日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS み言葉の成就 2010/10/10 ヨハネ19:23-27 

<<   作成日時 : 2010/10/10 10:21   >>

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本日はナザレン日ということで、私たちのナザレン教会では教団の創立記念の主日です。
約100年前の1907年私たちの教団は誕生しました。
このことを記念しています。





四人の兵士たちが、イエス様が身に着けていた衣服やサンダルなどをそれぞれ自分のものにしました。
しかし、当時の下着は一枚織りでした、四等分すればただの布切れになり無価値です。
そこで彼らは、その下着を巡ってくじ引きをしたとあります。
彼らの罪は、第一に「差別」があります。
彼らはイエス様の上着をはぎ取ります。
それを「四つに分けた」とあります。
ここから「彼らはおそらく4人だった」と考えたわけですが、そうだとすれば「ちょうど良い」ことにその上着は4つの部分に分かれていたので、各自分け合った。
それだけではありません。
彼らは、なんとイエス様の下着までもはぎ取るのです。
人々の目の前で下着をはぎ取られる、人間としてこれほどの屈辱があるでしょうか。
それをあえてしたということは、兵士たちはイエス様の人間としての最低の尊厳などというものはまるっきり考えていなかったと言えるでしょう。
そもそも「人間」とさえ見ていなかったのでしょう。
先週もお話したとおり、ローマには人間として扱われない奴隷が居たわけですから当然だともいえます。
しかし、それにしてもその奴隷階級から物を奪うという人間の尊厳すら捨ててしまっているかのようです。
「こんな奴は、どう扱ってもかまわない」、ここに「命の分け隔て」「差別」があります。

その罪は、第二に「貪欲」です。
彼らは、その奪った下着を見たところ、分けられない一続きのものだったので、だれが取るかを決めるためにくじ引きをしたというのです。
人がこんなひどい苦しみを味わっているそのすぐ横で、自分がより多く得たいという欲望を満たすために、争っている。
この「貪欲」をもって、彼らはイエス様の最後の一つをも奪い去っていくのです。
そして彼らの罪は、最後に「人を見捨てること」です。
そんな彼らは、当然イエス様の痛みに共感・同情することなどできません。
その結果、弱く、罪のない者を見捨て、見殺しにすることになっていく。
この恐るべき罪が、十字架のすぐそばでその姿を隠れもなくさらしている。
しかし、こんな人間の罪による行いですら、神様の救いのご計画の中で用いられるのです。

なぜ上着が4つに分けられ、下着が1枚であった事がクローズアップされるのでしょうか。
その象徴、暗示する事柄についても少し触れた上で25節以下に入りたいと思います。
下着とは、体に密着したものです。
この一枚織りの下着はイエス様の体に密着したものであり、切っても切れない関係にあるし、下着そのものも切れない、切ったら台無しになるものです。

では逆に四つにわけられた上着は一体何を意味しているのか。
アウグスティヌスは、これを世界の四つの地域だと解釈しています。
その四つの地域にキリスト教が広がっていく。
ヨハネ福音書が書かれた時には、すでにキリスト教がさまざまな地域に広がっていました。
そうした中で下着は裂かれなかったということは、教会は一つであることを象徴しているとある本にありました。

ただ十字架の下の二つのグループ、イエス・キリストの衣服を分け合っている4人の兵士と、イエス・キリストが十字架にかかっているのを嘆いている4人の女性たちを対比的に描いています。

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

ガリラヤから主イエスに従って来ていた婦人たちが、十字架の光景の一部始終を遠くから見守っていました。
そして、後で学びますが、この女性たちが最初に復活の主にお会いすることになるのです。

十字架を前に最も身近にいて主イエスと行動を共にした弟子たちは皆逃げてしまっていました。
ヨハネ福音書は一人の愛する弟子と婦人たちがその十字架の主イエスと会話のできるほどの至近距離に居たことを記しています。
この愛した弟子とは、ヨハネ福音書の著者・青年ヨハネだと推察できます。
ヨハネ福音書は主イエスの生涯を歴史の事実としてよりも、その生涯を、人を死の滅びから救い出す神の業、信仰の出来事として記しています。
そして、母マリアが、このヨハネ共同体で主イエスの母として敬われ大切に扱われていたことを物語っているのだと思います。

