日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神への道を知る 2010/5/16 ヨハネ14:1-14

<<   作成日時 : 2010/05/16 12:57   >>

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「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。/わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 /行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 /わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」/トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 /イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 /あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 /フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 /イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 /わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 /わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 /はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 /わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 /わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」




最近は、何でもあり、の世の中になってきているように思います。
何党が夏の参議院選挙に誰々を擁立した、なんてニュースが世間をにぎわしています。
一時期はタレント議員などというのがもてはやされました。
知名度と集票効果を考えると効率的だといえるのでしょう。
スポーツ選手の中から柔道の谷亮子選手が立候補を表明しました。
しかも現役選手としてオリンピックの金を目指してというのですから驚きます。
田村で金、谷で金、ママで金、国会議員で金というところでしょうか。
柔道、剣道、弓道、武士道に通じるものなのでしょうけれど精神修行ともいえる
これらのスポーツに「道」という字が用いられているのも興味を持ちます。

さて、今回の準備のために読んでいた本の中で、ある学者が、「このヨハネ14章にはすべてがある。この土台の上にヨハネ福音書は成り立っている」というような内容を書いていました。
不勉強でしたが、そう思って読み返してみますと、たしかにその通りと納得をいたしました。
福音書の主人公は当然主イエスです。
この主イエスは、肉体をもって世にある人間イエスとして、また肉体としては既に世を去ってしまった者として、その両方の立場を持って語っておられます。
それは同時に、過去の歴史的人物として語っている面と、今も霊において生きておられる神・キリストとしての両方の面を持っているということです。
そのように考えますと、ここに登場する弟子もまた、主イエスが十字架に磔にされる直前の弟子たちであると同時に、この福音書が書かれた当時のヨハネ共同体の教会員でありまた今の私たちの姿でもあるといえます。

理屈ではそういうことなのだと「分かる」ということと、この箇所を読むこと、語ること、あるいは聴くことを通して、主イエスを知り、また父なる神を見ることが出来ます。
そういう意味で「分かる」ことは全く別のことです。
説教を聴くことを通して理屈が分かっても、全く分かっていない人はいますし、理屈はよく分からなくても、主イエスを見、その御前にひれ伏し、感謝し、賛美をもって帰っていく人もまたいたりします。

このヨハネ福音書の一四章からは惜別説教と呼ばれています。
今回出てきます「行く」と訳されている言葉が、ギリシア語では三つの言葉が使われています。
「行く」という言葉一つとっても、様々な意味合い、含蓄があるので、トマスやフィリポのような気分になります。
そこで、手元にある色々な本を読んだりもします。
でも、分かったような分からないようなことが書かれているもの多くあります。
大先輩の神学者が書いたものですけれどなんだか嘘っぽい感じ、薄っぺらな感じがしてしまうことがあります。
私がへそ曲がりだからそうなのかもしれません。

二節三節で、主イエスが「場所を用意しに行く」という場合の「行く」(ポレウオマイ)は、この世を去る、旅立つ、そういう意味です。
お葬式の時この箇所が用いられるのはそのせいです。
四節と五節に出てくる「行く」(ヒュパゴウ)は、一三章の後半に「わたしが行く所にあなたたちはついてくることができない」という形で既に出ています。
これは主イエスが父の許へ行くということであり、意味することは、十字架の死と復活と昇天です。
罪人の罪を贖う小羊として死に、復活、昇天を通して、罪人と神を繋ぐ道となる。これは、主イエスだけが行くことが出来る道であり、いや、主イエスその方が道であることを暗示する言葉だと思います。
しかし、トマスは、「自分たちは主イエスがどこへ行くのかも分からないし、目的地が分からないのだから、その目的地に向かう道だって分かるわけがないじゃないか」と主イエスに訴えます。
それに対して、主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃる。
本日は教会暦では昇天主日、復活の主が天に上げられたことを記念する日です。
復活の時、墓はカラでした。
どこに行ったのか弟子たちにはわからなかったけれど、この日、この言葉の本当の意味を知ったのだと思います。

