日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 愛がわかるか 2010/4/11 ヨハネ13:1-20

<<   作成日時 : 2010/04/11 12:11   >>

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<<ヴォイスレコーダーの容量の関係で 説教は途中で切れてしまっています。申しわけありませんがご了承ください>>


ある作家が「人間がある人を本当に最後まで愛し続けるということは、そのこと自体がひとつの奇跡である」と書いた記事を読んだことがあります。
これは恋人同士の話に留まらず、家族や親子の関係も含めて、あらゆる人間関係で言えることではないでしょうか。
もし人間どうしの愛の関係を突き詰めてゆくならば、そこには必ず「愛の破れ」「愛の矛盾」とも言うべきものが潜んでいることがわかると思います。
愛するということはいつもこの「破れ」また「矛盾」と隣り合わせなのであって、一人の人間を最後まで真実に愛し続けるということは、それ自体が驚くべき奇跡とも言うべきことなのだ…この作家が言いたいのはそういうことでありましょう。


これは、私たちにもよくわかるのではないでしょうか。
たとえば親子の関係であっても、親はわが子を「愛する」と言いつつ実は自分の理想を投げかけているだけであって、現実の「わが子」にきちんと向き合っていないことが少なくないのです。
そして現実と理想の矛盾に直面するとき、そこではじめて「わが子」に対する本当の愛が問われるのです。同じことが夫婦や友人やあらゆる人間関係にも言えます。
ときに私たちの愛は自分を愛することの対外的な裏返しに過ぎず、いつも見返りを求める愛を勝手に相手に投げかけているだけなのではないのか。そういうことを考えますとき、実は“愛し続ける”ということの難しさに改めて気付かされるのです。

本日の聖書箇所は、ちょうど本日から10日前 受難週の木曜日の晩に当たる箇所です。
昨年のこの洗足の木曜日には高根はる姉妹が洗礼を受けられた日です。
99歳のはる姉妹は幸枝姉妹によるとキリストを受け入れるなどということは 到底考えられないような人生を送られたそうです。
ところがそのようなはる姉妹は、くしくも昨年の洗足の木曜に足の消毒に訪れたまさにその日に、福音を受け入れ神の家族となりました。
偶然では片付けられない、なによりもの神様の祝福だと思います。


1節に、「イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り」とあります。

3年間の公生涯のあいだ、多くの人たちから、“いまこそメシアの時、キリストの時であるまいか”と言われてきました。
主イエスは、その度毎に“まだ私のときではない”とこう仰られました。
とうとう、いよいよ自分の時が来たということ、時が満ちたことを自覚されました。
しかし、その時というのは、多くの人たちが考えていたような決して栄光の時ではございませんでした。
第三者の目からしますと、これは“屈辱の死の時”としか言いようのない時であるのであります。
しかし、神様の側からしますならば、これは父の御許に帰る、神の子が神の御許からこの世に来られて、そして御業を為して、神様の御許に再びお帰りになるという、これは“凱旋の時”のようなものであります。

こういう時を意識されまして、主イエスは、弟子たちに最後の晩餐のときに語られたのであります…。

そしてその前に、食事を一緒にしながらも主イエスの心情は、「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」、
最後まで・・・。
少し前に“究極の何とか”と言うことばが、流行りました。
究極の音楽とか、究極の美容術だとか、いろんな究極の金儲けとか、なんでも究極が付くわけでありますが、聖書にやはり究極と言うことがありまして、それは愛についてであります。
それは“徹底して愛し通された”ということです。
そこには制限がない。
無条件である。

数学的には8を横にした∞という文字で表されます。


こういう愛に最も近いのが、親が子を愛することだといわれます。
しかし、親が子を愛する愛というものは、無条件、絶対のものであるかということになると、かなり親は利己的な要素というものがありますね。
子供に言うときには、“これはお前のためだ”と言いますが、これは案外親のエゴのためだったりすることが少なくないかもしれません。
先生が弟子を思うそういう心情も、これは人類愛に近いものであるとも思います。
しかし、そういう先生が弟子を思う愛というものにもやはり限界があります。
そういうものを超えて、世にいる自分の者たち、弟子たちを愛して、彼等をとことんまで愛し通された。
そのとことんまで愛し通されたということに続きまして、「夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが」とこうあります。
これは、“ユダは別だ”とこう仰っているのではありません。
自分を裏切ろうとしているユダをも含んで、主はとことん愛し抜かれた。
このユダとイエスの関係は、とくにこのヨハネ福音書においては、緊張関係を持って述べられているところが非常に我々の心に響きます。

イエスともあろう方なのに、どうして3年も一緒にいながら、イエスの元を去るに留まらず、主を裏切るという者が出されたのでしょうか…。
イエスの徹底した、とことん愛された愛も通じない。
そういう者がいるということは、何となしに私たちの心に引っ掛かるものがあるのです。

