日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 預言の成就 2010/10/24  ヨハネ19:31-37

<<   作成日時 : 2010/10/24 12:14   >>

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一般的に毎週土曜日は、牧師にとって非常に重要な日です。
朝早く起きて祈り、聖書を読み準備をします。
私の場合、忘れなければ ライフライン を観ます。
そしてそれまでに準備し練ってある説教をいじり始めます。


「その日は準備の日であった」
今日の箇所の冒頭にはそうあります。
何の「準備の日」であるかと言うと、過越しの祭りを迎える準備の日です。
ユダヤ人は夕方から一日の初めを数えます。
ヨハネ福音書では、その準備の日、つまり過越しの小羊が屠られる日、その時刻に、イエス様が十字架の上で死なれたのです。
それは、その当時の多くの人の目には隠されてはいましたが、主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」として死んだということです。
神様から遣わされた神の独り子が、世の罪をその一身に背負って神の裁きを受けられました。
そのことを通して、すべての罪人の罪を贖い、信じる者すべてに永遠の命を与えるという御業を成し遂げられたのです。

ユダヤの1日は日没から始まります。
その日の夕刻、つまり、金曜日の夜から安息日が始まります。
特に、主イエスが十字架に磔にされた翌日の安息日は、過越しの祭りの初日と重なる特別な安息日でした。
そして、過越しの祭りの初日を、ユダヤ人は新年、新しい年の最初の日とすることを神様から命じられていました。
日本で言うところの大晦日と年度末、特別な日の前日、準備の日に、にイエス様は十字架に磔にされたのです。
つまり、ここにも「終わり」があります。
新しいことが始まる前の 終わりの日です。
一年の終わりの日の夕刻前に、主イエスはすべてのことを成し遂げられ、地上の命の終わりを迎えられたということです。

もうあと数時間で、新しい年が始まり、出エジプトという神様の救済の業をお祝いする祭りが始まるのです。
しかし、実はそれと同時に、神様の新たな救済の御業が始まる。
それはここにいるユダヤ人には全く分からないことでした。

日本人も、かつては大晦日には家中で大掃除をして、風呂にも入って、身も心も清くして新年を迎えたものです。
ユダヤ人も同じです。
彼らは、新年の過越しの祭りが始まる前に、イエスの死体をさっさと葬りたいのです。
何故なら、彼らが大切にしている律法、申命記21章にこう記されているからです。

「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」

ユダヤ人にとって、イエス様は死刑に当たる罪を犯した罪人であり、神に呪われた者です。
そういう者の死体は、その日のうちに埋めなければならない。
そうでなければ、自分たちにまで呪いが及び、汚れてしまうからです。
新しい年が始まる前に さっさと済ませてしまいたい。
ですから、さっさと止めの一撃を加えて殺し、その死体を取り下ろすことをピラトに願い出たのです。

「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た」と聖書にあります。
主が死んだかどうかを確認しようとしたのか、死体に対してさらなる侮辱を与えようとしたのか、それは分かりません。

他の福音書にもこれは旧約聖書が実現するためであった、という言葉がよく出てきます。
福音書記者のヨハネは、福音書を記しながら、旧約聖書に記されている神様の言葉を全く新たな目で見たのだろうといわれています。
その目でみた光景を記しながら、そこに実際に何が起こっているのかが分かったのです。
その感激、驚き、讃美に満たされて、彼は旧約聖書を引用します。

「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある。」

主イエスは過越しの小羊として十字架に磔にされたということです。
ヨハネ福音書は、最初から主イエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と告白しています。

過越しの小羊とは、一家で丸ごと食べるものであり、その肉を家の外に持ち出してはなりませんでした。
ですから「その骨は折ってはならない」と神様に命ぜられているのです。
その命令が、新たな過越しの小羊として屠られる主イエスに対しても結果として守られたというのです。
ユダヤ人が表面的な意味で神様が定めた律法の字句を守ろうと必死になっている裏で、実は神様ご自身が、ご自身の言葉をことごとく実現させている。
御自身の独り子を裁くことを通して、これほどまでに人間の罪を赦すという信じ難い救いの御業を実現させている。
ほら、これも見なさい、ここも見なさい。
ヨハネは、そう証しをしているのだと思います。
実は、この死体となったイエス様、十字架に磔にされているイエス様は、まさに死の災いから救い出されているお方である。
神様がそのお体の骨の一本までお守りくださっているお方である。
何故なら、この方は、神様に従い、その御業を成し遂げられたお方であり、今、その方の体を通して、神様は新たな救いの業を始めておられるからだ。
そういうメッセージが、この詩編の引用には隠されていると思います。
そしてそれは、並んで出てくる「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」というゼカリア書の引用を見ることを通して、次第に明らかになって来ます。

そのゼカリアの預言の言葉を見る前に、今一度、主イエスの体、十字架上で死んだ体に槍が刺された時に、血と水が流れ出たということを確認しておきたいと思います。

人間の体には水と血があることは古代人も知っていました。
ですから、「水と血を通って来られた」とは、他の所で言われているように、「イエス・キリストが肉となって来られた」(4:2)ということです。
私たちと全く同じ肉体をもって来られた。独り子なる神であるイエス様は人間となられたということです。

「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、”霊“はこのことを証しする方です。”霊“は真理だからです。証しするのは三者で、”霊“と水と血です。この三者は一致しています。」

この手紙の言葉にも二重性や象徴性があることも明らかです。

しかし、ヨハネ福音書において「水」は「霊」ととっても重要なキーワードです。
サマリアの女が切実に求めた「生ける水」は、命の泉としてのイエス様から湧き出てくる聖霊のことでした。
また、水の祭典でもある仮庵の祭りが最高潮に達した時に、イエス様は、こう叫ばれました。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れでる。」

