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zoom RSS 中心となる掟 2010/5/2 ヨハネ13:31-35

<<   作成日時 : 2010/05/02 11:52   >>

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先日、まだキリスト教にあまり触れたことのない方とお話をしていました。
しばらくして、その方は恐る恐る私にこうお尋ねになりました。
「わたしは臓器提供者カードにサインをしているんだけれど、そんな私の考えを受け入れてもらえますか?」
私は少しショックを受けました。
もちろん、その方が無知や無理解で驚いたとか、そういうことではありません。
世の中にいかにキリスト教の教えを間違った形で広め、知らしめているかということです。
私は
「むしろ命とか、他の人のためにとか、そういうことに関心を持っていただいていることを伺って、うれしく思います。」と答えました。
さらに続けて
「では、何がダメなんですか?」
とやはりおそるおそるたずねてきました。

キリスト教には多くの戒律があり、そのことと相反する人を拒絶し、受け入れないという印象をお持ちのようでした。


ユダヤ教やイスラム教には厳しい戒律があります。
「エホバの証人」は輸血や格闘技、お茶やコーヒーを飲むことすら拒否します。
その方はきっと、そのイメージをお持ちだったのだろうと思います。
ではキリスト教はどうでしょうか。
戒律として、すぐ思いつくのは「十戒」です。
これは我々の生きる根本姿勢を形作るものであって、非常に重要です。
しかし十戒は日常生活の中の行為について、あれは良し、これは駄目と規定するものではありません。
このようないわゆる“戒律”はキリスト教にはありません。

使徒パウロは「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない」と語りました。1コリント6:12〜17
何も禁じられていないという自由を前提とした上で、神様のため隣人のために益になることを主体的に考え、選び取っていくということです。

たった今、戒律はないと申し上げました。
しかし実は主イエスはとても重要な「掟」を弟子たちに残していかれました。

掟と戒律とどう違うのかという問題がありますが、信仰者が信仰のゆえに守るべきものが戒律であり、掟は一般の規則、勧めを指します。


それは、本日の箇所です。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という掟です。
したがって我々はどんな時でも「互いに愛し合う」ことを他において生活するわけにはいきません。

これは旧約の時代の掟「自分を愛するように隣人を愛せ」と似ています。
しかし神の愛の中に人間を神さまが取り込んでくださったという点で、まったく新しい掟です。
主イエスがまず弟子たちに告げます。
「私があなたがたを愛した」。
主イエスが愛した人間たち。
それは当時最も軽蔑され、弱い立場に置かれた人たちでした。
使徒として選ばれた人も普通の漁師や回心した罪人、自分たちを支配するローマの手先になって金儲けに走る徴税人などでした。
罪を犯さざるを得なかった女性、病気などで差別を受けていた人や異邦人。
こういう人たちのところに自ら近寄り、食事を共にし、宿泊を頼みました。
こうした態度が、いわゆる立派な人たち、道徳家たちの反発を招き、十字架への道を開いていったのは、間違いありません。

主イエスは虐げられる人の友となってくださいました。
それらはただ死に行くしかない人たちでした。
しかしそれだけではありません。
主イエスは、自分を迫害し、呪う人たちにも、決して復讐しようとせず、祈っていてくださり、悔い改めを願っておられました。
主イエスは、自分を愛せなかった力ある者たちも、確かに愛し、赦し続けてくださっていたのです。

主イエスの愛は、虐げられていたものに対しても、虐げるものに対しても、その両方に向けられていました。
その主イエスの同じ愛。
それが今、時と空間を越え(何しろ復活した主イエスは今も共にいるわけですから)、この「私」という人間にも同じように迫っています。
この私も主イエスから愛し抜かれた存在なのです。

主イエスに訪れるに違いない苦しみや病いや困難を負っているでしょうか?
それならそのような困難、それを抱える自分にこそ主イエスは訪れます。
医者が必要なのは病人。救い主は健康でない病人のところに来ます。
主イエス自身も、同じように、いや私以上に迫害され、人間の病を負わされ、苦しんで十字架への道を歩んだ方。
その方がこの私を受け止めてくださるのです。
だからこそ今、この苦しみの時にあっても、主イエスを疑い、捨てることなく、共に苦しみを負ってくださっている主イエスを信じ、一緒に歩みたいと思います。
主イエスは今、十字架の横にいた盗賊に向かって語ったその同じ心からの救いの言葉をかけてくださります。
主イエスはこの私の救いのために来た。
この私を愛してくださっている。
そのことを本当に心から受け止め、感謝しましょう。
それが本当に心の底からできたときに、こんな私をも愛してくださる神の愛に満たされたこの私。
こんな私をも愛してくれた愛があることを信じるからこそ、人を愛することもできるようになっていく。
たとえそれが自分の好みでないものに対しても、また愛の気持ちなどとても起きないほどの渇きを覚えているときであっても。


