのユダヤ人と言う意味です。
律法を守って生きているユダヤ人であると同時に、ユダヤ教の当局者、支配者層という意味をもっている場合が多いのです。
そして、それは即、イエス様の敵対者を意味し、イエス様を十字架につけた当事者たちのことでもあります。
31節や38節の「ユダヤ人たち」は、その意味です。
そこには、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」とあります。
ヨセフは、そういう意味での「ユダヤ人」の中のユダヤ人です。
でも、だからこそ、自分の仲間であるユダヤ人が最高会議で死刑に値すると決定したイエス様を、自分が信じていることを怖くて言えませんでした。

しかし、自分がイエス様の弟子、身内であることをカミングアウトしたのです。
それはつまり「ユダヤ人」として、最高会議の「議員」として生きていくことも出来ないと腹をくくったということです。
彼は、この時、「ユダヤ人」としての自分の息の根を止めたのです。
今日は、そのことがどういうことであるかを考えていきます。
しかし、そのためにも、もう少し先まで読んでいきたいと思います。

一章に記されていることですが、イエス様が誰であるかを最初に見抜いて告白したのは洗礼者ヨハネでした。
彼は、イエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」であると言いました。
そして、今、過越しの小羊が屠られる時刻に、イエス様がエルサレムで十字架に架かっている。
そして、イエス様から「まことのイスラエル人だ」と言われたナタナエルが、イエス様のことを「イスラエルの王」と告白したように、イエス様は「ユダヤ人の王」として十字架に磔にされている。
二章において、イエス様が最初のしるしを行われた時に登場したイエスの母が、十字架の下にいてイエス様の愛弟子の身内となりました。
そして三章で、ユダヤ人として最初に登場した議員でありファリサイ派に属するニコデモが、埋葬の場面に登場する。
そして、後で触れることですが、二章のエルサレムにおける最初の業である神殿浄化の際に出てくる「イエスの体」という言葉が、今日の個所の一つのキーワードとして出てくるのです。

つまり、福音書の最初の方に記される事柄がすべて最後の十字架と復活の場面に出てくるのです。
そういう意味で、この福音書は、最後までよくよく熟読した上で、最初から読み直すことによって、初めて一つ一つの出来事やその言葉の意味が分かるようになっているのです。
それは、今言ったこと以外でもいくつもあります。

ヨセフがピラトにそのような願いを出し、ピラトから許可が出ると、「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」というのです。

そのことを踏まえた上でニコデモですが、彼はエルサレムにおけるイエス様の言葉や業に触れて、圧倒されたのでしょう。
でも、そのことを周囲のユダヤ人に知られてはまずい。
そこで彼は夜の闇にまぎれて密かにイエス様に会いにきたのです。
その時の不思議な会話を細かく再現することは出来ませんが、イエス様は彼に、唐突に、こう言われました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは老人だったのでしょう。こう言いました。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエス様は答えられました。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

その後もまだ会話は続きます。
でも、いつしかニコデモの姿が消えてなくなり、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という、イエス様の言葉なんだか、ヨハネの教会の信仰告白なんだか判然としない、しかし、この福音書における決定的な言葉が記されるのです。

そして、ニコデモが持って来た没薬と沈香を混ぜた物とは、具体的にはどういうものなのかよく分かりませんが、沈香はアロエのようです。
いずれにしろ、香料や亜麻布と共に、人が死ねばただちに発し始める死臭防止のために使われるものです。
しかし、没薬や沈香は王侯貴族の葬りの際に用いられるもので、庶民には縁遠いものでした。
まして死刑囚とは無縁のものです。
また、墓の場所は「園」であったと記されていますけれど、これも王を初めとする特権階級だけのものです。
「だれも葬られたことのない新しい墓」もまた、元来は王に与えられるものです。
主イエスの時代は、議員や貴族階級の中に、まれにこういう扱いを受けて葬られる人々がいたということだと思います。
死刑囚として、惨めに死ぬはずのイエス様が、ピラトによって「ユダヤ人の王」という肩書を受けつつ死なれました。
そして今、そのピラトの許可のもと、突然弟子であることを表明した二人によって営まれているイエス様の葬りもまた、王としての葬りなのです。

あれよあれよと言う間に逮捕、裁判、処刑となってしまったイエス様のために、ニコデモが百リトラ、およそ三十キロもの没薬と沈香を予め用意していたはずもありません。彼は、この百リトラもの没薬や沈香を、自分の葬りのために用意していたのだと思います。
また、園にある「新しい墓」とは、マタイ福音書によれば、ヨセフが自分のために作っておいたものでした。

私たちもある程度の年齢になり、それなりの富を蓄えることが出来た場合、終の棲家として墓を用意したり、葬式代を用意したりして、「これで安心して死ねる」と言うことがあります。
ニコデモやヨセフも、そういう用意ができた人たちだったのであろうと思います。
自分の葬りと終の棲家のために用意していた物を、彼らはすべてイエス様の遺体に塗ったり、納めたりするために差し出したのです。
そこにはやはり、古き自分に死んで新たに生まれるという救いの現実の暗示があるのではないでしょうか。
彼らは今、ユダヤ人の習慣に倣った主イエスの葬りをしつつ、人の誉れを好み、ユダヤ人を恐れ、死を恐れていた自分を葬っている。

それが、ユダヤ人の準備の日で彼らがやっていることです。
しかし、実は、それはイエス様の復活の備えをしていることです。
また彼らが新たに生まれ、神の国を見、また入る備えをしていることになっている。
そういうことが、ここで言われていることなのではないか、と思うのです。