「わたしが道である」と訳してもよいと思います。
そして、「わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない」とおっしゃる。
その時の「行く」にはエルコマイという言葉が使われています。
これは英語で言えば、goとかcomeで、文脈によっては「故郷に帰る」という意味になります。
この場合は、「主イエスを通らなければ、だれも父のもとに帰ることはできない」という意味合いで解釈することが相応しいのではないかと思います。
ということは、父に至る道である主イエスを知らない人間は、すべて故郷を失っている。
父の住まいに場所を持っていない。
永遠の住まいがない。
自分がどこから来て、今自分がどこにいて、これからどこに行くのかが分からない。
そういう迷子の状態であるということになります。

 ヨハネ福音書一四章の段階の弟子たちは、言うまでもなく科学の時代に生きていたわけではなく、ユダヤ教の世界の中で生きていたのです。
その彼らが、主イエスとの出会いを通して、全く新しい世界に触れ、その世界の中で生きようとしてついて来た。
しかし、その頼みの主イエスが、今、「わたしが行く所に、あなたたちは今ついてくることが出来ない」と言われ、ペトロの「あなたのためなら命を捨てます」という言葉に対しては、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」とおっしゃった。
これはもう関係の断絶を宣言されたということです。
彼らは今、ユダヤ人に殺されようとしている主イエスの弟子なのですから、今更、ユダヤ教の世界にすんなり帰ることもできませんし、かといって、主イエスの行く所についていくことも出来ないとすれば、自分の居場所がないということになります。
それが、彼らが「心を騒がす」理由です。
そして、先週言いましたように、主イエスが「心を騒がす」という場合、それはいつも、死に直面する時です。
弟子たちも今、自分たちの存在の根拠が脅かされる。
そういう現実に直面している。あるいは、直面していることを自覚したのです。

しかし、考えてみれば、私たちは生まれた時から、自分の存在の根拠が脅かされる現実に直面しているのかもしれません。
つまり、死の現実に直面している。
誰だって生まれた時から死に向かっているのだし、その死がいつ何時襲ってくるか分かりません。
しかし、勝手にまだ死なないだろうと決めてこんでいます。
思い込んでいるだけであって、いつ何時交通事故や災害に巻き込まれるか分からない。
いつ不治の病に侵されていることを知らされるか、それは分からない。
子供の頃、親が自分より先に亡くなることを考えただけで涙が出たように。
誰もが死に向かっているのに、その現実から目を背けてしまう。
しかし、そのことを思う時に、あるいは気づく時に、まったく心を騒がせない人はいないのです。

私たちは、自分がどこから来て、今、どこにいて、これからどこに行くのか分からない時、このまま死んでしまうということに脅えます。
それは自分の存在があまりに空虚であり、所在ないものであることを知るからです。
心を騒がすとは、そういう現実のことでしょう。

しかし、主イエスは、そういう弟子たちにも、同じことを求めておられるのです。主イエスが何故、心が定まっておられるのか?
それは、ご自身がこれから行く所は、父のもとであることをはっきりと知り信じておられるからです。
父のもとから来て、父のもとへ帰り、そして再び戻って来て、弟子たちを父の住まいに迎え入れる。
その道筋、つまり、神様の秘められた救いのご計画が鮮明に見えているからです。そして、その「父の住まい」とは、いわゆる天国のことだけではありません。
実は、主イエスご自身のいる所、聖霊において生きておられる所、つまり、聖霊によって誕生した教会、主イエスを「わが主、わが神」と信じる者たちの共同体、教会こそが「父の住まい」なのです。

私たちが、そのことを霊的に理解すること、ただそのことに救いが掛かっています。
ヨハネ福音書において主イエスが語る「永遠の命」とは、そういうことなのです。この先の一七章三節に、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。
神から道として、真理、命として遣わされた主イエスを知ること、信じること、そのことを通して神様を知ること、見ること、そこに永遠の命があるのです。
何故なら、そのことが、自分の帰るべき故郷に帰ることだからです。
この世に生まれたとは、実は、帰るべき故郷を捜し求めるために生まれたということであり、その故郷を見つけた時、人の心は初めて平和になるのです。
そして、それが見つかるまでは、実は、絶えざる不安と恐れに満たされている。心を騒がしているのです。
その状態だけでは生きていけないので、仕事に熱中したり、遊びに熱中したりして、結局は、パスカルという人が言ったように、惨めな自分を忘れるようと気紛らわし、気晴らしをしているに過ぎない場合が多いと思います。

