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zoom RSS ナザレのイエス 2010/8/22 ヨハネ18:1-11

<<   作成日時 : 2010/08/22 12:22   >>

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主は「新しい掟」として、主イエスが弟子たちを愛したように互いに愛し合いなさい、と命ぜられました。
それから、主イエスはずっとこの部屋の中で教え、そして祈り続けられました。
そうして、万を辞して部屋を出られました。
もちろん、真っ暗な夜の闇の中丘の上の街、エルサレムをあとにします。
そこから東側の急な坂道を下るとキドロンの谷があり、そこは鬱蒼とした杉林で昼なお暗い谷であったと言われます。
そこに出てくる「園」とは、他の福音書ではゲツセマネの園と呼ばれるオリーブの木が生い茂るところです。
そこは主イエスと弟子たちのひそかな礼拝の場所というか静まりの場所であったのです。
ユダヤ人の礼拝所をシナゴーグと言いますが、その言葉はここに出てくる「集まる」、シナゴーという言葉から来ています。
主イエスは、しばしばそこで弟子たちに神の言葉を語り、また神に祈り、共に讃美を捧げたのです。
今、その礼拝の場所が、ユダによる裏切りの場になります。
しかし、実はそこにおいて、イエス様は真実に礼拝されるべき方であることが示されるのです。
今日の説教は、そこを目指して進んでいくことになるはずです。

当然ユダは、どこに行けば、イエス様がいるかを知っていました。
その場所に、兵士と祭司長やファリサイ派が遣わした下役たちがやってきました。
ユダに率いられた兵士や下役たちは、松明や武器を持って真っ暗な夜道をやってきます。
その光は、夜の闇の中で煌々と輝いているのですから、はるか遠くからでも、一団がやって来ることは分かったでしょう。
その気があるなら、夜陰に乗じて逃げることは出来たはずです。
しかし、イエス様はまったく逆の対応をされます。

イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われました。

イエス様は、ユダを部屋から追い出した時から、数時間後にはこうなることを既にご存知であり、だからこそ、「人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と宣言されたのです。
ですから、逃げる理由は全くなく、むしろ、逆に、イエス様は前に進み出られる。神の栄光を現すために。
そして、イエス様にとっては、分かり切ったことを敢えてお尋ねになる。

「だれを捜しているのか。」

この言葉を、イエス様は二度繰り返しました。
聖書の中でも同じ言葉を繰り返す所は意味があるところです。
さらに、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と言われました。
「捜す」という言葉が三度も出てきます。
そして、また「わたしである」という言葉も三度出てくる。
この二つの言葉が、この個所のキーワードであることは明らかです。

何度か申し上げましたが、ここにある「わたしである」という言葉は、原文では、エゴ エイミ、つまり「わたしはある」(英語では Iam)と訳される言葉です。
この言葉はこれまでに何度も決定的な場所で、イエス様の言葉として出てきた言葉です。

神様は、紀元前一三世紀に、エジプトの奴隷になっているイスラエルの民を神の民として誕生させるべくモーセを遣わそうとされました。
その時、モーセが神様の名前を尋ねたのです。「神が言われた」と言ったって、どの神か分からなければ、誰も納得しないからです。
その問いに対して、神様は、「わたしはあってあるもの」「わたしはある、というものだ」とお答えになりました。
それは、「私はあなたと共に生きる神だ、生き続ける神だ」という意味だと思います。
この言葉が、ヤハウェ「主」という名前のもとになったのですが、神様が名を告げることでご自身を現すことを、神の自己顕現と言います。

ですから、イエス様が、「『わたしはある』という者だ」とおっしゃる時、それは「わたしは神だ」とおっしゃっていることになるわけです。
そのことが、神は目に見えないということが大前提のユダヤ人には許し難きことであり、彼らはイエス様を捕え、殺そうとしているのです。
それは一面から言えば余りに当然のことです。
そして、イエス様も、その当然の成り行きをご存知の上で、これまでも「わたしはある」と宣言して来られたのだし、今ここでも宣言しておられるのです。


「捜す」という言葉も簡単に振り返っておきたいと思います。
この言葉が最初に出てくるのは一章です。
イエス様の先駆者である洗礼者ヨハネが、イエス様を見ていきなり「見よ、神の小羊だ」という信仰告白をしました。
「神の小羊」とは、もう少し丁寧に言えば、「世の罪を取り除く神の小羊」ということです。
これも洗礼者ヨハネの言葉です。
その言葉を聞いて、ヨハネの二人の弟子たちがイエス様に従いました。
後についていった。その姿を見て、イエス様がこう問いかけます。

