日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 主はなぜ十字架に  2010/10/3  ヨハネ19:16-22

<<   作成日時 : 2010/10/03 12:06   >>

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先日、地震があり、テレビと携帯から緊急地震速報が流れました。
驚かれた方もいらっしゃったかもしれません。
私はたまたまテレビを掛けておりましたので、地震発生直後でどこでどの程度の地震が発生したのかもわからないまま報道し続けているテレビを食い入るように見ていました。
情報があるのが当たり前の生活をしていると、すぐに知りたい、という欲望に駆られてしまうものだなぁと思いました。

さて主の十字架の場面です。
歴史的にはこの当時、ユダヤ人は人を死刑にする権限があったかなかったについては学者によって見解が分かれるようです。
しかし、聖書に限って言うと、たとえば使徒言行録の7章には、初代のキリスト者であったステファノが、ユダヤ人の最高法院の裁判にかけられ、石打ちの刑で処刑されたことが記されています。
有罪宣告や、死刑に処するという正式な宣言がなされたわけではありませんが、リンチや暗殺とは全く違う形です。
「石打ちの刑」は宗教的な罪に対する処罰の方法です。
ステファノの処刑ことに対して、ローマ側からクレームが来たということは記されていません。


また、同じ使徒言行録の12章には、十二弟子の一人であるヤコブが、ヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ一世(聖書では「ヘロデ王」として出てきますが)に剣で殺されたことが記されています。
それは、ヘロデが、キリスト教会を憎むユダヤ人の歓心を買うための行為でした。
そのことに対して、ローマの側が文句を言うことはなかったのです。
つまり、ユダヤ人がユダヤ人を死刑にする、あるいは権力に物を言わせて殺すことは出来たのです。
パウロのようにローマの市民権を持っている者については、ユダヤ人だけの裁きで処刑することは出来ませんでした。

そういう点から言うと、イエス様はガリラヤのナザレという田舎町出身のユダヤ人です。
この当時、ローマに対する抵抗運動を組織した訳でもなく、ローマにとっては危険な人物ではありませんでした。
ローマの市民権を持っていたわけでもない。
だから、ピラトは、そんな男を、ローマの法に従って裁き死刑にする必要はないのです。
しかし、ユダヤ人の権力者たちは、何としてでもローマ人に処刑させたいと願っているのです。
それは、何故でしょうか?

いろいろ理由は考えられます。
その一つは、彼らの恐怖だと思います。
以前も語ったように、主イエスが「わたしはある」とおっしゃった時に、武装して主イエスを捕まえに来た人々が皆、その権威に圧倒されて「後ずさりして地に倒れた」のです。
イエス様は、彼らにとって、そういう存在だったのです。
「神がそこに居ます」と感得させるような存在であったことは間違いありません。
そういう存在だからこそ、抹殺したいし、しなければならないのだけれど、自分の手ではそれをしたくない。
そんな恐ろしいことはない。
ユダヤ人が信じる神など知らない異邦人に処刑はやらせよう。そう思ったでしょう。

主イエスは「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」とおっしゃいました。主イエスをピラトに引き渡したのは神の民ユダヤ人であり、特にその民を信仰によって導くはずの大祭司とか祭司長たちです。
神の民の指導者たちが、神から遣わされたメシアを異邦人に引き渡すのです。
さらに遡ってみれば、大祭司たちに主イエスを引き渡したのは、主イエスの弟子、最後まで残った十二人の弟子のひとり、イスカリオテのユダです。
12弟子といえば主イエスの側近です。
大祭司とか祭司長が、教会で言えば牧師に当たるとすれば、ユダは長老の一人だと言ってよいでしょう。新しい神の民の中心的存在です。
そういう者が、主イエスを引き渡す。その事実を軽視してはならないと思います。

この「引き渡す」という言葉は、ギリシア語ではパラディドーミという言葉です。
ユダに関して使われる場合はもっぱら「主イエスを裏切ったユダ」と出てきます。
つまり、「裏切り」なのです。
主イエスを裏切ることはキリスト者にしか出来ません。
主イエスを信じているわけでも、愛しているわけでもない者は、主イエスを裏切ることは出来ません。
係わり合いがないからです。
ピラトのように、「引き渡す」ことが出来るだけです。

「ピラトは、十字架につけるために、主イエスを彼らに引き渡した。」
これは、主イエスを殺すために引き渡したということです。
裏切ったわけではない。
しかし、彼はそこにおいて、無実の者を処刑するという、やってはならないことをしたことに変わりはありません。

