日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神の時、栄光の時

<<   作成日時 : 2010/07/25 18:41   >>

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先日、全国ティーンズキャンプ検討委員会で神戸平野教会の祈祷会にお邪魔してきました。
平野教会では普段は朝と夜と2回の集会を持っているということでしたが、CECの委員会とキャンプ準備委員会のために委員の先生がたがあつまるということで、朝の集会は夜に集約するということで20名以上が集っておられました。
1時間あまりテーマに即した祈りがささげられた後、メッセージは鹿児島教会の久保木聡先生が取り次いでくださいました。
久保木先生は神戸大学の出身で、学生時代は平野教会に出席し教会学校やキャンプなどの奉仕に当たっていらっしゃったということでした。
奥様が神戸出身ということで、神戸には何度か行かれることもあったようでしたが、新会堂が建ちあがって初めてということでしたし、信徒さんと会うのは十数年ぶり、という方々もおられたようです。

そんななか、冒頭、久保木先生は、こうおっしゃいました。
今日、わたしが神戸平野教会で語るのはこれが最初で最後かもしれません。
聴く方も語るほうもこれが最後の説教になる、最後の神の言葉となるという緊張感を持つということは大切なことではないか、というのです。
なるほどなぁ、と思いました。
私も心して準備し、もっと真剣に御言葉に向き合わなくてはと身が締まる思いでした。

主イエスの惜別説教と呼ばれる16章を終えて、今日は17章から学んでまいります。

この17章は、主イエスの祈りが綴られている箇所です。
「大祭司の祈り」などと呼ばれる個所です。
ある人はこの祈りを「大祭司の祈り」と呼ぶことに違和感があると言いました。それは「大」という言葉をつけようが何をしようが、イエス様と比べることが出来るような祭司など、どこを探したっていないからです。
その理由をいくつも挙げることが出来ますけれど、1つ決定的なことは、イエス様は、父に向ってこう言える唯1のお方だからです。

ヨハネの17章では、主は三つのことを祈っておられます。
1-5節で主はご自身について祈り
6-19節ではご自分の弟子たちのために祈り
20-26節で将来の弟子たちのために祈っておられます。
イエスは、ご自分のためにも祈られましたが、イエスの祈りの大部分は、弟子たちのため、キリストを信じる人々のための祈りでした。


「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」

これは父なる神の独り子、つまり、独り子なる神であるイエス様の言葉です。
これは、世が造られる前に神の御許にいて栄光に輝いていた独り子なる神の言葉なのです。
私たちがそのまま信じるべき言葉であり、信じることが出来るなら、そのことにおいて永遠の命に生かされる神の言なのです。
私たち人間を代表する祭司の言葉ではありません。
しかし、そういうお方であるイエス様が、祭司のように私たちのために祈って下さっている。それは事実です。

更に主イエスは、ヘブライ人への手紙7章で「ご自身を捧げて永遠の贖い、執り成しをなさるまことの大祭司である」とされています。イエスの祈りは他にもあります。
この祈りの中には、「栄光」という言葉が繰り返し用いられています。
「栄光」はギリシャ語でドクサ。
意見、評価、好評、賞賛、名誉、光輝、輝き、の意味です。
また、七十人訳聖書では、至聖所の輝き(シェキナー)を表す訳語となります。
「ドクサゾー・トン・セオン」となると、神に栄光を帰する、神が生きて働いておられることを認め、それにふさわしい生き方をする、という意味となります。

栄光とは、神ご自身を顕すことです。
イエスの十字架の死と甦りは、栄光である、と理解されています。
全ての罪人の罪をその背に担い、死んで、三日目に甦り、永遠の命の先駆けとなられました。
これによって、父なる神の愛を顕されました。
神ご自身を顕されたのですから、主イエスも栄光をお受けになります。
そしてこの栄光は弟子たちにも与えられ、彼らの永遠の命となります。

「永遠の命」とは何でしょうか。
17:3は「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語ります。
永遠の命は、ヨハネ福音書では、御子イエスを知ることだとあります。
では理知的で頭脳明晰な人は信仰の世界でも有利で、成功者になれるのでしょうか。

