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zoom RSS 主はなぜ十字架に 2010/10/3 夕  Tペトロ2:18-25

<<   作成日時 : 2010/10/03 21:02   >>

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召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。
善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。

当時ローマ帝国の中には約6千万人の奴隷がいたといわれます。
驚異的な数ですが、これらの人々は皆、ローマ帝国が征服し、捕虜として引いて来た諸民族の人々でした。
奴隷たちはローマ社会を支える労働力であって、つらい、苦しい、汚い重労働はもとより、更に高度の医師、教師、音楽家、俳優、秘書、そして家令など主人に代わって家を管理する仕事まで担っていました。
一般的に奴隷は「ドゥーロス」と呼ばれましたが、その中でもローマ市民の家庭に仕える奴隷は「オイケテース」と呼ばれました。
「僕たる者よ」と18節に取り上げられているのは「オイケテース」なのです。
彼らは家庭の下働き、下男、下女、家庭教師、家令などいろいろな仕事を持っていました。
ローマ人よりも高い教養を身につけたギリシャ人や国々の王侯・貴族であって奴隷の身分に落とされた人々も多かったのです。
家の主人が善良で優しい人であれば、奴隷に対しても優しい扱いをしました。
所詮、奴隷は生きた道具として売り買いされました。
愛し合った男女の奴隷は同棲は許されても、結婚は許されず、子供が生まれれば主人の所有になるのでした。
いや、自分自身の体さえも自分の所有ではなく、主人の所有であったのです。
ローマ市民は一切の仕事を奴隷にやらせて、ぜいたくに遊び暮らしていたのです。

こうしたローマ社会の中にキリストの福音が宣べ伝えられた時、それを喜んで受け入れたのは貴族階級よりも、奴隷階級の人々でした。
キリスト教は初めから奴隷制度は悪いから全面的に改革すべきだという、政治的スローガンを掲げて入って来たのではありません。むしろ、
そうではなく、神はすべての人を愛し、キリストにあって神の子としてお救い下さるという、すばらしいニュースを持ってきたのです。ローマ市民は
ローマ市民のままで、奴隷は奴隷のままでキリストにあって神の子であり得るとは、正しく革命的なメッセージでした。キリストの使徒たちは、この制度の中で奴隷の身分のクリスチャンが、柔和な心で不当な苦しみを
耐え忍んで行く勝利の道を教えたのです。

「僕たる者よ、心からの尊敬をもって、主人に仕えなさい」。

これは、善良で寛容な主人に対してならば、自然に出来ることですが、「気むずかしい」(スコリオス)主人、言い換えれば、心の曲がった、よこしまで無慈悲な主人に対しても、反抗的な態度ではなく、柔和で従順な
態度で仕えなさいと教えています。その秘訣はなにか?「神を仰いで耐え忍ぶ」ことです。そうすれば神の愛が心を満たして憎しみを消し、
心に平安を満たしてくれます。その最上の模範がイエス様なのです。


十字架はキリスト教の中心的教えです。
今日の聖書に、
あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
とあります。


これは一言で言えば、苦しみの中にある愛の「模範」です。
ある神学者は、神の本質は愛である。
その愛は最高の価値である。
その愛を地上で実現されたお方がキリストで、ここに神の愛の啓示がある。
それは愛の模範を残し、私たちを「道徳的に感化する」ためにほかならないと言いました。そしてこの十字架にならって愛を実践する世界が神の国です。

この考え方は、今読んだキリストの「模範」で、必ずしも間違っていないでしょう。
しかし、愛の「模範」だけでは十字架の福音を十分言いつくしていません。後半があります。
そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
ここに「罪」問題があります。
イエスを模範として一生懸命愛に生きても、壁にぶつかります。
それは自分の罪か他人の罪かです。
自分の罪の例をあげましょう。
親の手前みその自己愛は、子供を正しく育てるどころか、子供の自由を奪い、子供を親の愛の犠牲にしてしまうことさえあります。
親は、それに気づきません。
こんなに愛し、こんなに犠牲をはらっているのだからとばかり思っています。
愛には、罪がひそんでいます。
愛する人ほど罪深い人はいません。
「愛は惜しみなく奪う」のです。

愛は他者の罪につまずくこともあります。
親身になって愛したのに裏切られることがあります。
それは愛する人は、こんなに良いことしているのだから、当然感謝されてよいはずだと思っているからです。

今日の聖書は、この私たちの罪の問題とキリストの十字架を結びつけています。
「私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたはいやされたのである」と、ここには大切な三つのことが出てきます。


1「罪に死ぬ」。
2「義に生きる」。
それは自分の義ではなく、神の義に生きることです。
手前みその愛ではなく、自己が死ぬことです。そして神の義に生きることです。
3「いやされる」、「ゆるされる」ことです。
「模範」だったら道徳でしかないが、ここでは宗教的価値が問題。


人間のあくなき罪を負われたお方。
ここに十字架の意味があります。
しかし、それがただ十字架にかかった「良い人」であるなら、どうして罪人の罪をゆるす力があるでしょう。
この方は神でなくてはなりません。
神のみが、人のあくなき罪をゆるされます。
それゆえ十字架のイエスは、「どうか御国に入るとき、この私を覚えていてください」と、十字架のかたわらの盗賊が頼んだ時、言われました。
「今日、あなたは私といっしょにパラダイスにある」と。これが真のいやしです。罪深い者と共にある、それが十字架の上で起こります。
「インマヌエル、神われらと共に」、それはクリスマスの使信でした。今、十字架の福音となりました。

私たちはその結果、「ありがとうございます」と言うだけでなく、この感謝の言葉は行為になって表れます。「さらに私たちが罪に死に、義に生きるために」。イエスは言われます、「あなたの深い罪は、私が負った、あなたは新しくなった、行きなさい、これからは自分の義ではなく、神の義に生きなさい」と。

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