一方、引き渡すという言葉同様に「引き取る」、という言葉も、実に象徴的な言葉です。
少し先の27節にも出てきますが、それは別のときにします。

ユダヤ人たちは、自分たちの手で主イエスを裁くために「引き取る」ことは二度も拒絶しました。
先にも述べたように、ローマに支配されている自分たちには、人を死刑にする権限がないというのが表向きの理由です。
しかし、既に語ったように、自分たちの手を汚したくないのです。
よきサマリア人のたとえでは、祭司たちは道の向こう側を通っていきました。
薄情であるということよりも関わりあいたくなかったからです。
自分たちの地位を危うくさせたくはない、そういう思いが彼らにはありました。
その彼らは、ピラトから、「十字架につけるために引き渡される」主イエスは喜んで「引き取る」のです。
つまり、ピラトの手によって判決が下された主イエスを十字架に引き渡すためなら引き取るのです。

そして、ピラトから主イエスを引き取った人々は、『されこうべ』と呼ばれる場所まで主イエスを連れて行きました。
このゴルゴタ=ラテン語ではカルヴァリア
十字架の横木を自分で背負わせて刑場に引いていくのがローマの慣習であったそうです。
主イエスもまた十字架を背負ってゴルゴタを目指したと記されています。
他の福音書すべてには、たまたまそこに居合わせたキレネ人のシモンに無理矢理この十字架の横木を背負わせたと書かれています。
しかしヨハネ福音書においてはその部分は割愛されています。
ヨハネ福音書記者が「キレネ人シモン」の話を知らなかったとは考えにくいと思います。
古代教会において、このたまたまそこに居合わせた「キレネ人シモン」が主の十字架を境に信仰者、そして証人になり活躍したことが想像されます。
古代教会において超有名人であったであろうシモンを省略してでも「主イエスが自分の意志で十字架にかかった」ことを強調したかったのだろう、と考えられています。
ヨハネは主ご自身が自分自身で、自ら十字架に向かったと言うことを強調したいのだろうと思います。

他の福音書に共通して書かれていながら、このヨハネ福音書には全く書かれていない事が他にもあることは何度もお話しました。
十字架の記事においては、主イエスと共に十字架につけられた他の2人の素性についてが挙げられます。
十字架刑がローマへの反逆者に対する死刑法であることを考えれば、あるいは主イエスの代わりに釈放が要求されたバラバの仲間であるような印象を受けます。
あるいはこの省略も、「人々が自分を王にしようとするのを知って退いた(6:15)」ことや、「おまえがユダヤ人の王なのか」というピラトの訊問に「わたしの国はこの世には属していない」と答えた(18:33-36)主イエスのあり方を強調するためかもしれません。
逆に、他の福音書にはないのにヨハネ福音書だけに報告されているのが、ピラトの書いた「罪状書き」を巡るやりとりです。
ピラトは、ヘブライ語・ラテン語・ギリシア語の3つの言語で「ナザレの主イエス、ユダヤ人の王」と記された罪状書きを主イエスの十字架にかけました。
ヘブライ語は、もちろん主イエスが処刑されたその地方で使われているユダヤの言葉ですから書かれて当然です。
ラテン語は主にローマ人によって使われる政治用語であり、ギリシア語は現在の英語に匹敵する当時の世界共通語でした。
つまりこの罪状書きは、ユダヤ人であれ、ギリシア人であれローマ人であれ、すなわちそこを通りかかる人なら誰でも意味がわかるようにと配慮されたものであります。
つまり、この当時において全世界に向けて書かれたものだといえます。
これは誰もがわかるようにサービスでこうしたのではありません。
主イエスの十字架がさらし者であったからです。
現代風に言うのであれば、ネット上に配信したということに鳴るのかもしれません。
ユダヤ教の祭司長たちは「『ユダヤ人の王』と自称した」と訂正するよう求めます。
ピラトはそれをはねつけて「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えたとあります。
この記述に、「キリストを十字架につけた男」として使徒信条にも名前が残されているピラトの、もうひとつの姿が見えて来ます。
彼は確かに、主イエスにローマ的な罪のない事を確信していました。
しかし、自己保身のために主イエスを十字架刑に処したのです。
ローマの総督として、ローマとユダヤが衝突しないように万事を丸く収めるため、ローマへの反逆を企んだという事実がないにも関わらず、ユダヤ独立を目指した革命家として主イエスを処刑することを選んでしまったのである。
自らの保身のためにこのことをなしてしまった。
しかしそのことで、最も傷ついていたのはやはりこのピラト自身だったのではないでしょうか。
しかし、この躓きこそ、私たちがもっとも陥りやすいのではないでしょうか。

