日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS キリストとは 2010/9/26 ヨハネ19:1-16

<<   作成日時 : 2010/09/26 10:17   >>

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今週はスポーツでのニュースが多い一週間だったと思います。
逆に言うと、スポーツくらいしか明るい話題がなかったとも言えるかもしれません。



大相撲は連勝記録が更新中ですし、イチロー選手の10年連続200本安打、昨日は石川遼選手がホールインワンだそうです。
パー3を1打で入れたのでゴルフ的にはイーグルといいますが もう1打少ないはアルバトロスといいます。
アルバトロスとは日本語でアホウドリです。

アホウドリの有名な生息地の一つである尖閣諸島沖で海上保安庁の巡視船と衝突事故がありました。
昨日の未明、この中国漁船船長が釈放されました。
チャーター機で地元に戻ったこの船長はまるで英雄のように映し出されていました。
あまりに突然の決定に、捜査の現場や識者からは「中国政府の圧力に屈した」「外交的敗北」との反発の声が上がりました。
鈴木亨次席検事は会見で「今後の日中関係を考慮した」と述べ、決定の異例さを認めました。
外交問題を教会の礼拝で語るべきではないかもしれませんが、あんな対応なのか、とがっかりするとともに、逆に弱みに付け込まれているように思います。


マルコや他の福音書では、死刑判決の後でイエスは兵士たちの手に引き渡されて侮辱を受けるようになっています。
ところがヨハネは、この順番をひっくり返しています。
ピラトは有罪が確定していない段階で、イエスを鞭で打たせているのです。
そして鞭で打たれてボロボロになっているイエスに荊の冠をつけさせ、紫の衣をまとわせています。
それは何のためでしょうか。
イエスを無様で痛ましい姿でユダヤ人たちの前に引き出し、彼らの同情を買おうという作戦に他なりません。
これだけ屈辱的な身なりをさせられ、痛めつけられた姿を見せつければ、どんなに無慈悲な祭司長たちでも、もうたくさんだと思うだろう。
民衆もイエスに同情して、それ以上の刑を望まないだろうとピラトは考えたのだろうと考えられます。

「罪」という言葉がこの取り調べの場面に合計五回出てきます。
新共同訳聖書では、全部「罪」と訳されていますけれど、実は三つの異なる言葉が使われているのです。
7節には、「律法によれば、この男は死罪にあたります」とあります。
しかし、直訳すれば「律法によれば死に値する」で、「罪」という言葉は使われていません。
最初に「罪」と出てくるのは、18:29節です。
明け方にいきなり縄で縛られた男を連れて来られたピラトが、連れて来た者たち、つまり、主にユダヤ人の祭司長や下役たちに向って、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と問うたのです。
ここで「罪」と訳された言葉は、カテーゴリアで、告訴の内容は何かという法廷用語です。
ピラトは、裁判官として、訴えられている内容が裁判に相応しいかどうかを確かめているのです。
しかし、その問いに対して、ユダヤ人たちは「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と答えるのみで、「悪いこと」の内容を明確には言えません。
だから、ピラトは、そんなことならわざわざ私のところに連れてくるなと思い、こう言いました。

「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け。」
この問答の中に既に、「罪」「という言葉が出てきます。
次に「罪」と出てくるのは、ピラトがイエス様との問答を通して「真理とは何か」と尋ねた直後です。
彼は、イエス様の前に立ち続けて真理を追究することなく、「ユダヤ人たちの前に出て来て言った」のです。

「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」

彼は、この後にも二度、つまり合計三度も、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言います。
しかし、最後に、「十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡す」のです。
ここで「罪」と訳されている言葉は、アイティアです。
これは、訴える理由ではなく、有罪とすべき理由です。
これも純粋に法廷用語として使われています。
ローマの法に照らして、有罪とすべき理由はどこにもないと言っている。

彼は、最初から、イエス様が「ユダヤ人の王」なのかどうかを問題としています。
そしてそれは、ローマ帝国の皇帝に背いて、ユダヤ人国家の建設を企てる輩であるかどうかを問題としているということです。
もし、そうであれば、それは密かに反乱を企てる首謀者なのですから、ローマ側にしてみれば立派な犯罪者ということになります。
しかし、イエスという男を尋問する限り、その男は、「わたしの国はこの世に属していない」とか「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」とか、自分の出世や地位保全を第一のこととしている俗人のピラトにしてみると、訳の分からぬ戯言を言っているおかしな人間なのです。
そして、人間はそういう恐れを感じれば感じるほど、虚勢を張ったりするものです。彼がここで、「あのユダヤ人の王を釈放して欲しいか」と言っている時、そこにはユダヤ人に対する侮蔑があり、イエス様に対する嘲りがあることは明らかです。
つまり、自分を一段も二段も上の存在と思っており、イエス様にもユダヤ人にもそう思わせようとしています。