この「生きた水」もまた聖霊のことだと、ヨハネはちゃんと注釈を書いています。

主イエス・キリストは、肉となって来られた。
そして、人間として死んだ、その人生は終わった。
そのことを「血と水が流れ出た」という言葉は明らかに示しています。
しかし、それと同時に、この方の体から流れる血は、すべての人間の罪を贖うための血であり、この方の体から流れる水とは、信じる者を新たに生かす聖霊なのです。
だから、キリスト教会は、次第にこの血を聖餐の血と受け止め、水を洗礼の水として受け止めるようにもなったのです。

預言者とは、一般には未来を予言する人というイメージがあります。
しかし、その未来は、現在の状況認識抜きに語られることはありません。
そのために神様によって選び立てられた都がエルサレムです。
エルサレムとは、そこに建つ神殿や神の選びの民の象徴でもあります。

しかし、私たちは、主イエスがエルサレムに関して預言された言葉を知っています。
マタイ福音書において、主イエスはエルサレム神殿の崩壊を預言されました。

また、ヨハネ福音書においては、エルサレムにおけるイエス様の最初の業は、腐りきった神殿礼拝を清めることであり、新たな神殿を三日で建て直すという預言でした。
そして、その新たな神殿とは、イエス様の体のことです。
それは十字架に磔にされた体であり、復活された体のことです。
その預言が、今、実現しているのです。
今、新たな神殿が建てられつつあるのです。
その神殿から、血と水が流れ出している。

ゼカリアは、その点について、このように神の言葉を伝えます。

「その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめる。」
この「わたし」とは、言うまでもなく神様ご自身のことです。
「彼ら」とは、エルサレムの住民、神に選ばれ、愛されているユダヤ人です。
ここで、神様は、ご自身を刺し貫く者たちを攻めてくる国を滅ぼすと言っているのです。
御自分を殺す者たちを攻める者を滅ぼす、と。
つまり、御自分に敵対する者を守るために戦い、勝利するとおっしゃっているのです。とんでもないことです。

さらに、御自分を刺し貫く者たちに「憐れみと祈りの霊を注ぐ」とおっしゃっている。
様々な意味で、私などの理解を越える言葉です。
神様の心は理解を越えます。
恐らく、こういうことをおっしゃっている。
神様は、御自分を刺し貫く者たちを憐れむ、そして、彼らのために祈る。
そして、そのことが分かるように霊を注ぐ、と。

その時、エルサレムの住民にどういうことが起こるのか?

「彼らは、彼ら自身が刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

神様の憐れみと祈りの中に置かれた時、そして、聖霊を注がれた時、神を殺す者たちは、初めて自分が何をしてしまったかが、分かるのです。

「親孝行したい時に親はなし」とか「後悔先に立たず」とか言われます。
親がどれだけ自分を愛してくれたかは、親が死んだ後に分かる。
そういうことはあるでしょう。
もちろん、愛してくれなかった親もいるし、愛されなかった子もいる。
そういう意味では、「愛したいと思った時に子はいない」ということもあるし、それは恋人同士でも夫婦同士でもあることです。
私たちは、愛を求めつつ、愛を拒絶する性格をもっています。
愛されたいのに、愛を拒絶する。
愛したいのに、愛することを拒絶する。
人は愛によって生きる存在ですから、愛さないことは殺すことです。
愛されないことは殺されることです。

愛し合うべき関係の中で、一方が他方を完全に無視するということがあるとします。
それは、その人の存在を抹殺することです。
目を合わせないどころか、目でも見ないとすれば、最早、そこにはその人はいないものとしていることです。
もし、その人が、私の愛を求めていたとすれば、私の無視の態度は、鋭いトゲとなってその人を刺し貫くでしょう。
それは、憎しみから罵詈雑言を浴びせるよりも鋭い傷をつけて抹殺することである場合もあります。

神様が本当にいたとして、私たちは本当に神様に造られ、愛されているとした場合、私たちが「神様などいない」と思って生きていることは、神様にとっては愛が無視され、存在が無視されることに違いありません。

それは、神様の心を突き刺すことです。
また、神様は私一人を愛しているわけではなく、私の目の前にいる人もいない人も、すべての人を愛しているとすれば、そういう人間同士が無視し合い、存在を抹殺し合っていることは、神様を無視し、抹殺することです。
そして、それはどれだけ悲しんでも悲しみ切れないことであるに違いありません。
愛しているのに無視される。
愛している人間同士が互いに無視し合っている。
あるいは敵視し合っている。
その様を見る。私たちを決して無視せず、どこまでも愛してくださる神様にとって、私たちのあり様は、まさに槍で突き刺してくるようなことなのです。
まさに胸が裂かれる様な悲しみを神様は味わっておられるということです。

でも、私たちは普段は、全くそんなことを想像すらしないで、ただ目先のことに追われ、目先の自分の利益や心地よさだけを求めて生きています。
さっさと死体を取り下ろして、さっぱりして明日を迎えよう。
自分だけ 気持を晴れやかにして 
あの人のことは無視して、あるいは葬り去って、気の合う仲間だけで生きていこうと思う。
その思いに従って生きているのです。
自分を造り、自分を愛し、あの人のこともこの人のことも造り、愛して止まない神様が喜ぶことは何だろうなんてことは考えない。
少し考えても、その愛の御心に従うことのしんどさを思って従わないのです。
そうやって、私たちは神を殺し、人を殺し、そして、実は自分自身を殺している。自分を生かそうとして、殺しているのです。
だから、神様は悲しいのです。
でも、だから神様は憐れんでくださる。
だから、神様は祈ってくださる。そして、聖霊を下してくださる。神様は、人ではなく神様だからです。

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