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zoom RSS 夜であった 2010/4/25 ヨハネ13:21-30

<<   作成日時 : 2010/04/25 12:02   >>

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ルネサンスを代表する画家レオナルド・ダ・ヴィンチの絵に「最後の晩餐」と呼ばれる修道院の壁画があります。
ご存知の通り、主イエスを中心に左右に6人ずつ、十二弟子たちが食卓に着いています。
よく見ると、その十二人の弟子たちは3人ずつ4つのグループに描かれています。そして、それぞれのグループは互いに顔を見合わせ、驚き、戸惑いながら何かを語り合っています。
ただお一人主イエスだけがその語り合いの枠の外におられます。
それはまさに先ほどお読みいただいた、ヨハネ13章21節以下の場面を描いたものです。

すなわち「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、『よく、よく、あなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』。

「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と主イエスは「おごそかに」言わたのでした。
「心を騒がせ」とは「その心に限りない悲しみをもって」という意味の言葉です。
主は限りない悲しみの御心をもって「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と言われたのです。
まさにその瞬間、ダ・ヴィンチが描いた光景が現れたのでした。
そこでダ・ヴィンチはこの「最後の晩餐」の絵の前に立つ人に一つの問いを投げかけているのです。

それは「もしかしたらあなたこそ、イスカリオテのユダなのかもしれない」という問いです。

今朝の御言葉と同じ場面を他の福音書記者たち、特にマタイは「主よ、それはだれのことですか」という弟子たちの驚きの声と一緒に記しています。
主イエスがイスカリオテのユダの裏切りをお告げになったとき、今朝の御言葉の22節にあるように「弟子たちは誰のことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた」のでした。
そして23節以下にはこうも記されています「弟子たちのひとりで、イエスの
愛しておられた者が、み旨に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、『だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ』」。
ペテロにしてみれば、その裏切り者がわかり次第、服の下に隠した剣で成敗してやろうと思っていたのかもしれません。

ここにも、私たち人間の罪がはっきり現れているのではないでしょうか。
弟子たちはこの最も「おごそか」な時に、主イエスに注目したのではなく「互に顔を見合わせ」て「だれのこと」かと互いに探り合ったのみでした。
主イエスの御言葉に聴こうとしたのではなく、幾つものグループにわかれて互いに詮索し合っただけなのです。
22節の「察しかねて、顔を見合わせた」とはまさにそういう弟子たちの姿です。
神の御言葉を聴くことを忘れて、互いに詮索し審き合い、自分以外の誰かが罪を犯したと言って騒ぐのです。
それはまさしく私たちの姿なのではないでしょうか。

私たちもまた、主イエスの前に言い立てるのです「主よまさか、わたしではないでしょう」と。
神に対する「罪」はいつも自分の外にあるのだと主張するのです。
自分は正しい、自分だけは正しいと主張するのです。
そのような私たちに対して主はマタイ伝26章25節に「いや、あなただ」と言われます。
ギリシヤ語を直訳すれば「それは汝の語りたることなり」という意味です。
主は私たちに言われるのです。
「あなたに『罪がない』と言うのは、それはあなた自身の言葉であって、主なる神の御言葉ではない」と。
ここにおいて私たちは、いま私たちもイスカリオテのユダと同じ場所に立っているのだということがわかるのです。

自分には「罪がない」と申し立てるのは、私たち自身の勝手な言葉にすぎません。
本当に大切なことは、主なる神の前に私たちがいかなる存在であり、なにを必要としているかではないでしょうか。
言い換えるなら、私たちが私たち自身の言葉ではなく、主なる神の言葉に生きる者となることです。
しかし、この最も大切なことを私たちは見事に忘れてしまうのです。
そして「主よまさか、わたしではないでしょう」と言い張るのです。
それが「罪」でなくして何が私たちの「罪」なのでしょうか。

「罪」を常に自分の外に置き、自分を正当化してやまぬ心は、いつも私たち自身の中に砦を作っているのです。
私たちは知らずして神に敵対している存在なのです。
それこそが私たち自身の「言葉」です。
その「自分の言葉」が私たちの生活の基準となるとき、そこにあらゆる「罪」が働きの場をえることになります。
それこそ使徒パウロの言う「罪の力は律法なり」が実現するのです。
ローマ書章1節にはこうあります
「だから、ああ、すべて人をさばく者よ、あなたには弁明の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている」。

私たちの自己正当化の「言葉」こそ、私たちの間に分派を生み出すのです。
だからパウロはローマ書の続く2章4節にこう語っています「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」。
いま主は“私たちのまなざしがどこに向いているのか”を問うておられるのです。
自分の言葉という「砦」の中に向いているのか、それとも十字架のキリストという「(神の)慈愛と忍耐と寛容の富」に向いているのか。

私たち人間は事あるごとに分派を作り、徒等を組み、集団で行動することが大好きです。
かつて「赤信号みんなで渡れば怖くない」という冗句がありました。
集団の力が倫理や理性をも麻痺させる。
最も深い意味において、国家や民族間のあらゆる紛争や戦争の根拠さえあるのではないでしょうか。
さらに重大なことは、私たちは分派を作って自己正当化するとき、そこで全く主イエスのお姿を見なくなるということです。
主イエスの言葉を聴かなくなるのです。
主イエスお一人が分派の外におられる。
私たちは主イエスを蔑ろにして互いに徒党を組み、際限なき自己正当化の言葉を「砦」として立て籠もる。
そのような姿が私たちと無縁だと言えるでしょうか。