そこで最後に、「イエスの遺体」と訳された言葉について見ていきたいと思います。
皆さんも、聖書を読む時に、たまに注意深く読まれると、繰り返し出てくる言葉があることが分かると思います。
冒頭に言った、「その日は準備の日」もそうです。
この二つの言葉は単元を囲む枠だと分かります。「ピラトに願い出た」も二度出てきます。また、「ユダヤ人たち」という言葉も、微妙に意味が異なりますが、四回も出てきます。そして、もう一つ繰り返される言葉がある。それが「遺体」という言葉です。
31節に最初に出てきて、38節に二回、40節に一回で、合計四回出てきます。
でも最後の42節は、「そこにイエスの遺体を納めた」とあってもおかしくないのに、「イエスを納めた」と書かれています。
このことすべてに、意味があると思います。

「遺体」と訳された言葉はソーマという言葉です。
もちろん生きている人間の体、魂をのぞいた肉体のことを表します。
動物の体のことでもあり、犠牲として捧げられた動物の死体を指す場合もあります。
パウロが、教会のことを「キリストの体」と表現することもありますが、その時の「体」もソーマです。
しかし、その一方で、腐りゆく死体を意味するプトーマという言葉もあるのですが、ヨハネ福音書では使われません。
でも、マタイやマルコ福音書では、ヘロデに殺された洗礼者ヨハネの弟子たちが彼の「遺体を引き取り、墓に納めた」という場合は、腐りゆく死体としてのプトーマが使われます。
また、興味深いことに、マルコ福音書では、ヨセフがピラトに「遺体」引き取りを願う時の「遺体」はソーマが使われていますが、ピラトが、本当にイエス様が死んだかどうかを百人隊長に確かめた上で、「遺体をヨセフに下げ渡した」という場合は、プトーマが使われています。
ヨセフにとっては、丁重に扱うべきイエス様の「体」であるものが、ピラトにとっては腐っていく「死体」に過ぎないということだろうと思います。
そういう使い分け、取り扱いをする言葉です。

そして、ヨハネ福音書において、このソーマという言葉は、イエス様の「体」にだけ使われています。
そしてこの言葉が出てくる個所もまた福音書の最初と最後なのです。
その最初とは、先ほども言いましたように、エルサレム神殿を清めた時のことです。
そこで、イエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみる」とおっしゃいました。
ユダヤ人たちも、弟子たちも、何をおっしゃっているのか分かりませんでした。
でも、ヨハネは、こう付け加えています。

「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」

この「御自分の体」がソーマです。
そのソーマという言葉が、19章で4回出てきて、そして、20章で1回出てきます。
マグダラのマリアが、イエス様の遺体を墓の中に捜しに行ったのに、墓の中にその遺体はなかったという場面です。
イエス様は復活されていたからです。
イスラエル最大の救済の御業を祝う過越しの祭りの期間に、そして、神様の創造と救済を覚える安息日の翌日、「週の初めの日」、つまり日曜日に復活されたからです。
そして、この日に起きた出来事を通して、新しい神の民、キリスト教会が誕生しました。だから、私たちは、週の初めの日である日曜日に、主イエスの十字架の死と復活によって与えられている新しい創造と救済を感謝して礼拝を捧げるのです。

主イエス・キリストにおいては、終わりは初め、死は命の始まりだともうしあげました。
イエス様が、「成し遂げられた」とおっしゃって息を引き渡された時、人間の目には腐りゆく死体にしか見えないその体に槍を刺すと、血と水が流れ出たのです。
それが既に、「三日で建て直して見せる」とおっしゃった新しい神殿の建設の開始だと言ってよいのではないでしょうか。
血は罪の贖いのために流されるものであり、同時に命の象徴です。
そして、水はその命を生かす霊の象徴なのです。
その血と水が、イエス様の体、ソーマから流れ出てくる。
本来なら腐りゆく死体から、流れ出てくる。
その血と水を浴びる時、死んでいた人間が、新たに生まれる。そういう救いの出来事が起こっていく。
ヨセフとニコデモは、それまでイエス様に敵対するグループに属していた人々です。
世に属し、肉に属していた人々です。
しかし、その彼らが今、イエス様の体から流れ出る血と水を見、また浴びる中で、イエス様の弟子として誕生してくる。
そういう現実が、ここには記されているのだと思います。

だから墓に納められたのは、「イエス」なのです。
腐りゆく死体となって墓に納められ、そこを終の棲家とする人間ではない。
墓に自ら入り、その墓を復活の場とする真の人間でありつつ真の神である。
ここに記されていることは、そういう信仰の告白、キリスト証言なのだと思います。

ヨーロッパの古い礼拝堂もまた、その地下は墓地です。
墓は縁起が悪い場所なのではなくて、復活の場です。
今月の第三週、墓前礼拝を持ちました。
私たちが墓前に行くのは、死者の霊を慰める供養のためではなく、キリストを讃美するためです。
教会は、死を打ち破ったキリストの体なのです。
私たちは、水と霊を通して、その教会の中に新たに生まれたキリスト者です。
そのキリスト者の命は、私たちのために死に、私たちのために甦ったキリストの肉と血の徴であるパンとぶどう酒を、聖霊の注ぎの中で、信仰をもって頂くことを通して生かされるものなのです。
そのことを通して、私たちは主のものとされ、すべての恐れを取り除かれて、主のために生き、そして死ぬことができるようにされるのです。
そこに永遠の命がある、そこに神の愛があるのです。

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