日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神の霊に守られる  2010/5/23  ヨハネ14:15-18

<<   作成日時 : 2010/05/23 12:02   >>

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「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
ヨハネ14:15-18




※※音声は途中で切れてしまっています。お詫びいたします※※


先週の箇所であった1節から14節までには「信じる」という言葉が何度も出てきました。
しかし、15節以下はそのことを踏まえた上で、主語や対象は様々ですけれど、「愛する者」とか「愛する」という言葉が何度も出てきます。
「愛する」ことがこの単元の主題になっていることは間違いありません。
「愛する」ことは既に13章の後半に出てきていました。

ヨハネ13:34
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

私たちの信仰とは何でしょうか。
それは難しげな教理を理解して信じるということではありません。
その逆に、何がなんだか分からないけれど、とにかく盲目的に神様というものを信じるとか、そういうことでもありません。
この「新しい掟」は、主イエスと弟子たちの最後の晩餐と呼ばれる席で話されたものです。
その晩餐の時、主イエスが突然弟子たちの足の汚れを洗い清められました。
それは、彼らの罪を洗い流し清めることでした。
それはまた主イエスが彼らのために十字架に架かって死ぬことであり、さらにそれは主イエスが復活して、彼らと共に永遠に生きるということでした。
そのようにして、主イエスは弟子たちを愛しておられる。
私たちを愛してくださっている。
私たちの罪を赦し、永遠に共に生きてくださる。
そのことを信じる。それがキリスト教の信仰だといえると思います。

そして、その信仰に生きるとは、私たちを愛してくださっている主イエスを愛して生きることに他なりません。
愛には愛で応える以外にはありません。
愛は互いに愛し合うことにおいてしか存在しません。
ここで主イエスは主イエスを愛して生きるとは具体的にどのようなものかを教えてくださっているのです。
それは、主イエスに愛されている者同士が、主イエスに愛されたように互いに愛し合うことなのです。
弟子の足を洗った直後の主イエスの言葉を使えば、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」ということです。
信仰とは、結局、主イエスを共に信じる兄弟姉妹に対する愛に生きることにおいて結実していくのです。
だから、主イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われる。
そして、それは二三節で、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と繰り返されます。
この場合、「掟」も「言葉」も同じことです。
主イエスを信じるとは主イエスを愛することであり、それは主イエスの言葉を守ること、その言葉を中心として生きることです。
そしてそれは主にある兄弟姉妹を愛することだと、主イエスは言われます。

この主イエスの言葉に反対する人はいないでしょう。
誰だって、主イエスがおっしゃっていることに納得し、それはアーメン、素晴らしいことだと思われると思います。
しかし、納得し、素晴らしいことだと思うそのことを実行できるのかと言えば、私たちはうなだれるしかない。それもまた事実です。

私たちは愛を求め、愛なくしては生きていけないのに、愛することが出来ない存在でもあります。
その愛の究極は、罪を赦す愛だからです。
赦されなければ生きてはいけないけれど、赦しつつ生きていくことが出来ない。しかし、赦さぬまま生きている人生は闇です。
その闇を好んでしまう、それが罪です。
その罪の支配から私たちを解放するために命を捨てて愛してくださったのが主イエスです。
ただこの方だけが、罪の力よりも強いお方です。
死を撃ち破る復活者であり、闇の中に輝く光なのです。

だからこそ、主イエスは、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とおっしゃった。
私たちが心の底から願うこと、それは愛と赦しを与えて欲しいということだし、愛と赦しに生きる人間にして欲しいということです。
そして、私たち一人一人がそういう人間になることが神の国がこの世にも実現していくことであり、それが神の願いなのです。
神様はそのことを願って、独り子をも惜しまずに世にお与えになったのです。

主イエスは、こう言ってくださいました。「わたしは父にお願いしよう。」

私たちが愛と赦しに生きることが出来るように、主イエスが神様に願ってくださる。
「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」


この福音書を書いたヨハネかどうか分かりませんが、古代教会には長老ヨハネという人がいました。
その人が、礼拝の最後に会衆を祝福して、「私たちの主イエスが愛してくださったように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と勧めました。
すると、会衆一同は圧倒的な感動を与えられて、主を賛美しつつ「アーメン」と言ったという話が伝えられています。
主イエスを信じ、愛し、会衆を愛するその人格からほとばしり出てくる主イエスの愛に会衆が打たれたということだと思います。
こういう長老ヨハネのような人物が、私たち牧師の一つの理想なのだとは思うのですが、私などは、まだほんの若造であり到底「長老」とはなり得ていないので、とにかく今は、聖書に記されている主イエスの言葉の意味を一生懸命に探求して語るしかないことを、お許し頂きたいと思います。

いつも言っていますように、ヨハネ福音書の主イエスは、肉体を持って弟子たちに語りかけている主イエスであったり、復活後、霊において教会と共に生き、信徒一人一人の中に生きている主イエスであったりします。
今、お読みした所は、その両方が混在している所だと思うのです。
父なる神にお願いして、別の弁護者を送ってもらおうとおっしゃっているのは、まだ肉をもって生きている主イエスが目の前の弟子たちに語りかけている。
しかし、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と、すべて現在形で語りかけておられます。
それは、明らかに、霊において教会と共に、また教会に生きる信徒一人一人の中に生きている主イエス・キリストです。
つまり、21世紀の現在に至るまで、この礼拝堂において私たちに語りかけている主イエスに他なりません。
この弟子たちは、肉体を持って生きておられた主イエスと、復活後聖霊において共に生きてくださる主イエスの両方を経験した歴史上唯一の人たちです。
その彼らのために、そして彼らの言葉を聞いて主イエスを信じるようになる人々、つまり私たちキリスト者のために、主イエスはこの時現在の弁護者である主イエスとは別に、真理の霊、聖霊を弁護者として送ってくださると約束してくださっているのです。

