日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 人の意思と誘惑 ヨハネ13:12-20 2010/4/18

<<   作成日時 : 2010/04/18 12:00   >>

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あるアンケートに「明日が人生最後の日なら何をしたいか」というのがありました。
皆さんなら何と答えられるでしょうか。

おいしいものを食べたい と思うと顔に書いておられる方もいらっしゃるようです。

さて、本日のお話は先週に引き続きまして最後の晩餐のあと、洗足の出来事の続きです。
キリストは十字架にかかる前日、12弟子たちの汚れた足をきれいに洗ってくださいました。
この出来事は、キリストが十字架で血を流し、人間の罪を赦して清めてくださることを指し示すすばらしい出来事でした。
それと同時に弟子たちに愛とへりくだりから仕え合うことを教えるお手本の出来事でした。
恵みによって今の時代のキリストの弟子とされたわたしたちも、キリスト教信仰が観念にならないように、主にある兄弟姉妹の愛の実践をお互いのへりくだりによって行い、豊かな祝福を受け、ともに喜んで歩んでいきたいと思います。

キリストは愛とへりくだりによって相互に仕え合うことだと主は弟子たちに命ぜられました
その出来事は
@ 夕食の席から立ち上がられた=天の王座から立ち上がられた。
A 上着を脱がれた=神の栄光を捨て人となって世に下られた。
B 手ぬぐいを腰にまとわれた=僕の姿をとられた。
C たらいに水を入れられた=十字架で血を流された。
D 弟子たちの足を洗われた=十字架の血で私たちの罪を洗い流された。
であると説明いたしました。


12節に「上着を着て」とあります。
この場合の「上着」も細かいことを申し上げますとわざわざ複数形で書かれています。
何枚かの上着、1枚でなく、2枚以上の衣服を着たことを意味します。
日本語でも 幾重にも という言い回しをしますが、主はその重責を何枚も重ねていたことになります。
「着る」という言葉は、もともと「取る」とか「得る」とか「受ける」とか「自分のものにする」いう意味の言葉です。
弟子たちが愛とへりくだりによって仕え合うことの素晴らしい生きたお手本として世に来られ天に帰られるということです。


先週も少し触れましたが、この愛の業が、裏切り者と称されるユダにまで及んでいたということです。
これはどういうことでしょうか。
主は以前より、罪びとや異邦人と共に食事をするといわれてきました。
ですから、律法にうるさいファリサイ派の人々などからそれはユダヤ人のすべきことではないと指摘され、弾劾されてきたほどです。


日本人も儒教の精神がなんとなくありますから、目上を敬い、師と呼ばれる人を尊ぶ考えが根底にあります。
その考え方が根底にあるので、余計に抵抗があるのかもしえません

キリストは、弟子たちから見れば神のことを自分たちに教えてくれる宗教の師の立場であり、また、自分たちが僕として仕える主人の立場です。



13節に「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。」とあります。
「先生」というのは、尊称で、当時のイスラエルにおいて、神のことを教える宗教の教師に対し尊敬を持って呼ぶときの言い方です。
当時のイスラエルにおいて、神のことを教える宗教の教師は、神への信仰で成り立つイスラエル社会においては絶大な権威があり、弟子たちとの関係は、厳格な師弟関係であり、弟子たちは、宗教の教師に服従しました。
弟子たちは、宗教の教師を先生、先生と呼んで服従し、いろいろなことを教わり、指導を受けました。
宗教の教師と弟子は、身分が全然違います。
神への信仰で成り立つイスラエルの社会において、先生と呼ばれる宗教の教師が、自分に服従する弟子たちの汚れた足を洗うなどということは、絶対にありえないことでした。
また、イスラエルにおける主人と僕の関係についても同じでした。
僕は主人に仕えるのであり、逆ではありません。
聖書のほかのところに、たとえもあります。
僕は、外で畑仕事や羊を飼う仕事でへとへとくたくたに疲れて帰って来ても、家の主人が、食事の用意をしなさいと言えば、休む間もなく、すぐに食事の用意をしなければなりませんでした。
すぐに食事の用意をして、主人に食べさせても、主人は僕に感謝したりはしません。
僕はそれだけ一生懸命やっても、自分はふつつかな僕です。
なすべきことをしたに過ぎませんと言いなさいと教えられています。
そのように、主人と僕の間には、越えられない大きな開きがありました。
身分が全然違いました。
もちろん、イスラエルの主人の中で、自分に仕える僕の汚れた足を洗う主人など1人もいませんでした。
でも、師であり主であるキリストは、12人の僕である弟子たちへの愛とへりくだりから、実際に洗いました。
それは、キリストの直弟子たちが、また、いつの時代であれ、キリストを信じる人々が、愛とへりくだりから、相互に、汚れた足を洗うような姿勢を持って、主にある兄弟姉妹の愛を実践することのお手本だったのです。