愛という字は心を真中で受けると書きます。
真中でなくてはなりません。
私は学生時代ラグビーをしておりました。
楕円形のボールを走りながら後ろに投げるのですが、取り損ねてお手玉してしまうと反則になります。
そのためにはきちんと受け取らないといけないわけですが、慣れないと中々難しいものです。
球技は概ねそうでしょうけど、キャッチボールというかパス回しという練習が重要になってきます。
私が知る限り、みなそうではないかと思いますが、他の球技もボールは相手の胸に向かって投げろ、と教わるのではないでしょうか。
もちろん試合ともなれば、胸に向かってばかり投げられない状況もあります。
こちらの体制が整っていない場合もあります。
さらに、練習を積んでいけば、相手が走りこんだところにパスを出す、などということもあるかもしれません。
パスの練習、キャッチボールの積み重ねの上にこのような技術が成り立っているト思います。
この基礎練習がしっかりと出来てさえいれば、たいていのボールは受け取ることが出来るのだと思います。
真ん中で受け取ることが出来た人は、また真ん中に投げることが出来るようになるのではないでしょうか。

使徒パウロは、 まだサウロと呼ばれていたころ、正しいと信じることを行いながら、実は、まことの神と、神の民を迫害していました。
神様の愛を知っていながら、それを素直に取ることができませんでした。
私たちもそのような過ちを繰り返してはなりません。
たぶん、そうやって強がって偉そうに見せなければならないのは、やはりそれなりの理由がありました。
だからこそ失いたくなくて、権力や形や見せ掛けにしがみついていたのです。
しかしそんなものにもうしがみついてはならないのです。
主イエスはこんな罪深く、欠けの多い私をも、やはり愛してくださいました。
そして本当の愛に触れたなら、もう偽物の力、形式などに頼らなくて良いのです。
自分の弱さを認め、そして人の弱さをも思いやる余裕が出て、自分の殻を大きく打ち破って、人を愛することができるようになります。


そのような主イエスによって示される神の愛の出来事を踏まえつつ語られるのが「互いに愛し合いなさい」と言う掟なのです。
ここで注目しなければならないことは、主イエスが続けて、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃっていることです。
つまり、主イエスが、「互いに愛し合いなさい」と言う時、抽象的に愛を教えようとしているのではありません。
「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、ご自身が事実愛に生きて下さり、その具体的な愛と同じ愛をもって弟子たちが互いに愛し合うようにとおっしゃるのです。

「わたしがあなたがたを愛したように」、つまり、キリストが示して下さった愛に基づいて、私たちが互いに愛し合う。
ここに、主イエスの掟の新しさがあると言って良いでしょう。
もし、主イエスが、ただ「互いに愛し合いなさい」とだけ語られたとするならば、それは、私たちが自分の内にある愛によって、隣人を愛さなければならないと言うことになるでしょう。
愛の掟が、そのような自分の愛によって生きることを命じる掟だとするならば、その掟は、私たちが努力をして、自分自身の力で成し遂げなくてはならないものとなります。

神様は愛です。
私たちは、主イエスの行かれた場所に行くことは出来ません。
しかし、この世にあって、主イエスが語りかけて下さる掟によって、主イエスの愛を生きるのです。
そのことによって、十字架に進まれた、主イエスの愛に倣うのです。
そして、そのような歩みが生まれていく時に、私たちは、キリストを証しする者とされます。
35節には、次のように記されています。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。
「皆」と言われているのは、まだキリスト者とされていない人々のことです。
そのような人々が、キリスト者がいることを知り、伝道が進んでいくのは、私たちの間でキリストの愛が生きられることによってなのです。

私たちは私たちの真ん中に向かって神が投げてくださっているボールを受け取っているでしょうか。
そして、そのボールをだれかの真ん中に向かって投げているでしょうか。
神様の心を真ん中で受け取り、多くの人と分かち合っていくことこそ主の掟なのだと思います。

この愛を本当に信じましょう。
そしてこんな私を愛してくださった神様の愛にこたえて、私たちも人を愛していくのです。

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