英語で迷子になったことを、I'm lostと言います。
ロストとは、失われたとか、見失ったとか、いう意味であると同時に、破滅したとか、死んだという意味もある言葉です。
そういう意味で、永遠の命を失った状態を意味する言葉でもあります。

しかし、主イエスは、弟子たちに向かって、「あなたがたは、そうではないはずだ」とおっしゃっている。
「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とは、そういう意味です。
これは弟子たちにだけ向けた言葉でであり、私たちキリスト者に向けた言葉です。
主イエスを信じている、少なくとも信じていると思っている者たちに対する言葉です。
しかし、私たちの信仰もまた、実に不確かであり、不安定なものであることは、私たちが日々経験することでもあります。
トマスは、言います。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
しかし、主イエスはこう言われました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

トマスの言葉の中に出てくる「分かりません」も「知りません」もギリシア語では同じオイダという言葉で、それは「その道をあなたがたは知っている」とおっしゃった主イエスの言葉に対応しています。
しかし、ここで主イエスが、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知る。今から、あなたがたは父を知る」と三度も出てくる「知る」は、ギノースコウという別の言葉が使われており、オイダとは意味が少し違うように思います。
このギノースコウは、この後の一五節以下で、主イエスが復活して以降弟子たちに送られてくる「真理の霊」を「知る」とか、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」という形で出てきます。
つまり、聖霊が注がれ、その霊を受け入れることを通して、神様と主イエスが一体の交わりをしていることを知り、また主イエスが私たちと一体の交わりをして下さっていることが分かる。
そういう意味なのです。
つまり、ここで、復活と聖霊付与を通して誕生することになる、いや誕生している教会の霊的な現実が言われているのです。
そして、その教会の本質が最も鮮明に現れるのは、この礼拝の時です。
この礼拝において、霊の言葉を通してご自身を示されるイエス・キリスト、今日も与る聖礼典においてご自身を現すイエス・キリストを見て、そこに神の姿を見る。
そして、賛美を捧げる。それが教会です。
その教会に属している私たちは、全世界の救いが完成するその時に、パウロが言っているように、はっきりと神の御顔を見ることになります。
罪人は神の顔を見ることは許されていないのですから、神の顔を見ること、そのことが救いなのです。
そこにおいて、今「既に父を見ている」のです。

そして、それが救われていることの証拠なのです。
しかし、そのことは信仰において起こる現実であり、それがふらついている時、おぼつかない時、私たちは、再び迷子のような不安に襲われる。自分がどこにいるのか、どこに行くのか分からないという不安に襲われるのです。

その不安の真っ只中にいるフィリポがこう言います。
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」
主イエスは、こう答えられました。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」

私たちは、目に見える印を求めます。目に見えるものが確かだと思っているからです。愚かなことです。目に見えるものに永遠なものはないのですから。しかし、私たちは目に見えるものこそ確かだと錯覚している。

フィリポは、「お示しください」と言います。
それは「見せてくれ」ということです。
主イエスが示す業、それはここでユダヤ人が皮肉にも言い当てているように、結局、主イエスが神であること、主イエスを通して神ご自身が示されている業なのです。

言うまでもありませんが、「見る」という言葉も、二重の意味があります。
肉眼で見ることが一つ、霊において見ることが一つです。
主イエスが、求めておられることは、肉眼で見て信じるのではなく、主イエスの言葉を読み、またその説き明かしを聴くことを通して霊において見て信じることです。
なにもついていない十字架に主の姿を見て、主イエスを「わたしの主、わたしの神よ」と信じ、礼拝することです。
自立だ、自我の確立だとうそぶいてエデンの園から出て行った罪人を、ご自身の独り子を十字架につけて裁くことまでして迎え入れてくださる、その神の愛を見て、信じることです。
そこに救いがあるのです。
その信仰によって、失われた子、いなくなっていた子、死んでいた子が、父の家に帰ることが出来るからです。
その道を主イエスは示してくださったのです。
私たちは その道を信じ一歩一歩、確実に歩んでまいりましょう。




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