日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 内なるもの 2010/8/15 夕礼拝  エフェソ3:14-20

<<   作成日時 : 2010/08/22 12:20   >>

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祈るときの姿勢について、皆さんは考えたことがおありでしょうか。
普通私たちがお祈りというと、両手を組んで、目を閉じて、うなだれて、というのが普通かも知れません。

伝統あるヨーロッパの教会での礼拝で会衆の姿勢は3つだそうです。
立って賛美をする。
座って御言葉を聴く。
そして、跪いて祈る。
横浜教会のベンチには跪いて祈るためのひざアテがついています。

でも、これは世界どこでもそうか、というとそうでもないようです。
たとえば昔サッカーJリーグにビスマルクというクリスチャンの選手がいました。
彼がまだ読売ヴェルディで活躍していた頃、小山教会に来たことがあります。
まだ小さかった真穂を抱き上げてくれました。
ブラジル人にむけてポルトガル語の礼拝を持っていたので、知り合いを通じて礼拝に来て証をしてくれました。
だれにも言わないように、と口止めされていましたが教会に人があふれ、窓の外からも覗く人がいたことを覚えています。
そんな彼はゴールを決めるたびに、神様にしゃがみ込んで眉間を押さえるような仕草でいのりをささげていました。
そんなふうに地域によって、文化によって様々な祈りのスタイルがあるわけです。聖書の時代のユダヤ人のお祈りはというと、普通は立って、両手を広げて高く上げ、手のひらを上に向けて、そして首を垂れた、というのが一般的だったようです。
マタイの福音書6章なんかを見ますと、その当時人に自分の敬虔さを見せびらかそうとして、街角や通りで立って祈ることを戒めていますが、逆に言えばそれが普通だった、ということでしょう。

さて、今日ご一緒に開き読もうとしているみことばは、エフェソ人への手紙を書いたパウロが祈った祈りの言葉です。
この祈りは21節のアーメンというところまで続くわけですが、この祈りは、パウロの本当に真剣で熱心な、心を注ぎ出すような祈りです

パウロは16-17節で私たちのために祈っています。
「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
ですから、私たちは年が若いからとか、年老いているからとか、健康が弱いから、信仰が小さいからなど嘆かなくてよいのです。
それをパウロは、Uコリント書で次のように言っています。(4:16-18)
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
パウロはこれらの箇所で説教しているわけではありません。
ひたすらこの使徒は祈ってくれています。
私たちはの祈りのうちに生かされているのです。
ところで“使徒”とは何でしょうか。
人間が生きている中でキリスト教の秘儀の一部ですが、そのような者たちが存在したのです。パウロはその使徒の中で、自分は唯一の者なんかではなくて、さらに「使徒たちの中で最も小さな者である」と言い放っています。
使徒と預言者は、聖霊において生き、語ったのです。
いや彼らは今日も語り続けています。聖書において、あらゆる時代に、彼らの口を通して、主イエス・キリストにおいて、あらゆる人が無条件に受け入れられる言葉と祈りが鳴り響いています。
それは確かに「人の知識をはるかに超える」ものでありますが、これを知り、理解するように御霊なる神は導いてくださっています。
知識は見ることでありますが、見ることが目的ではありません。見て終わるのではなくて、見た知識を通して私たち自身が行動し、生かされることが目的なのです。
また「人の知識をはるかに超えるこの愛を知る」と言われているように、知識が頭の中でだけ留まっているのなら、それは決して行動に結びつきません。
知識は、愛となってほとばしり出ることが、ここで求められている知識なのです。