この四人の女たちが立っている場所の向こう側には四人の兵士たちが立っています。
この両者は男と女、権力側の人間と被支配民、ローマ人とユダヤ人、多神教のローマ宗教に属する人々と一神教のユダヤ教に属する人々という風に、ありとあらゆる違いを持った人々です。
互いに愛と信頼の関係など持ちようがない人々です。
そういう人々がイエス様の十字架の両側にいることを示しています。
あるいは、十字架のもとだからともに居ることがありうるといえるのかもしれません。
この場面設定も、ヨハネにしかありません。

ブルトマンという聖書学者は、これは象徴的に、ヨハネの時代の二つの教会を表していると言いました。
母というのはユダヤ人の教会である。
すべての教会はそこから生まれた。いわば母なる教会である。
しかしながら、ヨハネ福音書が書かれた時に、成長し続けているのは異邦人教会でありました。
異邦人教会というのは、子なる教会であります。
異邦人教会とユダヤ人教会の間にはちょっとした緊張と対立がありました。
そうした中で異邦人キリスト教会に対して、「母なるユダヤ人教会を尊敬して、受け入れなさい」と言っておられる。
逆に母なるユダヤ人教会に対しては、「自分から生まれてきた異邦人教会を子なる教会として認め、愛し、受け入れなさい」と言う。
そのようにこの二つの教会を執りもっておられるのです。
世界の教会は、イエス・キリストのもとで一つにされている。裂かれた衣が世界に広がる教会を象徴し、一つである下着が教会が一つであることを象徴しているように、このイエス・キリストの言葉によって、世界全体の教会が執りもたれているのです。

そして、イエス様が「愛する弟子」というヨハネ独特の弟子が登場します。
キリストは母に向かって「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」とヨハネを紹介し、ヨハネには「見なさい。あなたの母です。」と紹介しています。
「婦人よ」という呼びかけはかつてカナの結婚式で同じくマリアに呼びかけた言葉です。
マタイの13章によると母マリアには少なくとも6人の子供がいたということがわかります。
キリストの兄弟にヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、少なくともこの4人がいて、また姉妹達も一緒であった、と書いてあります。
ですから、姉妹も少なくとも2人以上はいたということです。
ですから、その6人にイエス様をいれれば7人子供がいて、少なくとも両親と9人家族ということであります。
その6人いる子供の誰も、この最後のところには来ていないと思われます。
いまだ、この時、彼らははたして主を信じていたか、受けいれていたかどうかですら、定かでありません。
そういう中にあって、キリストは母マリアをヨハネに託すのであります。
私は、「なぜ、ここでヨハネに託したのか。なぜ、ヨハネなのであろうか。」。そのことを思わせられたのです。
イエス様は、ヨハネに、「ひとつ、母マリアを兄弟の誰かのところに連れて行ってほしい。」というのが普通ではないでしょうか。
でも、イエス様はここではそうは言っておられないで、ヨハネにご自分の母を託しておられます。
マリアはこの時、どこに住んでいたか、誰と住んでいたかは定かではないのですが、それを超えてキリストは母マリアをヨハネに全部託しました。

なぜヨハネでしょうか。
人間的な見方をすれば、このヨハネはエルサレムにおいて名が通っていました。
主イエスの裁判の際に中庭に入れたということはそういうことです。
裕福であったかもしれません。

しかし、聖書的に考えるならば、この十字架の下に、キリストの下に来た弟子は、実はこのヨハネ一人でした。
ヨハネだけがキリストを離れないで、キリストの下に、この十字架までついて来たのであります。
ご存知のように、ペトロは遠巻きにキリストを見ていました。
遠巻きに見ていましたから、ペトロはキリストを拒みました。
「私はあの人を知りません。あの人の弟子でも何でもありません。」最後には呪って誓った、とまであるのです。