それは、神が罪深い私たちのために御子送り購ってくださることもありえないことの象徴であるといえるのです。

この世ではしないことを、キリストの弟子たちは実践し、豊かな祝福を受けるのです。

信仰者の交わりは、自分の汚れた足を信仰の仲間に洗ってもらったり、あるいは、信仰の仲間の汚れた足を自分が洗ってあげたりの交わりなのです。
最初から愛とへりくだりにもとづく交わりなのです。
何でわたしが他の人の汚れた足を洗わなければならないのと思うときがあるかもしれません。
しかし、よく考えてみれば、自分の汚れた足も、実は他の人々が洗ってくれているのです。
クリスチャンの交わりは、お互いに汚れた足を洗ってもらったり、洗ってあげたりの交わりであることを覚えましょう。
それでよいのであり、それをお互いがすることによって、豊かな祝福を与えられているのであり、これからも与えられるのです。
世にはない教会のよい交わりを、今の時代に築き、みんなで豊かな祝福を受けましょう。

イスカリオテのユダは、心の中でキリストを売り渡すことを考えていました。
他の弟子たちはだれ1人そのことを知りませんでした。
でも、キリストは、神である者として人の心にあることまで何でも知っておられ、イスカリオテのユダの心も知っていました。
また、キリストは、御自分が、そばにいる親しい者の裏切りによって敵に捕らえられ、死に至ることが、父なる神の定めた救いのご計画であることを十分知っておられました。

18節に「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」とあります。
この御言葉は、詩編41編10節の御言葉「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします」を少し変更して引用したものです。
詩編41編は、どのような流れの詩編かと言いますと、キリストよりもちょうど千年前のイスラエルの信仰深い王のダビデの苦しみが歌われている詩編です。
ダビデは、あるときに、自分が一緒にパンを食べる間柄、すなわち、親しい友人のアヒトフェルという人に裏切られ、苦しみました。
そのことが、詩編41編に歌われているわけです。
ダビデが親しい友人のアヒトフェルに裏切られて苦しむことは、将来、ダビデの子孫として出てくる救い主メシアが、親しくしている者に裏切られ、苦しむことを指し示していたのです。
救い主メシアは、そば近くにいる親しくしている者に裏切られて、捕らえられ、苦しみ、死に至ることによって、救いの道を開いていくことが、千年も前から神のご計画として予告されていたことを十分ご存知でした。
キリストは、そばにいた親しい者の裏切りによって、敵の手に渡され、死ぬことによって、救い主としての生涯を開くことを旧約聖書にしるされていました。


21節以下では、ユダが自分を裏切っていくっていう事を暗に語っています。
26節で、「それは誰ですか」とペテロがある弟子に問わせた時にイエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言って、イスカリオテのユダに与えたように書かれています。

これはユダだったかも知れないですけれども、イエスから他の人たちにも与えられているんです。
初代教会の人たちは、ユダ一人にイエスを裏切ったという汚名をきせようとしているような傾向があるように思います。
しかし私はユダもペテロも他の弟子たちも全く同じだと思えてなりません。
ユダの方が、売ったという意味では罪が重いとか、知らないって言ったペテロの方が罪が軽いとかいう問題ではないのではないでしょうか。
12人が同じようにイエスからパンを受け取り、ブドウ酒を受け取り、しかし足も洗ってもらいながらイエスを裏切ったといえます。
しかし、そういう弟子たちであることを知りながら、イエスは弟子に選び、一緒に最後の遺言を形ある形で残していこうとしている。
これはどういうことなのでしょうか。

「わたしを見た者は神様を見たんだ」とイエスは言います。
神様はイエスの姿を取って自分を裏切る人たちの前に跪いて足を洗ってくださるのです。
自分をこれから裏切っていく人間を前に、自分を十字架にかけて踏みにじる人たちの前に無力な僕の姿になって、馬鹿にされ、無視されるような姿をして、それを受けるに値しない人間たちの前にひざまずいて足を洗っている。
そこまですることによって、「お前たちがどのようなものであろうとも、どのように自分を裏切り、自分の期待に応えないものであっても、私の愛は変わらない。あなたたちの罪を私が背負い、あなたたちを愛しているということをあなたたちが本当に分かるために、私はこのようにする」といっているのです。

神様が人間の悪の前に身をかがめて、それでもお前たちを愛するという姿を示している。
これが、イエスの洗足の出来事が示していることです。
31節でそういう出来事を見せた後で、イエスは「さてユダが出て行くとイエスはいわれた。
『今や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった』」と
これは私たちの感覚からは違和感を覚えます。
この後、弟子たちは裏切り、主イエスは敗北し、この世の悪が勝利をおさめる。
「人の子は挫折し、人の子は裏切られる」。
人間の常識ではそう言うべきところです。
主イエスは、「人の子は今栄光を受けた。そして神もまた栄光を受けられる」。
神の意志が現れることが栄光である。
神の意志は、イエスを十字架にかけ、それでもなお、お前たちを愛しているということを、その姿を通して明かにされることなのだ。
主イエスはそのように理解し、語っているのです。

そのような愛を私たちに教えて下さることによって、イエスは「あなたたちも互いに愛し合いなさい。私が愛することは、あなた自身にその資格があるからではなく、あなたが私の期待に応えてくれたからでもない。あなたがどのように私を裏切り、私の期待に応えてくれなかったとしても、私は愛することをやめることが出来ない。あなたがそこに存在することが、私が愛していることなのだ」。
これが、イエス様を通して私たちに語り続けて下さっている神様の愛です。
そのことを私たちが示されるときに、私たちはそのような愛を受けたいと思います。


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