彼は、既に、情報を得ていました。
ユダヤ人が、イエスという男を王にしたがっていると。
また、大祭司や祭司長らはそのことを恐れていると。
しかし、あっけなく目の前に連れて来られたのは、縄で縛られた普通の身なりのただの男なのです。
彼は、意外だったでしょう。
そして、生かすも殺すも、その権限を握っている自分に対して、反抗的な態度をとるでも、敵意に満ちた目で見るわけでもなく、静かに、しかし、あまりに堂々と立っている男を見て、なにか空恐ろしいものも感じただろうと思います。
しかし、もしこの男が「ユダヤ人の王」となりたがっており、それがローマの支配に対する抵抗運動に繋がるのだとすれば、それは総督として断じて許すことができないことですから、いきなり本題に入ったのです。

しかし、イエス様は逆に問うのです。「それは、あなた自身の言葉なのか、ユダヤ人から聞いた言葉なのか?」その違いは、やはりそれなりに大きいからです。
ピラトは苛立ちます。
何の恐れもなく、自分を尋問するこの男に対して苛立ちを覚える。
そして、「お前の同胞が、お前を訳も分からぬことで訴え、わたしに引き渡したので、仕方なく、こんな朝早くから、つきあってやっているんだ。いったい何をしたって言うんだ!」と言います。

イエス様は、ピラトの気持ちを理解しています。
しかし、言葉の意味を理解できないであろうことを承知の上で、最初の質問、つまりイエス様が王であるか否かについてお答えになりました。

「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

最初の「この世に属していない」とは、「この世からのものではない」が正確な訳です、そして、最後の「この世に属していない」は、「ここからのものではない」が直訳です。問題は「出自」、どこから来たか、出身はどこか、土台は何か、が問題なのです。

「この人を見よ」ということばはピラトの口を用いて、茨の冠を戴いた我らの王を指しています。


しかし、「神の子」という言葉を聞いたピラトはますます恐れます。
そして、「お前はどこから来たのか」と尋ねる。
これはイエス様の出自を問う問いですから、「お前は誰なのか」と問うている。
しかし、イエス様は、その問い、彼なりに真剣に訊いてはいても、所詮は自分の地位を第一と考える者の問いには答えません。
ピラトは苛立ち、権力を振りかざしてイエス様を恫喝します。
それに対して、イエス様は断固としてこうおっしゃいました。

「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

ここにも「引き渡す」と「罪」という言葉が出てきます。
イエス様が「罪」とおっしゃる時、それはこれまでピラトが使ってきたカテーゴリアともアイティアとも違います。
ハマルティアという言葉です。
これは古代社会の法廷で使われる言葉ではありません。
つまり、権力者が作った法律に違反するという意味での「罪」ではなく、神に背いているという意味での「罪」です。
ですから、その罪に対する裁きを下すのも、人間ではなく神です。
その「罪」が、ピラトにある。
しかし、ピラトの罪よりも、イエス様をピラトに引き渡した者の罪の方が重い、と主イエスは言われる。
それは、それだけ深く神に罰せられることになる、ということでもあります。

目に見える形では、ここでイエス様の罪がユダヤ人やピラトに問題とされ、イエス様が裁かれています。
しかし、実は、イエス様を裁いている者たちの罪が問題とされ、その罪に対する裁きが下されようとしているのです。

ヨハネ福音書において、この意味での「罪」は、全部で17回出てきます。
その中で15回は、主イエスの言葉として出てくるのです。
つまり、それはこの「罪」はイエス様だけが口にすることが出来る言葉なのです。
イエス様だけが、「あなたには罪がある」、「罪を見出すことが出来る」と言えるのです。

他の二か所のうちの一つは、洗礼者ヨハネが、イエス様を見た時に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った場面です。
もう一つは9章の盲人の癒しの場面で、ユダヤ人たちが、癒された盲人に向って、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようと言うのか」と責める場面です。
この両方を見ても、「罪」ハマルティアが、この世の法律とは全く無関係であることが分かります。
それは、もっと根源的なもの、神との関係におけるものなのです。

そのことを示す代表的な個所を、一か所だけ挙げておきます。それは、8章21節以下のユダヤ人との議論の場面です。少し、飛ばしながら読みます。

そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」・・・・・『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。」

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

イエス様が「わたしはある」と言えるお方であると、信じない。
神様から遣わされた独り子なる神であると、信じない。
それが罪なのです。
そして、その罪は既に死なのです。
罪の奴隷とは死の奴隷であり、そこに自由はありません。
死の恐怖に束縛されているからです。
もっと卑近なことで言えば、自分の地位とか身分とか生活、そういったものが奪われてしまわないか、そのことが第一の問題である人間は、いつも心の奥底に恐怖を抱え持っています。
恐れに捕らわれている。
自由ではないのです。
この福音書に登場する祭司長や下役たち、つまり、ユダヤ人も、ピラトや兵士たち、つまり異邦人(ローマ人)も、すべての人が罪の奴隷として、恐怖に捕らわれているのです。
しかし、その惨めな姿が自分では見えていないのです。
どういう人物だから、裁かれるのか、どういう人物だから許されるのか、その論理でことを運ぼうとするのです。