「何を求めているのか。」
これは、「誰を捜しているのか」と基本的には同じ言葉です。
その後、彼らはイエス様の招きに応えて、イエス様と一緒に泊まります。
その結果、彼らは、「わたしたちはメシアに出会った」と信仰告白をする人間になる。そういうことが一章に記されています。

そのことと全く逆の展開で「捜す」という言葉が何度も出てくるのが、7章から8章にかけてです。
それは仮庵の祭りを祝うために、イエス様がひそかにエルサレム神殿に上った場面です。
そこでは、エルサレムのユダヤ人、つまり、ユダヤ教の当局者が、イエス様を捕えようとして捜す、つまり犯罪者を見つけ出して処罰するためにイエス様を必死に捜すのです。
しかし、その実、彼らは心の内奥においてはメシア、救い主を捜してもいる。
しかし、イエス様は、その彼らに向って「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない」とおっしゃり、さらに「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われるのです。
ユダヤ人は動揺して「あなたは、いったい、どなたですか」と尋ねます。
イエス様からの招きを捜しているのです。そこでイエス様はこう答えられます。

「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ・・が分かるだろう。」

この言葉を聞いて、多くの人々が信じたとあります。
しかし、彼らは、主イエスの言葉の意味を全く理解していないのです。
「人の子を上げる」とは、主イエスを十字架に磔にするということです。
犯罪者として処刑することです。
しかし、実はその時、主イエスが神であること、神の栄光を現すお方であることが明らかにされるのです。

彼らのこの時の信仰は、そんなこととは何の関係もない、自分の栄光を求めているものであることが、イエス様によって暴かれていくことになります。
そして、イエス様を信じた彼らは激しくイエス様を憎むようになるのです。
そして、イエス様が最後に「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われると、人々は石を取り上げて、イエス様に投げつけようとする。
その時、イエス様は身を隠して神殿の境内から出て行かれました。
もはや、ユダヤ人の目には、イエス様の本質は見えなくなった。
捜しても、見つけられなくなったのです。

1章の弟子たちと7章8章のユダヤ人たち、イエス様をメシア、救い主であると信じ告白する者たちと、憎み殺そうとする者たちがここにはいます。
その両方とも、イエス様を捜す、イエス様が誰であるかを知りたがることにおいては、共通しています。
つまり、「捜す」という言葉と「わたしはある」という神様がここに居られるという言葉は、切っても切れない関係にあるのです。
それは、先週も言いましたように、人間はすべて神によって造られたが故に、その本性において神を求めるからです。
この世に命を与えられた赤ん坊は、見えない目で、必死になって自分を抱きしめてくれる親を捜します。
泣き声をもって捜すのです。
「わたしがあなたの親だよ。安心しなさい。わたしがずっとあなたと一緒に生きるから」と言って抱きしめてくれる存在を本能的に捜すのです。
それが人間です。


神様は、「光あれ」という言葉から世界を創造されました。
この光が命の源だからです。生物はすべて太陽の光がなければ生きてはいけません。しかし、年がら年中光だけが輝いていると生きてはいけない。闇もなければなりません。しかし、光あっての闇なのであり、闇だけでは命は存在しません。そういう光と闇の関係が、ヨハネ福音書を貫く一つの主題です。イエス様は命の光としてこの闇の世に来られたのです。それは誰もが必要としている光です。だから誰もがその本性において求めているものなのです。しかし、アダムとエバが、そうであったように、人は誰もが、自分が神のようになりたがるものでもあります。つまり、自分の光、自分の栄光を求めるのであり、神の栄光を求めることをしない。自分が讃えられることを求め、神が讃えられることを求めない。それが、光を求めつつ、光を拒絶するという矛盾した行為となって現れてくる原因です。光が来たのに、闇を好んで光の方に来ない。それが既に裁きとなっていると、主イエスは三章の段階でおっしゃっています。

主イエスが「わたしはある」と言える唯一のお方であることを信じること、それが光の子となる唯一の道であり、その信仰を拒絶する時に、人は「自分の罪のうちに死ぬことになる」のです。
しかし、こんなことを言われて気分がよい人はいません。気分を害するのは当然のことです。
そこで、人々は、主イエスを抹殺しようとする。これは、私たちにおいてもよく分かることです。
私たちは絶えず、自分の栄光を求め、自分の主人は自分であることに固執することによって、主イエスを抹殺しているからです。
一八章以降に登場する人々、躍起になって主イエスを殺そうとするすべての人々は、私たちのことでもある。
それは明らかなことだと思います。
しかし、これまでずっと言って来たように、私たちキリスト者は、主イエスの弟子でもある。
主イエスに守られ、光である主イエスの許に集められ、主イエスを礼拝している者たちでもある。
信仰を与えられる以前には、弟子ではなく、闇の世に属する者でしたが、今は、主イエスをメシア、「わたしはある」と言える唯一のお方であることを信じている者たちでもある。その問答の意味を考えなければなりません。