楽観的な人は、“いや、結局人間というものは、お互い善意を持って接すれば、いつかは分かり合えるものだ”と言うことがあります。
男の子は喧嘩すれば仲良くなるとか、そういう何か信仰に似たようなものがあるのです。
けれども、聖書は違います。
“裏切る者はある。裏切る者は決して無くならない。にもかかわらず、そういう裏切る者にさえも注がれる愛。そのなかに主イエスの心があるんだ”ということを描いているのです。
私たちはこういう、いくら愛しても、あるいは優しくしてやっても、相手のためを思っても、どうしようもない人間がいたならば、どうするか…。
私たちはそういう人たちに対して、見捨てる、無関係になる、もう他人同様な付き合いになってしまう、ということは、一番楽な方法です。
あるいは、そういう者たちに対して復讐する。
目には目、歯には歯を、ということで復讐することも、これはこちらの気持ちを晴らすという意味においては、意味のあることではないか…。
私たちはそのように接することがよくあります。

ーー以下の音声はありませんーー

しかし、主イエスはそうはされませんでした。
ここにおいて私は、イエスの愛とても、全能ではないという、そのような思いがいたします。
やはりイエスの愛も無力なんです…、そう言いたい時もある。
現実にはとにかく無力である。
しかし、そういう無力さの中に…、逆に言いますと、最後までそれを十分になさりながら、愛し続ける愛ということこそが、私は、“究極の愛”というものじゃなかろうかと思います。
“報いのない愛”というものに、私たち肉なる人間は耐えられないわけです。
やはり何か期待をする。
将来良くなるだろう。
何とかなるだろうという、その期待に沿う時だけ相手はいる。
けれど、まったくそういうものが裏切られる愛に対しても、私たちは、なおかつ、その無力さを知りつつ、愛するということに留まるということ、あるいは、それを続けるということは、これはまことに人間の思いを超えた神の愛以外にしかないのではないでしょうか…。

私たちが本当に感激するというのは、こういう愛が現実に存在したということです。
イエスの愛の無力さということに、イエスも神の子であるというけれども、しかし、決して全能じゃない。
やっぱりイエスの愛にも限界があるという、そういう限界の故にではなく、無力さを覚えながらもその無力さにとどまり続けて、そして愛し続けていく。
全く空しいと思いながらそれを続けるというところに、これは人間の愛情というものから解き放されまして、それは神様のお与えになったキリストならではの、これは“愛”ではなかろうか。

なかなか、私たちはこういうところに留まるということはできません。
一回か二回はあります。
そうすると、それに懲りて、もう三度は繰り返さない。
四度、五度は、もう知らん顔ということになりがちであります。
しかし、主キリストは、最後まで愛し通されたということは、これは主キリストが、自分の愛を意地になって主張したということではありません。
全然ダメだと思いながらも、ダメである無力さのなかに、徹底したということです。
これは、意地でできることではなくて、そこにはイエスの働きの陰には、イエスをこの地上に送られた神様の愛というものが生きて存在していることに、私たちは気がつかなければならないと思います。

さて、この4節でありますが、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた」。
本来ならここに、多分、最後の晩餐の物語が入るべきところです。
ところが、このヨハネ福音書は、最後の晩餐がカットされて、晩餐のあるべきところに、この主イエスが弟子たちの足を洗われたという記事が代わって置かれているのです。
これは非常に深い意味があると思います。

先週の夕礼拝で聖餐式の記事を学びました
時系列でいうなれば本来はこの位置にあるべき箇所ですが
この主の行動は、そのまま贖いのみわざを象徴しています。

当時、ユダヤの国におきましては、お客様をお招きいたしますと、手と足とを洗う、それが来客に対する最高のもてなしであるとされてきました。
いわゆるサンダル履きですから、旅行して来られて埃が色々と付いた、それを洗い流すわけです。
しかも、この役をするのは、大方、その家の使用人、奴隷の仕事でした。
お客様を呼ぶというからには相当な構えをしているのかもしれませんが、その家の中で一番身分の低い、つまらない、そういう役をする人たちによって、お客様の足を洗うことが行われた。
徒弟でしたら、一番新米の徒弟にやらせるというのでしょうか。
それは分かりますね。
ところが、みんなが食事に着いている時に主イエスがご自分で水を汲んできて、そして、一人ひとりの足を洗い始めたというのです。
多分これは、あのマリヤが香油を注いだあの出来事に匹敵するほどの大きな驚きであり、また、弟子たちにとっては当惑だったと思うのです…。
和気あいあいと楽しくこの過越しの祭の食事をしている時に、こともあろうに、先生が弟子たちの足を洗う、先生が奴隷のまねをする、そういうことは前代未聞です。
暫くはビックリして声も出なかったんだろう。