仕向けるのですけれど、なんとユダヤ人たちは「その男ではない。バラバを」と叫ぶ。
「バラバは強盗であった」とあります。
しかし、彼は単なる物盗りとしての強盗ではありません。
それだけのことであれば、ローマの総督が管理する牢獄に入っているわけもなく、また群衆が名前を知っているはずもありません。
ルカ福音書によれば、「バラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」のだし、マタイ福音書によれば、彼は「評判の囚人だった」のです。
つまり、ローマの支配を憎むユダヤ人にとっては一種の英雄です。
暴動を起こし、殺人を犯す人物です。
殺したのはローマ人あるいはローマに雇われている傭兵でしょう。つまり、バラバこそ、純粋に政治犯なのです。
ローマ帝国の支配に対してテロ行為をもって抵抗する人物です。
現代の言い方で言えば、ユダヤ原理主義者、過激派でありテロリストです。
ピラトにとっては、ローマに反逆する絶対に有罪と断ずべき人物です。
しかし、彼は、罰すべき人間を釈放し、罪を見いだせない人間を処刑するように、本来は支配しているはずのユダヤ人から、次第に追い詰められていくのです。
ハイジャック犯が、多くの関係のない人質の命と引き換えにこのような政治犯の釈放を要求することがあります。
ピラトの判断も腰砕けであったといえるでしょう。

「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
それを聞いて、祭司長や下役たちは、初めて、「神の子」と自称した奴は死に値するのだ、と彼らとしての訴えの理由を言います。
しかし、それはユダヤ人の律法では意味があっても、ローマの法では意味がないことです。
ローマ人のピラトにとってはちっとも「罪」ではないのです。

周りにいた群衆も敵意と軽率さの中で、真理から完全に引き離されてしまっています。
この世の罪に対してもはや抵抗する力をもたず、惰性的に服従してしまっている人の心が神の愛を締め出すのです。
イエスはそのような世にあって、神の言葉としての生涯を貫徹され、ただ人の救いとなるために、すべてを沈黙のうちに引き受けて行かれます。
この沈黙によって、私たちの罪はすべて、このお方のうちに担われて十字架に運ばれて行くのです。

イエス様が神であると信じる。
主こそキリストであると信じること。
それは、自分のすべてをイエス様に明け渡すことです。
自分の主人を自分ではなくイエス様にすること。
自分で自分を守るのではなく、イエス様に全存在を守って頂くことです。
本来なら、そこにこそ真の安心、平和があり、そして自由があるのです。
しかし、罪の奴隷になっている私たちは、自分を明け渡すなんてことは恐ろしくて出来ません。
私たちは、自分の主人は自分でありたいと思っています。
さらに人の主人ともなりたい。
人を意のままに動かしたい。
世界を自分の手中に収めたいと思っています。
「世界」などというと大袈裟に聞こえますが、自分の周りの世界でも同じことです。
しかし、その思いこそ、実は倒錯した思いであり、荒唐無稽な思いであり、憐れなほど傲慢な思いなのです。
私たちは、誰も生まれたいと意志して生まれたわけでもないし、死にたいと意志して死ぬわけでもない。
自分の命すら自分のものでははりません。
蛇の誘いに乗って善悪の知識の木の実を食べて、中途半端な知恵がつき始めると、自分の命は自分のものと思い始める。
つまり、神が与えてくださった命を、神から盗み取って、自分のものにしてしまう。
さらに知恵をつけると、人の命も自分のものだと思うようになる。
罪は、巧妙に私たちを支配し、振り回し、それが死に至る罪だとも分からぬように取りついて来ます。

人間は例外なく、その罪の実を食べています。
そして、豪華な服をまとったつもりになる。
王になったつもりになる。
しかし、実は、それは惨めな見せかけにすぎず、本当は嘲笑の的にならざるを得ないものです。
そんな無様な私たちの姿を、真実に見つめ、心の底が震えるような憐れみをもって警告し、救いへと招いて下さっている方、それがキリストであるイエスです。
キリストという言葉の意味は、‘油を注がれた者’ということですが、旧約時代には、王、祭司、預言者に油が注がれました。
つまり、キリストは、王の役割、祭司の役割、預言者の役割を一度でされた方です。
そのお方が私たちとともにいてくださるのです。

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キリストとは 2010/9/26 ヨハネ19:1-16 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
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