この問答は、表面的には、イエス様の顔が分からない人々に「私がイエスだ、あなたがたが捕えたいと願っている者だ」と教えているということになるでしょう。だからこそ、「私以外のものは去らせろ」ともおっしゃっている。
弟子たちは、この主イエスの言葉、命令によって、捕えられないで済んだのです。

しかし、そういう表面的な意味だけがここにあるわけではありません。
主イエスはここで根源的な問いを発しているのです。
「あなたがたは、誰を捜しているのか?あなたがたは神を冒涜し、この世の秩序を破壊する罪人を捕えんがために捜していると思っている。しかし、本当にそうなのか?あなたがたは、実は真の神を捜しているのではないか。どうしようもない矛盾と乖離を抱えたままの惨めな罪人である自分を救ってくれるメシアを捜しているのではないか?それは、わたしである。」

主イエスは、二度も、そのことを問い、答えるのです。
人々に自分自身の内奥と向き合うことを求め、そして、主イエスに向きあうことを求めるのです。そこには、ユダも共にいました。

地に倒れる

イエスが、「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
大勢の者たちが武器を持って、たった一人の男を捕えるためにやって来たのです。イエス様は空手です。
逃げもしません。
しかし、そのイエス様が「わたしである」「わたしはある」と宣言した時に、大勢の男たちが一斉に後ずさりして地面に倒れてしまった。
驚くべき光景です。
これは、神の現臨に触れた時の人間の反応です。
神が目の前にいますことが分かった時、人は平然と立っていることなど出来るものではありません。

「地に倒れる」とは、「ひれ伏す」とも訳される言葉です。
あのラザロの姉妹であるマリアが、イエス様の足元にひれ伏して、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った、あの場面に出てくる言葉でもあります。
死の力にも勝利するお方が目の前に現れた時の畏怖の姿、礼拝の姿がここにはあります。
しかし、その同じ言葉が、ここでは畏怖ではなく、恐怖を表す言葉となっています。
彼らは、神に触れて圧倒されたのです。
しかし、そこから礼拝に至ったわけではありません。
主イエスは、再び「だれを捜しているのか」と問われました。
けれども、彼らは、前と同じ意味で、「ナザレのイエスだ」と答えるのみです。
「後ずさりする」とは、6章では、多くの弟子たちが、イエス様から「離れ去る」という言葉として出て来ていました。
彼らは、「わたしである」に込められた真の意味を理解することができなかった、信じることができなかった。
そして、拒絶したのです。
その時、人間はイエス様を抹殺することになります。
そして、自分の救いの道を閉ざすことになる。
そんなことを自分がしているとは知らぬままに。

今まで語って来たことからも分かりますように、ヨハネ福音書において示されるものは常に表面的なことと裏の意味的なことが重ねられています。
全く逆な二つのことが重ねられていることもしばしばです。
だから、そこにリアリティがあるのです。

イエス様は神なのに人です。
ナザレのイエスでありつつ「わたしはある」というお方だということです。
イエス様は光ですが、その光は闇の中に輝き、闇を際立たせる光です。
人は光を求めつつも光を拒絶します。
礼拝するために地にひれ伏すこともしますが、地に倒れつつも拒絶することもします。
剣で戦うのですが、「あの人のことは知らない」と言って逃げもする。
礼拝する場所が裏切りの場所でもある。
救いを捜しながら救いを拒絶する。
そして、主イエスの栄光は、その死の中に現れ、神の力は人に捕えられる無力の中に現れるのです。

興味深いことに、「地に倒れる」は、一粒の麦が「地に落ちる」という個所でも使われるのです。
その三か所だけに出てくる言葉です。
主イエスは、ご自身の十字架の死が間近に迫っていることを悟られた時、こう言われました。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

神が一人子を遣わし、ナザレのイエスとされた、
どこからともなく現れてパッと消えてしまうのではなく、神が人間とされたのです。

この方は全ての罪のために十字架につけられようとしているのです。
人間の考えではありえないことが 神によってなされるのです。
わたしたちは ただただこのことを信じようではありませんか。

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