ここに一つの忠実なしもべの模範を示していると思います。
この世的な言い方をすれば、ヨハネ共同体の創始者であるヨハネを贔屓目にみてるということも取れるような気がします。

しかし、なによりも、キリストご自身が、ヨハネを大切に見ておられるな、と思います。
誰一人ついてくることができなかった中の、たった一人のヨハネです。
ご自分の大切な母を託されたのです。
十字架は誰もが決してついて行くことのできない場所であります。
主は一人でそこに向かいます。
でも、そこに行かなければ、聞くことのできない声がある。
そこに行かなければ、見ることのできない必要がある。
ヨハネはそこに行きました。
彼は皆が逃げ出した中で、自分だけがついていきました。
のこのことついていきました。
場合によっては捕えられて、キリストがそうであるように、自分も殺されるかもしれないという危機、そんなことも彼は覚悟したでありました。

それから、2点目です。
もう一度戻り、26節であります。
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。」
ここに、もう一人、十字架の下まで、最後までキリストに従った人がいました。
それは母マリアでした。
他の人たちも、マリアを含めて4名いたと25節にありますが、マリアも従った一人でありました。
マリアを見てまいりますと、イエス様が公生涯、伝道生涯に入られてから、マリアはナザレにずっといて、キリストの下に行っているという記事は、どこにもありません。
ルカの8章に、弟子達の外側に大勢の女達が仕えていたとあります。
名前がいろいろ書いてありますが、その中にマリアは入っていません。
自分の息子が十字架に付けられる、その姿を目のあたりに見続けなければならないマリアの心境は、想像を絶するものだと思います。
そんなマリアの心を誰よりもイエス様は良く知っておられて、そのマリアに声をかけて、「さあ、あなたの息子だ。」と言われました。
私はそこにとっても大事なことがあるようにおもいます。
マタイの12章50節を見ます。
これが教会で兄弟姉妹と呼ぶ裏づけの御言葉であります。
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」とイエス様がおっしゃいました。
教会でお互いに兄弟姉妹と呼び合うのが、ここから来ているわけです。
ここにキリストは、肉の親子、肉親を超えたキリストにあっての親子、キリストにあっての兄弟姉妹、その愛しあう麗しい姿、助け合う姿を示してくださっていると思います。

今日、あなたは一人で苦しんでいるでしょうか。孤独に悩んでいるでしょうか。
でも、あなたの傍に、そのあなたのために、とりなして真剣に祈っている誰かがいるということを、知っていただきたいのです。
そして、その祈りは、誰よりもキリストが目をとめてくださいます。
キリストはその心の訴えを絶対に見逃しなさいません。

キリストは、あの十字架の苦しみの真っただなかで、愛を実践されました。
キリストの愛の実践、それは肉親の親子をこえて、主にある十字架の下に、主の十字架の愛に動かされているその友を通して、真の主にある兄弟、姉妹がどのようなものであるか、そしてそこに主がどのように働いて下さるのかを、みせてくださいます。
多くの兄弟姉妹はそれを体験しています。
教会はそのようにして、主にある兄弟姉妹によって、結ばれています。
そのようにして愛の絆がしっかりと結び合わされています。

「成し遂げられた」(ギリシャ語:テテレスタイ)という言葉は、「完全に代価を払った」「すべてを成就した」という意味です。
イエス様は十字架において私たちの罪の代価を完全に支払ってくさったのです。

イエス・キリストが執り成される関係。それまでは全く他人であった二人が、ここで親子とされた。
「神の家族」が、ここにできた。
差別も貪欲もないところに神の家族が出来たのです。
これは教会の原点と言えるのではないでしょうか。
教会の中で、私のことを「わが息子、わが息子」と呼んでくださる方がありますが、それはまんざら当っていないわけではありません。
イエス・キリストの言葉に基づいた親であり、子であります。
あるいは肉親以上の関係が、ここに形づくられているのです。
「教会とは何か。原点はどこにあるのか。それはイエス・キリストが執りもってくださった新しい家族である」ということを深く心に刻みつつ、これに臨みたいと思うのです。
そして、愛を示された主の十字架によって、神の家族、教会、教団が完成するのです。

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