この「世界に通用する言葉」で記された主イエスの罪状書きに、ピラトの抵抗というか怒りを見ることが出来ると思います。
彼は、支配下に置いているはずのユダヤ人たちの圧力を跳ね返す事ができませんでした。
そして、ナザレという田舎出身の若造に過ぎないイエスという男の信念すら変える事もできなかったのです。
ピラトは自分の無力さを痛感させられたのではないでしょうか。
せめて、「主イエスを有罪にしたのは自分だ」と世界に通用する形で宣言する事が、ピラトの意地の表われだったのではないか。
「この屈辱を、決して忘れない」というピラトの決意のようなものがあるように思います。
ユダヤ教側の指導者たちの方は、主イエスを闇に葬って忘れ去ろうとしていた、と思えます。
ローマとユダヤとの間の和平を維持するために、主イエスという存在を利用しつくした上で人々の記憶から消し去ってしまう事、それがユダヤ教指導者たちの目論見だったのでした。
ピラトは、そのように自分が利用される事を拒絶したのかもしれません。
利用される事を知り尽くしていながら、自分で十字架を背負って刑場へと向かった主イエスとは、極めて対照的であった。

ピラトの態度は、決して評価されるべきものではありません。
恐らくピラトは、自分を翻弄し続けた主イエスをも妬み、憎んだのではないでしょうか。
だからこそ「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」(19:37)という主イエスの抗弁を打ち消すかのように「ユダヤ人の王」と全世界に告知するのです。
しかし神はピラトの意地を用いて、「神が選びとった民」であるユダヤ人の「王」が主イエスである事を公にするのです。
しかも、当のユダヤ教指導者たちの反発をさえ退けてです。

人が他人に利用され捨てられて、しかも忘れ去られることほど、悲惨な事はありません。
主イエスは、自らその悲惨へとまっすぐに歩まれました。
それは、この世の最大の悲惨を身に受ける事によって、この世の悲惨が神の前に無力であること・我々の罪が神の支配に打ち勝つ事ができないということを示されるのです。
我々は多くの場合、この世の悲惨に対して無力です。
無力にもかかわらず、主イエスは主イエスの両脇にかけられた者たちのように、その十字架を自ら背負って歩むよう招かれます。
無力で絶望しかないような私たち、立ち上がることすらできないほどの悲惨の中にあります。
しかし同時に我々は、それが絶望と諦めの歩みではなく、復活に基づく希望を指し示す歩みであることも知っています。
我々の身代わりに、主イエスが自ら進んで十字架を負って下さったからです。
我々に代わって苦しんで下さったからです。
主イエスの本質から目を背け、拒絶したピラトのような歩みさえ、わたしたちはできるのです。
そんな主イエスを拒絶する我らの思いをも、神は勝利を証しするために用いてくださるのです。
ただ我らは、それらのいずれの道を進むにしても、主イエスが負って下さった十字架の悲惨を忘れてはなりません。
主イエスが自ら選びとった苦しみが、2000年を経ようとする現在も相変わらずこの世で繰り返されているからです。
そして、主イエスが今もその悲惨の只中に立っておられる確信を捨ててはなりません。
いま苦しんでいる人・いま悩みの中にある人・いま悲しんでいる人、その人々の傍らに主イエスがおられるのです。


今日は世界聖餐日です。世界の教会があなたに召され、御国の使者としてつかわされ、平和の福音を宣べ伝える使命を共にする主日です。
私達の戦いは血肉を相手にするものではなく、暗闇の支配者を相手にすると言われます。肉欲の戦いでなく、信仰の戦いである。神のみを主とあがめ、主をのみ恐れうやまう戦いであります。しかし私達の中には別の神がいて、私を誘惑し、手足を縛り、支配することがあります。己が腹を神として問題を起こすことがあります。この戦いに勝つために、身につける武具を下さい。自分の力によるのでなく、あなたの力を下さい。□腰に締める真理をしっかり身につけ、他のものに動かされないようにして下さい□あなたの御国が実現するために、あらゆる手立てと知恵を与えて下さい。
あなたに召され世界中の送られた宣教師の働きを覚えます。私達の教団からは十二ケ国に三十二名を送っています。私達を代表し、替わりに働くこれらの人々をあなたが祝し用いて下さい。その健康を支えてください。家族の上に恵みが豊にありますようにこれらの働きが国際に大きく貢献する事が出来ますように。導きと守りをお願いいたします。私達もこの宣教師を通して謙虚に学び、自らの道を全うで来ますように。
ご自分のからだを裂き、血を流して完成された贖いの十字架のもとに世界の教会が結集し、あなたの栄光を輝かすものとしてください。

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