日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 常に世に勝つ 2010/8/8 ヨハネ16:26-33

<<   作成日時 : 2010/08/08 07:42   >>

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高校野球が始まりました。
全国の高校球児の憧れ、甲子園。
出場できることは大変な名誉であり、日ごろの努力と研鑽、汗と涙の結晶だといえます。

地元成田高校も初戦を突破したようです。
成田山新勝寺の系列の仏教校なので、関係者もいませんし熱を入れて応援することはありませんが、地元がセールをするのでぜひ頑張ってほしいと思います。
しかし、勝負事にはかならず勝ち負けがあります。
勝つか負けるかです。
8月の第二主日は平和主日として、礼拝を守っています。
今日が平和主日だから、平和のことを考える、というのではいけないのですが、
少し平和について考えてみたいと思います。

先日参加した牧会セミナーである改革派の牧師が、このようなことをおっしゃいました。
牧師会のあと、ホームで並んで電車を待っていると、ある男性が自分の前にすっと割り込んできたんだそうです。
そのことに無性に腹が立って、どうしてもその人を許せない、という感情になったというのです。
牧師をしているわけですから、その先生も赦しの体験を受けているわけですし、赦しの御言葉も語ってきているわけです。
そんな自分が、割り込みしたその見ず知らずの男性を赦すことができない、
今度はそのことに腹が立ってきて、落ち込んでしまったというのです。
何日もそのことを引きずってしまったということでした。

講師の先生が、こう説明されました。
赦すという関係は我と汝の関係にあります。
このように自分自身について赦せるかどうかということは自分の中にある我と我の関係にある、
この我と我の関係がきちんと整理されていないと我と汝の関係は完結しない。
そして、この我と我との赦しの関係を示すのは我と神の関係であると説明されていました。
なるほどなぁと思いました。


宗教改革者ルターはこんなことを言っています。
「私が来たのは平和をもたらすためではなくて、剣をもたらすためだ、と主が言われるように、十字架の福音が説かれると世のなかは騒然となる。平和が保たれたままで説教がなされるなら、それは福音ではない」。
わたしはこのこともなるほどと思いました。
私たちはキリストの救いの福音を聞いて疑ったり、驚いたり、あっけにとられたりするようなことがあります。
そうすれば、それこそそこにキリストの福音がある証拠だというのです。
私たちがキリストのことを聞いて、すべてその通りだと思い、なんの疑念ももたないなら、そこに知識や知恵はあっても、キリストの福音はないでしょう。
人間の知恵はキリストの福音が説かれるところでは、無駄になる場合もあるのです。
気づかされることが大切であり、そのことを経て初めて新しく創りかえられるということが起こってくるのです。

さてヨハネ福音書において「平和」という言葉は、3か所に出てきます。
すべて主イエスの言葉の中に出てきます。
本来、主イエスにしかお語りになれないことなのだと思います。

14章の終りには、こうありました。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

世が与える平和とは何でしょうか?
「天下泰平」という言葉があります。
ある人が、戦乱の世を勝ち抜いて最早敵なしという状態を作り出す時、その状態を天下泰平と言います。
日本の歴史では、徳川家康などは、「天下人」と呼ばれました。
戦乱の世に平和をもたらした名君だと言われています。

イエス様が誕生した当時のローマの皇帝オクタビアヌスは、「崇高なる者」を意味するアウグストと呼ばれ、「平和の君」として称えられていました。
またそう呼ぶように強制したそうです。
彼が生まれた日は、福音、喜ばしいおとずれとも呼ばれたのです。
自分に敵対する無数の人間を殺して作り出す平和、戦争に勝って作りだすひと時の平和、世が与える平和とは、そういうものです。
「人間の歴史は戦争の歴史である」と言われます。
表面的には平和と見える時代も何度かはありました。
かつてローマによる平和というパックス・ロマーナが謳歌された昔から、虐げられている人々がいなかった時代はありません。
しかもそれは、一方的な差別であったり支配であったりする場合がほとんどで、すぐに壊れます。

しかし、イエス様が与える平和とは、このように世が与えるようなものではありません。
この言葉が最後に出てくるのは、20章です。
「あなたのためなら死にます」と言いながら、イエス様をひとり残して逃げ去り、自分の家に戻ってしまったペトロを初めとする弟子たちが、己が罪に打ちひしがれて蹲っているあの真っ暗な部屋の中に、復活の主イエスが突然現れて下さったあの日曜日のことです。
その時、主イエスは十字架に磔にされた釘痕が残る手を広げて、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さいました。
この「平和」、それはイエス様を裏切った弟子たちに対する罪の赦し以外のものでもないのです。
分かった、信じたと言いながら、全然分かっていない。
全然信じていない。
「あなたのためなら死にます」と言いながら、死にはしない。
愛していると言いながら、本当に愛しているわけではない。裏切ってしまう。
彼らは、主イエスを裏切り、また自分自身をも裏切り、最早、自分でも自分を赦すことが出来ない絶望のどん底にいるのです。
罪とは結局、絶望だといえます。
そのどん底のさらに下、暗黒の死の闇の中にまで降り給うた主イエスが、そのことの故に、父に復活させられ、今、復活の命の光として弟子たちに現れて下さった。
そして、その最初の言葉が、「シャローム 平和があるように」なのです。
「心配しないでよい。わたしはあなたたちを赦した。信じなさい。この愛を信じなさい。罪と死の力に勝利したわたしを信じなさい。これに勝る力はないのだ。信じなさい。そうすれば、あなたたちは新しく神の子として生まれ変わることが出来る。そこにこそ平和があるのだ。」そう語りかけて下さるのです。