感覚的、情緒的な人が頭脳明晰ではない、と言っているのではありません。
現代社会では、偏差値、学歴によって多くのことが決定されている、ということです。
そのために、自分の子供には少しでも良い成績、進学、就職を有利にしたい、と願います。この考えの中では、賢いことと努力する才能が必要です。

「永遠の命」を得るためには、そうしたものは不要です。
むしろ邪魔になることが多いでしょう。
イエス・キリストを知るためには、才能や系図は不必要です。
私たちが、日本的に「知る」ことを捉えている限りこのことは解らないでしょう。
ヨハネは、当然日本人ではありません。
ギリシャ的な考えや知識をもっているかもしれませんが、それでも彼はユダヤ人です。ヘブライ人です。

多くの学者が、ギリシャ(ヘレニズム)とユダヤ(ヘブライズム)の考え方、言葉の使い方、文章法を比較研究し、その違いを明らかにしてきました。
歴史観(らせん状円環と直線)や宇宙観(二元論と一元論)などの違いもあります。
最も特徴的なのは、「知る」という言葉の理解と使い方です。
ギリシャでは、対象を認識することです。
自分と対象、相手とは相変わらずそのままでよろしいのです。
私たちの場合も、そうではありませんか。「私は・・・・さんを知っています」、それだけ。
それに対してユダヤでは、「知る」ことは人格的な交わりを伴う、とされます。
創世記4:1をお読みしてみましょう。
「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、・・・」。これが人格的交わりです。愛すること、という方もあります。

主は、「父よ。時が来ました。」と祈られました。
その「時」とは、キリストが十字架で死なれる時、復活される時、そして、父なる神のもとから降りてこられたキリストが、ふたたび、父なる神のもとに帰られる時のことをさします。
ヨハネ福音書の最初の軌跡(徴)はカナの町の結婚式の話でした。
母マリヤから「ぶどう酒がなくなりました。」と言われた時(ヨハネ2:4)や、兄弟たちに「ガリラヤにいないで、ユダヤに行って奇跡をやってみせたらどうだ」と言われた時(ヨハネ7:6)など、主は、これまで、「私の時はまだ来ていません。」と言ってきました。
しかし、エルサレムに入城された後には、主は「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」(ヨハネ12:23)と言われました。
「この世を去って父のももとに行くべき自分の時が来たことを知られた」主は、最後の晩餐の時に、弟子たちへの愛を残るところなく示されたのでした(ヨハネ13:1)。
それで、十字架を前にしたこの時、主は「父よ。時が来ました。」と祈られたのです。
人間は生まれる時も、死ぬ時も自分で決めることはできません。
また、苦難の時や幸いな時を自分で選ぶこともできません。
詩篇に「私の時は、御手の中にあります。」(詩篇31:15)とあるように、私たちの時は、神の手の中にあります。
しかし、キリストは、神の御子ですから、ご自分で、ご自分の時を定めることができたはずです。
それを早めることも、遅らせることもおできになったでしょう。
しかし、主は、そうはなさらずに、神が定めたままに、その時をお迎えになりました。
「父よ。時が来ました。」この祈りの中には、キリストの父なる神への従順なお姿が表わされています。
キリストがご自分の権利を捨てて、父なる神に従われたのは、私たちの救いを成就するためでした。
罪を犯して神から離れていった人類を救うために、神は救いの計画を立て、それを長い歴史の中で推し進めてこられましたが、ついにそのご計画のクライマックスがやってきたのです。
キリストが、全人類の罪のためにご自分をささげ、その犠牲によって、人類の罪を赦し、その復活によって、信じる者に永遠のいのちを与える時がやってきたのです。
キリストは、父なる神への従順によって、私たちのための救いの計画を寸分違わず成就し、私たちのための救いを勝ち取ってくださったのです。

「時が来た」という言葉を中心にして振り返っておきたいと思います。
その上で、主イエスの祈りの世界に入っていかないと、「祈り」という信仰において最も深い世界のただ表面をなぞるだけになってしまうと思うからです。