そのために「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解」しておきたいのです。
この4つの言葉の用い方を、単なる慣用句と思って読み飛ばすなら、その恵みは過ぎ去ってしまうかもしれません。
旧約のヨブ記11:7-9を見てみましょう。
「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。高い天に対して何ができる。深い陰府について何が分かる。神は地の果てよりも遠く/海原よりも広いのに。」あなたは神の〔高さ〕を究めることができるか。・・・地の果てよりも遠く〔長く〕と補うと同じ使い方がされていることを知ります。
ところで、愛に根ざした生活をするためには教会が必要です。
3:10「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって・・・知らされるようになったのです。」と言われているとおりです。
神の知恵は愛ですから、私たちは教会の交わりの中で愛を知り得ます。
私たちが一人で瞑想したり、個人の生活の中でキリストの愛を体験して知る知識もありますが、それらはあくまでも個人的、断片的なものでしかありません。
「すべての聖なる者たちと共に」キリストの愛についての体験と知識を共有し、総合して、初めて「その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」を幾らかでもうかがい知ることができるのです。
ある人は、このキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さについて、〔4方向の愛〕とか、〔愛の面積〕という面白い名づけ方をしています。
私は〔愛の体積〕よりかさらに+αの愛が含まれていると感じています。
というのは、神の愛は全世界を招くものであるからです。
神はその独り子をこの世にお遣わしになられたほどにこの世を愛してくださったからです。
霊的なこと、信仰に関することがらにおいて、魂が死んだ状態であり、可能性のなかったところに、神の恵み深い働きが神なき人々にもたらされるために、神の愛し子であるキリスト・イエスが来てくださったからです。
その大御心はいかに広いものであるかが示されます。
今や、救い主キリストの苦難と十字架における贖罪のための死によって、その愛は完全に世に顕されました。
そして、これが世の中に住む異邦人にまで及ぶこととなったことは、神の愛の広さを示すものでなくて何でしょうか。
私たち人間は例外なく、ただ自分の利益のみを求め、自己の名誉と栄達と幸福のみを追求するものです。
現実の社会の中には、身代わりになって他人を救い出したりする美しい話しがあります。
しかし、それらの愛を基には、世の罪人のために、罪のない神の子が苦難と十字架の死を遂げられたキリスト・イエスの愛があります。
神の真の愛の長さを示すものでしょう。
またその救いを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るという約束も神の愛の深さです。
私たちは自分に親切な者だけを愛する傾向があります。
しかし神はまだ罪人であり、敵であった私たちの救いのために御子を与えてくださいました。
さらに、キリスト・イエスにおける救いを信じる私たちに、永遠の命を与えてくださるこの神の愛の高さを感謝します。


この祈りでは、「内」と言う言葉が繰り返されます。私たちは、
自分の「外」「周囲」に神が働きかけることを願うことがよくあります。
けれども、聖書の祈りは、まず自分の「内」に神の働きかけを求めます。
「内」が整えられて、自分が変わるときに、周囲の見え方が変わり始めます。
そうすると、道が開かれていきます。
 この祈りでは、「内なる人を強めてくださるように」と祈り求めます。
「内なる人」というのは、精神や心ではなく「クリスチャンとしての自分」です。
それが強く、確かにされていくために、主イエスを心にお迎えすることを
祈り求めるのです。「住みため きみよ ここに この胸に」(讃美歌124)
を祈りの言葉とするのです。それを祈り求めていく時に、すでに、
主イエスが私たちの心に住んでいて下さることに気づかされるでしょう。
もうすでに、無くてはならないものが与えられていることに気づかされるでしょう。
 主イエスが、弱く小さな私たちの心に住んでくださる…このことによって、主イエスの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ります。私たちの心は、清く、正しく、美しいものとはいえません。汚れ、過ち、醜さがあるからです。
それにもかかわらず、主イエスは、私たちの心に住んでくださいます。
我慢をしながら、嫌々住んでいらっしゃるのではありません。
「あなたの所が良い」と言って、主イエスが私たちを選び、私たちの心に
住んでくださいました。人の知識をはるかに越える愛が、それをさせるのです。
この愛を知るとき、私たちの心は震え、内なる人が強められます。
 内なる人が強められることで、私たちは絶望ではなく、恵みと希望が見え始めるのです。

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