今朝の御言葉のヨハネ伝13章25節以下で「イエスの愛しておられた」弟子が
たぶんヨハネのことだと思われますが)主イエスに「主よ(その裏切り者とは)だれのことですか」と尋ねたと記されています。
すると主イエスは、このようにお答えになりました。
26節です「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」。
そして「それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。」とあるのです。
私たちはこの御言葉をどのように読んでいるのでしょうか。

もしもこれがイスカリオテのユダを“裏切り者”だと主が特定されたことであったなら、その「合図」を他の弟子たちが見逃すはずはありません。
たちまちユダは11人の弟子たちに取り囲まれ、ペテロなどは剣を抜いて切りかかっていたことでしょう。
ところが実際には今朝の28節に記されているとおり「座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。」のです。
それどころか29節にあるように「ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」のです。

主はヨハネにはっきりと「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われたのではないでしょうか。
しかし実際にはそのヨハネさえ、それがイスカリオテのユダであるとは理解しなかったのです。
それはなぜでしょうか。
それは弟子たちの全てが主イエスから「一きれのパン切れをひたして」与えられていたからです。
「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と主は言われました。
そのように弟子たち全てが主の御手から生命の祝福のパンを与えられていたの
です。
だから弟子たちには理解できなかったのです。

それは言い換えるならこういうことです。
まさしくダ・ヴィンチが洞察したように、実は十二弟子の全てが同じように「イスカリオテのユダ」でありえたのです。
私たちもまた同じなのです。
私たちが自分の言葉(自己正当化)という「砦」にどのように立て籠もろうとも、主はそこで厳かに言われるのです「それは汝の語りたることなり」と…。
主なる神の前に誰が「われに罪はあらず」と言いうるでしょうか。
むしろ私たちは「義人はいない、一人もいない」なのではないでしょうか。
たとえ人に対して正しい者でありえても、主なる神の前には正しい者は一人もないのです。
それならば主イエスは、まさにそのような私たちのためにこそ「一きれの食物(生命の祝福のパン)をひたして」手ずからお与え下さったのです。


もし私たちがユダの罪を、私たちの外に見いだそうとするならば、そのとき私たちは今朝の弟子たちと同じように、主イエスを尻目に「分派」を組む輩の一人にすぎません。
ユダの「罪」は他の十二人の弟子たちも同じでした。
今朝の御言葉で「誰のことを言われたのかお尋ねしろ」とヨハネに合図を送ったペトロもそうです。
彼はこの後、一度ならず三度までも主イエスの御名を拒んだのです。
他の弟子たちも聖書にはしるされていませんが同じように逃げてしまいました。
勇ましい言葉は十字架を前にして吹き飛んでしまい、みな恐ろしさのあまり主を見捨てて逃げ去ってしまったのです。

ユダは恩を仇で返すような特別に破廉恥な人だったのでしょうか。
違います。
絶対に裏切らないのは動物かロボットだけです。
人はいつも裏切る可能性を持っています。
愛はいつもそうです。
それなら、この闇を照らすものはなんなのでしょう。

それならば、主はまさしくそのような弟子たち、否、まさに私たちのために、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。
御自身の手から私たちに祝福の生命の糧(パン)を与えて下さったのです。
ユダと同じく主を「裏切る者」でしかありえない私たちを、極みまでの愛をもって愛して下さったのです。
その「罪」を赦し信ずる全ての者を新たな復活の生命に歩む者として下さったのです。

これも想像の域を出ませんが、この時までユダにも迷いがあったのではないかと思います。
自分がしようとしていることがどのような結果になるのか確信できず、ためらったのではないでしょうか。
しかし、主イエスが「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのを聞いて、ユダはもはや迷っていることはできなくなったのです。
主のこの言葉に背中を押され行動せざるをえなくなったのです。
ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行きます。
夕食の席ですから、時刻は夜であることは初めから分かっているのに、著者がわざわざ「夜であった」と書くのは、ここでのユダの行為が闇の力の働きであることを印象づけるためでしょう。

「生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マルコ14章21節)と指摘されています。
自分の人生が否定される事ほど、悲しい事はありません。
わたしたちの社会の中で、このような悲しい言葉を聞くことがある。
とんでもない不幸の中に落とされたとき「生まれてこなければよかった」と思ってしまう事があります。
まして、「この上なく愛する主、最後まで、徹底的に愛する主」をユダは裏切ってしまうのです。
心から信頼し、共に語らい、共に食事をし、自分の足を洗ってくださった主を。
この徹底的に愛してくださる愛の中で、ユダは主を裏切るのです。
これ程の闇はありません。
神と一つであるお方、神である主を裏切って、どこに希望があるでしょうか。

内に居られる主を置いて、ユダは闇である外に出て行くのです。
そして、そのユダは私たちの外にではなく内側に存在するのです。

ユダは闇の中に走り去って行くのです。
ユダはその後この闇に耐えられなくなって自ら命を落としてしまいます。
「生まれなかった方がよかった」と自分の人生を否定し、罪の重さに耐えられなくて、自ら命を落とす、これほどの闇はありません。
光がない闇、希望がない闇の中に沈んでしまった時、死ぬ以外ない闇に覆われた時、何一つ希望がない中に、しかし、主イエス・キリストのぶどう酒に浸されたパンがユダの手に握られていたはずです。
私たちは生きるために食事をします。
命のパンを受けたユダは、裏切りを選ぶ事も、服従を選ぶ事も出来たはずです。
夜の闇に出ていくことも、光にとどまる事もできたはずです。
我々はそのパンを受け、何を選ぶべきでしょうか。
裏切りをも栄光に変えて下さるイエスに信頼しながら、服従を選ぶ者となりたい。我々に託された、「良いもの」を引き渡す働きをするものとなりたいと思います。
このユダのために、この罪のために、この闇に沈む人間のために十字架の道を歩まれるのです。

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