日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 喜びに満たされる 2010/7/18 夕礼拝 ヘブライ13:7−16

<<   作成日時 : 2010/07/18 20:52   >>

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三浦綾子さんがエッセイの中でこのように書いています。
三浦さんは戦前、教師として、絶対天皇制軍国主義の中で、現人神である天皇への忠誠を生徒に教えてきました。
国のために死ぬことは最高に価値あることと伝えてきたが、敗戦後、天皇は人間宣言を出し、民主主義という新しい価値観が入って来ました。
今まで大事に使っていた教科書を墨で塗りつぶさなくてはならない。
彼女は自分のよりどころ、自分の正義、自分の価値観を失ってしまったのでした。
その後聖書に出会い、永遠のキリストのことばに出会うまでは、お酒と投げやりな自堕落な生活におぼれてゆくしかなかったと。


本日の箇所、7節には指導者の信仰にならいなさい。との御言葉があります。
そのことを全うすることができなかった方々に主の哀れみがあることを祈ります。
キリストにあって、同じ神を信仰する民として、教会の信徒一人ひとりに主の哀れみと傷付いた心に癒しがありますようにと願います。

ユダヤのおきての中には、とても厳しい決まりごとがありました。
詳しくはレビ記に記されています。
今日はそのことには詳しくは触れませんが、特に食べ物に関する規定は、厳格に守られてきました。
この決まりを守ることが、自分たちがユダヤの民であることの意味であり、誇りでもありました。
このことによって、神に仕え、神を喜ばすことが出来ると考えられていました。
また、ユダヤの聖別された民として生活することが求められました。
この手紙の読者は、ユダヤ人の宿営から締め出されることを恐れていました。しかし、彼らが真に恐れるべきことは、「こんなにもすばらしい救いをないがしろにする」(2:3)ということや、「自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与えるようになる」(6:6)ことです。
私たちは、自分自身の罪の性質や臆病さに振り回されます。
その結果、イエスキリストは裁判で死刑の判決が下され、そのため鞭で打たれました。
この上ない辱しめを受け、町の門の外に連れ出されました。
即ち、聖なる場所である門、祝福され、神から守られると約束された場所から、のろわれた者たちが捨てられる宿営の外、門外につれ出されたのです。
この手紙の読者が恐れているユダヤの民の守りから見捨てられたものとなってしまったのです。
そこで、着ているものははがされ、十字架につけられ、殺されていったのです。これはまさに、この世の中で極悪罪人だけにされる極刑であります。
しかし、キリストイエスはたったの1つの罪も犯していない、全く潔く、正しい人でありました。
ですから、本来、そのような刑罰を受ける理由もありませんでした。
にもかかわらず、当時の指導者たちが一方的に死刑に定め、刑を執行して行った時、その彼らのなすがままに身を任せられたのです。
天の神が、われらを赦すためにご自身を十字架にかけるということをご存知であったからです。
そして、あの十字架上において、「エリ、エリ、レマサバクタニ」と叫ばれました。
これがまさに私たちの罪に対する、身代りの刑罰の叫びなのです。
キリストは、私たちのこの刑罰を何としても避けさせるため、自分から進んで受けて下さったのです。
ですから、私たちはキリストのこの犠牲の愛が心にふれた時、キリストにならうものとならなくてはなりません。
イエス・キリストは、きのうも今日も、いつまでも同じです。
と8節に書かれています。
キリストはいつも変わることがありません。
どのようなときも私たちを愛し、赦してくださいます。



いまや、「御国」や「天の国」は非現実的だ、と考えてしまうかもしれません。
勿論だれも見たことはありません。
行ったこともありません。
しかし、私たちは、天にある永遠の都と知っています。
朽ちることのない終わらない都を待ち望んでいます。

だからこそ、我々は犠牲を払わねばなりません。
賛美のいけにえを捧げるのです。
私たちは天を見上げ、ともに賛美をしたいと思います。

神の愛は抽象的な形容詞の世界ではなく具体的な動詞の世界です。
そこにはことばの数以上に、行動する実践的な「愛」があります。
神は私たちの罪を赦すために、御子イエスキリストをこの世に遣わしました。キリストは神の御子であられたにもかかわらず、栄光を捨て、十字架の死に至るまで父の御心に従われ、みずから進んで十字架にかかり、苦しみをひとりで背負いきって、「父よ、彼らをお許しください」と執り成しの祈りをささげ、自らの死をもって私たちの罪を償ってくださいました。
キリストの十字架の死は、作り話の架空のドラマではなく、神の愛がこの世界に証しされた事実なのです。
十字架にかかって罪を背負い、いのちと引き替えに私たちの罪を赦し抜いてくださった本物の愛がここにあります。
ですからヨハネは「ここに愛がある」と叫ぶことができたのです。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
(1ヨハネ4:10)
あなたがキリストの十字架の愛を知ったならば、この世界の作り事の愛やむなしく移り変わる人のことばに依存することから解放されます。
偽物の愛でキズついた心は、本物の愛でのみ癒されるのです。
そしてあなたを癒し、あなたを救い、あなたを新しく生かす、真実な永遠の愛が、キリストの十字架のもとにあるのです。
イエスキリストは昨日も今日もとこしえまでもかわりません。
よみがえられたキリストのことばは真理であり、十字架において示されたキリストの愛は真実であり、永遠にその価値は変わることがありません。
昔の船乗りたちは、北半球を航海する時には北極星を目印に、南半休を航海する時には南十字星を目印にしたそうです。
キリストはいつも私たちの行く前を歩き、その道を示してくださいます。
あるときは先導し、またある時はともに歩み、そして、またある時は後ろからそっと前へ送り出してくださいます。
私たちもキリストを見失ってしまってはなりません。
私たちはその後ろを喜びと感謝のうちに神を見上げて歩むとき、神の御国へと連なるものとされるのです。

私たちは激しく変化し価値観が多様化する現代社会の中で、イエスキリストご自身とキリストのことばとキリストの愛を、ゆるがない光として仰ぎ、人生の荒海を航海してゆきましょう。
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」

人間はすべて地上では旅人であると聖書は明確に語っています。
私たち信仰者はこの地上に永遠の安住の地がないことを深く自覚しつつ、永遠のみ国をめざして地上を旅する神の民であります。
また、神が私たちの人生の旅を守り導いて下さるという、ゆるがぬ事実を知っています。
私たちは今、神の民として、信仰をもって地上の旅を続けています。
生ける主キリストはいつも共にいて、ある時は、後ろから『目標をめざして、しっかり歩みなさい』と支え励ますように語って下さいます。
ある時は前から招くようにして『この世の旅は悩みが多いが、勇気を出しなさい』と声をかけて下さいます。
なんという慰めにみちたみ言葉でありましょう。

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