17章は、14章から始まる告別説教が終った後に出てくる祈りです。
この祈りが終わった途端に、主イエスはユダヤ教の支配者たちによって逮捕され、あっという間に処刑されてしまいます。
そういう受難の切迫、それは12章の半ばの段階で、イエス様には明確に示されています。
イエス様は、過ぎ越しの祭りにやってきたギリシア人(異邦人)が、イエス様にお会いしたいと願っていることを知って、突然こうおっしゃったのです。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。1粒の麦は、地に落ちて死ななければ、1粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

その言葉に対して、この福音書を書いたヨハネが、「イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」と解説を入れています。
つまり、主イエスの十字架の死とは、ただ単にユダヤ人のためだけではない。ギリシア人、つまり異邦人のためでもある。すべての人のために、主イエスは1粒の麦として死なねばならぬということです。そのようにして「すべての人を」ご自分のもとへ引き寄せる。その「時が来た」ということを、主イエスだけが知ったのです。

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることが出来るのです。」

これまでも再三言って来たことですが、ヨハネ福音書におけるイエス様は、十字架に磔にされて死んでしまう前のイエス様であると同時に、復活して天に挙げられ、聖霊において戻って来て、弟子たちと再び会い、教会の中に生きておられるイエス・キリストである場合があります。
また、3節の言葉がそうですけれど、イエス様の言葉の中に、この福音書を書いたヨハネ、あるいはその教会の信仰告白の言葉も混ざり合っているのです。
それは実は、紀元2010年を迎えた日本でイエス様を信じている私たちにとっては、極めてリアルなイエス様なのです。
私たちはこの礼拝において、過去に地上を生きたイエス様が語られた言葉を聴くだけではなく、今生きておられるイエス・キリストの言葉を聴くのです。
また説教とは、そのイエス・キリストに対する信仰告白であり、イエス・キリストが語る言葉の取り次ぎでもあるのです。だから、私たちの毎週の礼拝において起こっている事態が、ヨハネ福音書の中ではいつも起こっている。

イエス様はこの祈りの最初にも「時が来た」という言葉をお使いになっています。
そして、すべての人を支配する「権能」を父から与えられた、とおっしゃっています。

この権能は、十字架の死から甦ったイエス様、つまり、罪と死の支配を打ち破り、永遠の命に生きるイエス様、イエス様が神、インマヌエル(我らと共にいます神)であることが明らかになった時に持つ権能なのです。
そういう権能が、既に父から子に与えられているとお語りになっている。
ヨハネ福音書においては、この場面のイエス様が、「既に世に勝っている」お方なのです。罪と死の支配を打ち破っているお方なのです。

「すべての人を支配する権能」とは、言うまでもなく世を支配する王の「栄光」に満ちたものです。
しかし、既に読んだ言葉から分かりますように、イエス様の「栄光」とは、何よりもイエス様が1粒の麦として地に落ちる、命を捨てることだというのです。
そのことにおいて現わされる栄光です。
主イエスは、ご自身の命を十字架の死に引き渡すことを通して王となり、「すべての人を自分に引き寄せよう」とされたのだし、今もされているからです。
「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とは、十字架の上に上げられることだし、同時に復活して天に挙げられることです。
そのことを通して、すべての人、つまりすべての罪人の罪を赦し、死を打ち破り、ご自身のもとへ、つまり父の住まいへ、天と地を貫き、肉体の生と死を貫いたご自身の教会へ、永遠の命へ引き寄せようとして下さっている。
そこに独り子なる神様の栄光が現れるのです。
そこにこそ権能が現れているのです。
ですから、この権能は何よりも愛において現れる、それもご自身の独り子をさえ惜しまず与える神様の愛、また自分の命を1粒の麦として捨てる御子の愛において現れるのです。

「永遠の命」を得るために必要なのは、イエスを知的に認識する事ではなく、神の愛を受け、イエスを愛することです。
それだから、ヨハネは3:16に書きました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
私たちは愛されて、愛を知ることが出来ます。
イエス・キリストを仰いで神の愛を学ぶことが出来ます。
愛を知り、愛するものに成らせていただきましょう。

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