嘆き悲しみ、苦痛のどん底にいた彼らは、この主イエスの言葉を聞き、またその姿を見た時、先ほどお読みいただいた、主イエスがお語り下さった謎のような言葉を思い出したでしょう。
そして、イエス様がおっしゃった通り、誰も奪い去ることが出来ない喜びを与えられたのです。
このときはっきり父のことが分かった、その愛が分かったのです。

その彼らに向って、主イエスはこう言われました。
イエスは重ねて言われた。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

主イエスを信じて、新たに神の子として生まれた者は、主イエスが父から遣わされたように、今度は主イエスから遣わされます。
そして、父は子がその御心を行っている限り、どんな時も共におられるように、主イエスもまた、弟子たちが聖霊の導きに従って使命を果たす限り、常に共に生きて下さるのです。
ひとりにはしておかれない。
その使命とは何か、と言えば、罪を赦された者として、罪を赦して生きるということ以外のものではありません。
そういう意味で、この世に平和をもたらすことです。

主イエスは、そう言って、聖霊を与えて弟子たちを派遣されました。
その派遣に応えて、弟子たちが聖霊の導きの中で罪の赦しという勝利の福音を宣べ伝え始めた、キリストを宣べ伝え始めました。
そして、信じる神の子らが続々と新たにされました。
その結果、キリスト教会がこの世に誕生し、今もその使命を生きているのです。私たちがまさにその教会です。
教会が使命を生きているからこそ、私たちは罪人の救いのために独り子を与えた父なる神の愛を知り、主イエスを愛し、信じることが出来るようになったのです。そして、その信仰の故に、罪を赦され、神の子として生まれ変わり、いつも神様と共に生きる真の平和を与えられています。
だからこそ、今、神様の愛を宣べ伝える使命を生きるのです。

成田教会では礼拝の派遣の部で、派遣の言葉というところがあります。
そこで私はイザヤ書52章を朗読します。
いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げよ。

こんな有難いことはありません。
主イエスは、こんな私たちに尚も期待し、この栄えある平和の使者として送り出してくださるのです。
私たちは、自分に絶望することは沢山あります。
絶望し、諦め、投げやりになって落ち込んでします。
どうせまた罪を犯す、どうせ赦せない、どうせ赦されない・・、私たちの肉はそう思うのです。
しかし、聖霊は、「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたの罪を赦している。わたしを信じれば、愛と赦しに生きることが出来るのだ。わたしはあなたに期待をしている。だから、わたしはあなたを遣わす。」
そう言ってくださるのです。
罪の赦しは、人間の業ではありません。
私たちが自分の力で出来ることではない。
それは我と神にこそ起こる、神の業なのです。
ただ聖霊を受け入れる時にのみ、私たちもなすことが出来ることなのです。
私たちが信仰をもって主イエスの中に生きる時、この世を去って主イエスの中に生きる時、それは天地をも生死をも貫いて私たちを生かすのです。
そして、そこにのみ平和があるのです。
私たちが帰るのは、自分の家ではなく、父の家なのです。
心を騒がせる必要も、脅える必要もない、そこにこそ真の平和があるのです。
主イエスは、既に世に勝っているのですから。
主イエスの十字架と復活を通して示された愛の力で、罪は完全に打ち負かされているのです。

問題は、私たちがその勝利の主イエスを信じ、主イエスの中に生きるかどうか、また主イエスを迎え入れるかどうか、それだけなのです。

そのために勇気が必要だ と聖書は語ります。
この「勇気を出す」という言葉は福音書にいくつか用例があります。
主イエスが中風の人を癒したとき、「元気を出しなさい」(マタイ9章2節)と言われたのがそうです。
弟子たちが湖の上で暴風に遭い、湖上を歩いて近づいてきたイエスを見て「幽霊だ」と怯えたとき、イエスが彼らに言われた「安心しなさい」(14章27節)という言葉も同じです。
カラ元気を煽ったのではありません。
「主が共にいるから安心だ」という意味です。
しかし、主イエスがここで「勇気を出しなさい」と言われたのは、誰かを敵に回して戦うためではありません。
主イエスご自身が模範を示されたように、互いに愛し合うため、すべての人と共に平和に生きるため、「あなたがたがわたしによって平和を得るため」であった。私たちが勇気を出すのは、ただそのためです。
愛への勇気。平和への勇気。
聖霊を求め、常に新たなる信仰をもって生きる時、私たちは主イエスによって罪の縄目から解き放たれ、罪を赦す愛に生きることが出来るようになっていきます。
そのことを通して、主イエス・キリストを証しすることが出来るようになっていくのです。
今日、こうして礼拝を捧げていることも、その証しそのものなのです。
この礼拝で、聖霊の導きの中で主イエスの言葉を新たに聞いた私たちは、はっきりと神様の愛の勝利を知らされたのですから、つまずきを取り除かれ、勇気を与えられて歩み出すことが出来ます。
勇気を持って平和の使者として、この世へと出てまいりましょう。

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