ある本には子ので市の足を洗うという行為の意味について このように書かれていました。
@ 夕食の席から立ち上がられた=天の王座から立ち上がられた。
A 上着を脱がれた=神の栄光を捨て人となって世に下られた。
B 手ぬぐいを腰にまとわれた=僕の姿をとられた。
C たらいに水を入れられた=十字架で血を流された。
D 弟子たちの足を洗われた=十字架の血で私たちの罪を洗い流された。

“先生一体何をお考えなんだろう”、“何をなさろうとしていらっしゃるんだろう”、“何か言っていいものやら悪いものやら”…。

そういう雰囲気が弟子たちの心に様々によぎったものと思います。
そして、このペテロの番になったのです。
こういう時に、最初にお喋りするのはペトロでありますから、ここでもそうですね。
「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」…。
いままで何人か洗っているのは間違いないわけですから、“お洗いになるのですか”というのは、何を聞いているのか という話になります。
これは確認をしているのではなくて、“一体どういうことなのでしょうか”という意味だと思います。
謙遜というか、堪りかねて、こう質問したわけです。
“何のために先生がこんなことをおやりになるんですか”…。
彼は恐縮しきって、彼の声も震えていたんじゃないでしょうか。
その時に主は言われました。
「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」…。

子を持って 初めてわかる 親心。
親の心子知らずと申します。
それは私自身にも当てはまることですが、主の御心を知れば

今、私のやっていることは、今すぐピンと来るようなものではないと思う。
これは、“あとで”、というのは、何時かとか、あるいは、これが終わったらという意味ではなくて、“いずれ分かるときがやってくる”という、これは私たちにとっても大きな慰めですね。

主イエスは、“すぐに分かってくれなくて良い、時が来たならば分かるから”。とおっしゃる。
この時というのは、“十字架とよみがえり”の後という意味です。
“いずれこういう時というものが、あなた方に必ず来る”、そのようにおっしゃったのです。
それでペテロは、たまらず「わたしの足を決して洗わないで下さい」といいます。
心情はわかります。
“もう結構です、ほかの人にやってください、私はもういいです”、こう言ったわけです。
すると主イエスは、“もし私があなたの足を洗わないというのであるならば、あなたと私とは、まったく係わりがないものとなってしまうんだよ”、とこう言われたのです。

イエス・キリストと弟子との関係の、究極の係わりというのは、この“イエス・キリストによって足を洗われることだ”と言うのです。
この足を洗うというのは、ただ綺麗にするという意味だけではありません。
十字架に架かられて、ペトロのため、あるいはヨハネのため、ヤコブのため、そして、ユダのためにも、イエス・キリストは、“とりなしの救い”を象徴的に直接弟子たちにお見せになったのです。

「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」、とこう言われたものですから、
ペテロは非常に単純な人間ですから、後にありますように、どちらかと言ったら、極端から極端に行くわけです。
“じゃ先生、それじゃ足だけでなく、どうぞ手も頭も”とこう言うわけです。
私にもよくあります。

わけでして、まあこの程度のペトロがイエスの弟子であったならば、我々も弟子になりうると、こういう自信を持たせる、希望を持たせる箇所ではないでしょうか。
もう、足を洗ってもらうと恐縮していながら、そう言われると、今度は急に、足だけじゃなくて手も頭もと、こういう言い方です。
そうしましたら、主イエスは彼を制して、“いや、すでに足を洗ったということは、からだが洗われたものであるんだから、これはもう全身が綺麗なんだ”と、“足を洗うということは一つの象徴的な行為であって、あなたはもうきれいなんだ。だから、もう一度頭のてっぺんから足先まで洗う必要はない。このようにあなたは受け取らなければならないよ”、ということを仰ったわけです。

“イエス様はそうおっしゃるけれども…”、この“けれども”が付いてはいけないと思います。
“私は別だ、私はそこまで…”と言う人は、要するに、まだまだイエス・キリストの恵みに触れていないといえるのです。
自分の足が本当に全て洗われているんだという確信に導かれるべきだと思うのです。
そのことが不徹底である限り、私たちはやはり、“やってやったんだ、他の人は何をしているんだ”、とこういうことになって、奉仕が憎しみに、あるいは、奉仕が怒りに変わってしまう。
隣人を愛の対象ではなくて、怒りの対象にしてしまうということになってしまいます。
イエス・キリストは怒ったでしょうか。
イエスが弟子たちを叱咤激励して、そういうことをなさったでしょうか。
ご自分が十字架に架かる前という、大きな十字架を負いながらも、“互いに足を洗い会いなさいよ”と勧められているのです。
これは他人事ではありません。
これは、私たち一人ひとりに、主がそのように示されているのです。

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