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zoom RSS 三位一体の神と共に 2010/5/30 ヨハネ14:18-24

<<   作成日時 : 2010/05/30 10:13   >>

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今朝の聖書、ヨハネ14章18節わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
とあります。
重要なみ言葉の一つでありますので、先週もこの18節までとしました。

さて、今朝の聖書ですが、さらに19節には、こうありました。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」
まもなく弟子たちと別れて、ひとり十字架への道を歩まれようとしていた主イエスの言葉です。
「別れ」の言葉ですが、弟子たちにとっては、反対の内容を持っていました。
つまり、十字架の出来事によって、この世は、わたし=イエスを見なくなる。
しかし、復活のからだにおいて現れるために、この世は見なくても、あなたがたは、わたし=イエスを見ると言われるのです。
さらにまた、この後の16章では、この「別れ」によって、あなたがたは悲しむとあります。
しかし、この「別れ」こそが、あなたがたに喜びを与え、そして、この喜びを奪い去る者はいない(16章22節)、とも言われています。
私たちは、復活の信仰を与えられるとき悲しみは喜びに変わります。
主イエスを見失うのではなく、見上げることができるう。
復活のキリストを自分の人生に受け入れ共に歩むとき、その喜びを奪い去るものは無くなります。
この主の約束を、心に留めていくことができればと思います。
もう一度、19節、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」。
この言葉を聞いても、私たちは主イエスがこのあと十字架にかけられ殺されるが、復活して戻ってこられることを言っていると分かります。
けれども、この時点で弟子たちはそれが分かっていません。


では、弟子たちがこの時点で主イエスの言っていることを理解するのは無理だったのでしょうか。
しかし、聖書を見ますと主イエスがこの14章あたりから繰り返し、十字架と復活の意味について説明たとしています。
問題は、このキリストの昇天と聖霊としての再来ということの意味にかかっていました。
では、それはどういう意味でしょうか。
先ほどの19節の言葉には、主イエスが言われた「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」とか、「しかし、あなたがたはわたしを見る」とありました。
この「しばらくしたら」という言葉は、「ミクロン」というギリシア語で、「短い」とか、「小さい」という意味です。
これは1mmの100分の1の単位です。

つまり、主イエスが十字架で殺されて見えなくなることと、復活のキリストに出会い再び見えることの間の違いは、ほんの僅かでしかないというのです。
つまり、悲しみと喜びの差は、ほんの僅かな事でしかない。
これがキリストの昇天と聖霊としての再来の一つの意味です。
しかし、それは本当なのでしょうか。

別れの悲しみは一時である。
その悲しみを乗り越えた人は、そう思うかもしれません。
あるいは時がたって振り返ったときに そう思えるのかもしれません。
何かをきっかけに悲しみから立ち直ることが出来ることもあるかもしれませんが、悲しみの只中にあるとき、どんな慰めの言葉も素直にとることができないものです。

自分はまもなく居なくなる、と宣言される主イエスをまえに、弟子たちは動揺しました。
22節には「イスカリオテでない方のユダがイエスに言った」、とありまして、「主よ、あなたはご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」とあります。
「ご自身を世にあらわそうとされない」主イエス。
弟子たち以上にヨハネが言う「世」は、主イエスが分からず、むしろ相容れないもの、敵対するものとして描かれています。
この時点で弟子たちは、そうした「世」の力に圧倒されて主イエスの十字架の意味も、また、その出来事が決して終りでないということもよく分からなかったでしょう。
なぜ、十字架で惨めに殺されることが、神のもとへ上げられるという栄光に満ちた出来事になるのか。
なぜ、十字架という挫折と敗北が、復活の勝利へとつながっているのかが分からなかったのです。

このヨハネ福音書が書かれたとき、教会とキリストを信じる人たちはユダヤ教とローマ帝国による迫害の中にありました。
大勢の人たちが殺され、大きな悲しみと苦しみがありました。
そうした状況の中でキリストを信じる人々たちは、大きな迷いや不安に襲われました。
もしかすると自分も信仰のゆえに殺されるかも知れない。
けれども、この信仰の道は本当に確かなのだろうか。
このような苦しみの日々はいつまで続くのか…。
そして、この迫害という苦しみの中で、いかに喜びや希望を持って生きていくことができるのだろうか。
こうした問いが、当時の人々の心を覆っていたのではないかと思います。
同じように、これは私たちの問いでもあります。
日々、真剣にそれぞれの場所で生きようとする。
み言葉に心を留め、少しでも主イエスのあとに従って一生懸命生きてみようと思う。
ところが一生懸命にやろうと思えば思うほど、難しくなってくる。
社会生活の中での矛盾も感じてくる。
こんなことをやっても、結局、無駄なのではないかと思えてくる。
そして、心からは本当の喜びがどんどん消えていく。
そうしたことは、真剣に生きようと思う人ほど経験するのではないでしょうか。
主イエスに従おうとする人生において、時によく起こってくることだと思います。
自分のことだけを考えて、あとはどうでもいいと自分勝手に生きていれば起こらない苦しみかも知れません。
しかし、こうした問いかけは、人間の世界だけで考えていても、答えは見つからないのです。
それは例えば、人間にとって悲しみと喜びの違いがほんの僅かなはずがないからです。
問題は、そういう自分なりに一生懸命生きる人生の苦しみや悲しみは、不完全で欠けたままであるということです。
同時に大切なあなたの人生であり、そのあなたの人生にこそ本当の喜びが与えられるという、神さまの一方的な宣言を受け入れるかどうかなのです。


