日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神に選ばれること 2010/6/20 ヨハネ15:11-17

<<   作成日時 : 2010/06/20 09:24   >>

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政権が交代してもうすぐ1年、消費税でまた国会が揺れています。
サミットのたびに首相が変わる日本です。


13章から頻出し始めた言葉は「愛する」という言葉です。
主イエスが、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗う時から「愛する」ことが主題となっているのです。
そして、ユダが出て行った後、主イエスは、残った弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という「新しい掟」を与えられました。
彼らがこの掟を守ることを通して、彼らは弟子となるのだし、そのことを人々が知るのです。
それはつまり、彼らの姿を通して、人々がイエス様を知る、その愛を知るということです。
そのことこそが「豊かな実を結ぶ」ことであり、イエス様をこの世に遣わした、さらに与えた父なる神様が栄光をお受けになること、つまり、神様の栄光が讃美されることなのです。

私たちは、命令と聞くと、拒否反応を起こす場合があります。
私などは子どもの頃から反抗的な人間でしたから、親や教師に色々命ぜられることが嫌いでした。
でも、たとえば、3階建ての建物で火災が起きて3階の窓から救出を求めている人がいるとします。
消防隊が到着し救助用のマットを広げて「この救助のマットに向かって飛び降りろ」と命令してきたとしたとします。
それは私の命を助けるために命がけで来てくれた人の命令なのですから、自分は誰の命令にも従わないのだから言うことをきかない、という人はいないでしょう。
感謝感激して、喜んで命令に従うでしょう。
自分の命の危険をも顧みずに、私を助けるために来て下さった方が、何とかして私を生かそうとして命令をして下さったのですから。
そして、命令に従ったことで生きることが出来た時、命の恩人としてその方に感謝するでしょう。

主イエスは「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」とおっしゃいました。
それは、単なるわがままな命令ではなく、そこに私たちの救いが懸かっているということです。
主イエスは、私たちを何とかして救いたいと思って、父の許から来られた方です。自己愛に捕らわれ、他人のことなどどうでもよい、自分さえよければよいという思いから解き放たれることのないこの私たち、エゴイズムの縄目に束縛されてどうにもならない私たちの行きつく先は孤独であり、断絶です。
神とも、人とも本当には繋がることが出来ず、どこからも命の糧を受けられないまま、やがて枯れてしまい、焼かれてしまう裁きとしての死なのです。
その裁きとしての死、何の実も結ぶことなく滅びてしまう死から私たちを救い出すために、主イエスは神の許から遣わされてきた方です。
そして、私たちを「友」と呼び、その友が救われるために死んでくださったお方なのです。
そのお方が、「そこに留まっていては駄目だ。愛の掟を守れ、互いに愛し合え、わたしの愛に留まれ。そこにこそ命があるのだ」と命じてくださっている。
そういうことなのだと分かれば、その命令を聞くだけで、私たちの心は喜びに満たされるのではないでしょうか。
さらに、その命令に従うことが出来るなら、その喜びは数倍、数十倍になるはずです。

時代によってコロコロ変わるこの世の国に属しているのではなく、永遠の神の国に属しているか、それこそが問題です。
神に属することは、この世に属さないことです。
そして、この世に属することは、神から離れることです。
この世にありつつ、そして、この世における責任はきちんと果たしつつ、しかし、この世には属さない。
堕ちない。それが私たちキリスト者、キリスト教会の在り方なのです。

しかし、それでは、イエス様はこの世とは断絶した秘密結社のように内向的、閉鎖的に生きよと、私たちに命じているのかと言うと、そうではない。全く逆です。それは一体どういうことか?

そこで私たちがどうしても思い起こさなければならない言葉が、3:16-17の言葉です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

この言葉は決定的な言葉です。
神様は世を愛しておられるのです。
その愛は、最愛の独り子を与えてしまうほどの愛です。
そして、独り子であるイエス様は、たった一つの命を与えてしまう。
その相手である「世」は、しかし、独り子を憎み、神を憎んでいる。
実際には、「神を憎んでいる」とも思わずに憎んでいるのです。
自分の命の源を憎む、自分の救済者を憎む、そんなことは本来あり得ない事です。
たとえ仕事だからとはいえ自分の命を懸けて助けに来てくれた人を憎むなんてことは考えられません。
でも、現実にそういうことが起こっている。
何故かと言うと、自分が絶体絶命のピンチに陥っている、幹から離れた枝でしかないことに気づいていないからです。
炎が迫ってきている情況にも関わらず、本当の死の恐怖に怯えていないからです。
だから、助けに来てくれた者の命令が鬱陶しいものに感じるのだし、拒否すべきものに感じる。
世の楽しさにまだまだ身をゆだねていたい者にとって、神の招き、選びは迷惑なものであり、しつこく招く神は排除すべきものです。
しかし、神はご自身を憎む者たちを愛し、彼らが愛してくれる保証はどこにもないのに、一方的に独り子を既にお与えになってしまったのです。
これはあり得ないこと、私たち人間には不可能なこと、この世の中にはないことです。

主イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」とおっしゃいました。でもこれは直訳すると、「これ以上大きな愛を、人が持つことはない。その愛とは、友たちのために自分の命を捨てる愛である」となると思います。
ちなみに「友」は複数形です。つまり「友たち」なのです。
いわゆる唯一無二の親友ではない。
ある意味では、不特定多数の人たちです。
イエス様は、それに続けて、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と条件を付けておられます。
しかし、それに続けて「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とおっしゃる。
この言葉は、十字架にかかる直前の言葉と言うよりは、やはり、十字架の死、復活、聖霊付与を経ての言葉だと思います。
聖霊が与えられた時に初めて主イエスの言葉、その業の意味が弟子たちには本当の意味で分かった上で書かれたことがわかります。

しかし、それにしても、この「友と呼ぶ」というのは一方的な言葉です。
これは、「既に呼んだ」、そして「呼んでいる」という完了形です。
どうして主イエスは友と呼ぶのかと言えば、既に父の御心を彼らに告げ知らせたからです。
しかし、その御心を「行うならば」と言いつつ、「その時は友と呼ぶことにしよう」という未来形ではない。
既に今、「友と呼んでいる」のです。
主イエスにとって弟子たちは今既に友だということです。
そして、その友のために命を捨てる。
いや、既に捨てているから友なのです。

先ほど、この言葉の「これ以上大きな愛はない」の直訳は「これ以上大きな愛を、人が持つことはない」であると言いました。
英語ではほとんどの場合、「no one have」と「誰もこれ以上の愛は持てない」「こんな愛に生きる人は誰もいない」となります。
愛の大きさと同時に、その愛を生きる人などいないことが明言されているのです。そして、それは大事なことだと思います。

実はこの「命を捨てる」という表現を既に使った人がいます。
ヨハネ福音書の場面設定で言うならば、今も主イエスが語り続けている最後の晩餐の席上のことです。
「わたしの行く所に、あなたはついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われる主イエスに対して、ペトロはこう言いました。

「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
しかし、彼はもうじき、「あなたは、あの人の弟子のひとりではないか」と言われると、「違う」(わたしは、そうではない)と打ち消します。
三度も、です。
主イエスは、彼が弟子であることを否定する、いや「捨てる」ことを御承知だったのです。
主イエスとの愛の関係から離れ、主イエスを拒むことになることをご存知だった。
しかし、主イエスは、そういうペトロを初めとする弟子たちのことを、「友と呼ぶ」と言い、その友たちのために命を捨てるのだし、事実捨てたのです。
こういう愛を持っている人はいない。No one誰も居ないのです。

しかし、主イエスは、「新しい掟」を弟子たちに与えて以後、その愛を持って生きることを私たちに求め、そして命じられました。
私たちは今日、その求め、その命令の前に立っている。
何度も主イエスの弟子であることを捨てて、この世に埋没し、自己愛にのみ生きてしまう私たちのために命を捨てて下さった主イエスの求め、命令の前に立っているのです。
厳しいことです。

その主イエスが、その友である、また友となっていくべき弟子たちにこう言われます。(16節)
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしが任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

私たちキリスト者は誰も、自分でキリストを選んだわけではありません。
逆に、自分がキリストを選んだと思った人は、そのうち教会からいなくなります。
キリストを捨て、弟子である身分を捨てるのです。
自分で選んだのだから、捨てるのも自分の意志だということです。
自分にとって必要がなくなれば、教会に留まる理由などありません。
教会を去る理由はいくらでもあります。
しかし、キリストに選ばれた人は消えない、消えることが出来ません。
キリストが私を捨てない限り、私たちは教会から消えることはないのです。
その私たちは、ぶどうの木である教会の中で兄弟姉妹として愛し合うこと、互いに友として愛し合うことを通して、主イエスの弟子として、また友として生きて行くのです。
それだけだって、私たち人間の力で出来ることではありません。
私たちは、枝として幹に連なっていなければ何も出来ない、愛の実を結ぶことなど出来ないのです。

では、実を結ぶということはどういうことでしょうか
7節には、「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とあります。
先になりますが、16節にも、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
とあります。
いずれも不思議な言葉と言うか、違和感を抱く言葉なのではないでしょうか。
願うものは何でも叶うとか、与えられるとか、そんなことがあるのでしょうか?
私たちの信じる神様は、願ったならば無病息災、家内安全、商売繁盛をかなえてくれるというものではありません。

梅雨に入ったこの時期、明日の予報も雨らしい。
日曜日に雨だったら皆さんは大変だろうなと心配になります。
しかし、「毎日晴れにしてください」と願うことが、ここで主イエスがおっしゃっていることなのかと言えば、やはり、それも違和感を持つ話です。
では、一体どういうことなのか?

決定的なことは、「願ったらならば何でも叶う」ということではありません。
主イエスに「つながっている」ことであり、その主イエスの「名によって願い」「叶えられる」ということでしょう。
それは端的に言って、主イエスの愛の内におり、主イエスを愛し、主イエスの愛で互いに愛し合いつつ、神に願うことだといえます。

神さまに繫がっているということは、私たちの意志ではなく神様に選ばれているということです。
選ばれていることを体感し、感謝する生涯でありたいと思います。

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