「弁護者」とは読んで字の如く、法廷における弁護人を意味する言葉です。
原語では、「傍らに呼ばれた者」という意味です。
口語訳聖書では「助け主」と訳されており、「慰める者」とも訳されます。
こちらのほうがしっくりいくかもしれません。
様々な意味で、助けを必要としている者、孤独の中に置かれている者、迫害の中に苦しめられている者、自らの罪責によって苦しんでいる者を助け、慰め、弁護してくださる者です。
それを主イエスは「真理の霊」とも呼んでいます。
そしてその霊について15章26節や、16章12節以下ではこうおっしゃっています。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」

つまり、弁護者としての真理の霊とは、主イエスとは誰であり、何をしてくださる方なのかを明らかに示してくださるものです。
つまり、主イエスこそ命を捧げて私たちの罪の贖いをしてくださり、復活して今も共に生き、愛し続けてくださっている救い主であることを、証しして下さるものなのです。
主イエスこそ、神様に至る道であり、真理であり、命であることを、さやかに示すのです。
そのことを通して教会を力づけ、信徒を慰め、そして主イエスの愛と赦しを証しする人間として生かす霊です。
その霊は、信じる者に与えられるのです。
もちろん、信仰そのものも聖霊によって与えられるものです。
さらに、信仰を守り、育てるのも今に生きるイエス・キリストとしての聖霊です。その霊が、信仰者の集まりである教会と共に留まり、信仰者の内に生きてくださるように、主イエスは父に願ってくださるのです。

そして、その願いは、実現しています。
叶えられているのです。
何故なら、弟子たちに聖霊が吹きかけられたことによって、彼らはすべての恐れを取り除かれました。
罪の赦しという平和を与えられました。
閉篭もっていた部屋から出て行き、主イエスこそ神の子、メシア、わが神、わが主として証しを始め、キリスト教会が誕生したのですから。
そして、その教会は、聖霊に励まされ、全世界へキリストを宣べ伝え、この国にも伝えられました。
そして、私たちは今日もこうして礼拝において主イエス・キリストにまみえ、その言葉を聞くことを通して、主の愛を確信しているのです。
そして、互いに愛し合う共同体、神の国の実現を共に祈り願っています。

主イエスの愛を確信し、互いに愛し合う共同体、それはこの教会の一歩外にある「この世」とは全く異なる世界であることは言うまでもありません。
私たちもかつてはこの壁の外に生きていたし、そこしか知りませんでした。
神など信じていませんでしたし、イエスという人物が「神の子」だとか「救い主」だなどと言うのは洗脳された憐れな人々の戯言だと思っていたのです。
しかし、今は恵みによって、この教会の中にいます。
それは、霊を見ようともせず、知ろうともしなかった私たちを、それでも愛してくださるお方がおり、そのお方を真理の霊によって証ししてくれる牧師や信徒がいてくれたからです。
神様は、ご自分を知ろうともしない世を愛して、その独り子をさえ惜しまずに与え、信じる者に永遠の命を与えてくださったのです。
つまり、父の住まいである教会に招き入れ、神の家族としてくださったのです。そして、今もその救いの御業を続けておられるのです。
私たちを通してです。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と、主イエスはおっしゃいました。
「みなしご」とは親がない子のことです。自分の命に代えても子を愛してくれる親がいない。
その「みなしご」の心の根底にあるのは、物凄く深い孤独であり、悲しみです。私たちは誰も独りでは生きていくことができません。
誰かに愛されて、初めて人として生きることが出来るのです。
その愛は、通常最初は肉親の親から与えられるものですけれど、それは永遠のことではありません。
親が子を愛せないこともまたよくあることであり、愛せたとしても、それは完全な愛ではあり得ません。
友人同士であれ、恋人同士であれ、夫婦であれ、それは同じことです。
人間同士に完全な愛など存在しないのです。

私たち人間は、誰でも生まれたその時から永遠の親を求めて生きています。
どこから来てどこへ帰るべきかを求めています。
完全な愛で愛してくれる存在を求めている。
まさに恋焦がれるように求めて生きています。
しかし、いくら恋焦がれるように求めてもなかなか与えられない。
だんだん諦めていくのです。
そして、心の奥底に孤独や悲しみを押し込めて、そういう思いがあることを認めない、忘れようとします。
しかし、そうすることで実は心はさらに飢え渇いているのです。

そのように「みなしご」として生きる私たち人間の現実をご存知の方がいる。
私たちを父である神とご自身の愛の交わりの中に迎え入れて、神の家族として生かそうと切実に願ってくださっている主イエスの愛を強く知らされます。


私たちはこの信仰の上に、互いに支えあい、慰めあい、祈りあい、愛し合う存在として招かれ用いられています。
この喜びの上に、教会生活があり、信仰生活があります。
助けぬし 慰めぬしとしてそばに居て導いてくださる聖霊を信じ、喜びと感謝を持って天の御国をめざし歩んでまいりましょう。

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