「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と主イエスは言われます。
この箇所は未来形で書かれています。
つまり、それは肉体をもって生きている主イエスが目の前の弟子たちに向かって語った言葉です。
「かの日」とは、先週学びました弁護者としての真理の霊が来る時のことで、その霊を弟子たちが受け入れた時のことです。
その後はこの霊は私たちと共に居てくださるのですからペンテコステ以降ということが出来るでしょう。
そして、この御言葉を聞く私たちには、この聖霊なる神が共に居られるのです。
主は、弟子たちが「みなしご」ではなくなると約束してくださいました。
つまりそれは、私たち自身ももうみなしごではないということです。
本当の親、永遠の愛を知るからです。
そして、現代を生きる私たちにとっての「かの日」とは、私たちが聖書と説教を通して主の言葉を聞き、教会の愛の交わりを見て、主イエスを信じた時です。
つまり、聖霊の注ぎの中に、主イエスを見、主イエスを知った時、私たちは主イエスを愛し、その掟を守って生きるキリスト者に造りかえられたのです。

では、信仰者、キリストを信じるものとは、何者なのでしょうか。
「聖霊を受けている者」と言い表すことができます。
「聖霊」(神の霊)と言われても、わたしたちにはあまり実感がありません。
見ることも触れることもなく、確かめることもできないからです。
でも、わたしたちは見えるものだけに従って生きてはいません。
むしろ、見えないものの方が真実であることを知っています。
見えるものは一時的であり、見えないものこそが永遠だからです。
聖霊を受けている。
この事実が、わたしたちすべての信仰者、キリスト者に共通していることです。
そして、この事実から、わたしたちは信仰的な歩みをはじめるのです。
わたしたちは、それぞれ人間的な長所・短所を持ち、弱さも負っています。
しかし、それだけの存在ではありません。
聖なる神の霊が、わたしたちの内に宿ってくださっているのです。

私たちは主イエスの迎えによって既に父の家に帰ることが出来た者たちなのです。
その家で、溢れるばかりの愛を、御言と聖餐を通して与えられています。
そして、命の息である聖霊を与えられているのです。
その霊の宮である教会に留まり続けることに希望があるのです。
ただこの礼拝とそこに連なる交わりの中にのみ希望があります。
この礼拝において、主の言葉を聞き、聖餐の食卓に与り、主の霊を受け続ける。そのことを通して私たちは主の愛を確信し、主を愛し、主の愛に押し出されるようにして互いに愛し合うようにされていきます。
そして、そのことを通して、人々に私たちが主イエスの弟子であることを証しし、主イエスを証しすることが出来るようになるのです。
それが私たちの願いである以前に、主イエスが父に願ってくださっていることであるが故に、必ずかなえられるのです。
主が私たちの只中で生きておられるのですから、主に愛され、主を愛する私たちも生きるのです。
そして、そのことを通して「道、真理、命」である主イエスを証しすることが出来るのです。

聖霊が弟子たちに望んだ、そして留まり続けたということはそういうことです。
そして、その聖霊はいまも私たちに豊かに注がれているのです。

そしてその聖霊を通して、私たちに語り掛けられるのです。

23節「イエスは彼に答えていわれた、『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。』」。
主イエスを愛し、その言葉に従って生きようとする人と共に、主イエスも、また、天の父も共におられることが約束されているのです。

そして、この告別説教の最後の方になりますが、16章20節には、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」との主イエスの約束の言葉もあります。
これを人間の言葉として聞けば、やはり理解できません。
憂いは喜びに変わると言われても、悲しみと喜びとの差はほんの僅かだと言われても、人間の言葉としては理解できないのです。
そうではなく、これは一方的に響く神の恵みの言葉なのです。
無条件の神の愛なのです。
この人間の世界を越えて、主イエスは「憂いは、喜びに変わる」と宣言してくださる。
私たちは、それを受け入れるかどうか、問題はそこにあるのです。
私たちそれぞれの人生にも、イエス・キリストが共におられます。
そして、今も、弟子たちに言ってくださった同じ言葉を、「わたしはあなたがたをみなしごとはしない」との言葉を語ってくださっています。
どこに行くのかをしっかり見据えて歩む生涯、しかもどのような状況にあっても伴ってくださる方がいてくださる生涯を歩む
それがキリスト者の生き方だといえるでしょう。
こうした言葉に励まされつつ、また本日もそれぞれの歩みへと遣わされていきたいと思います。

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