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zoom RSS 復活の主に生きる 2010/4/4  イースター聖餐礼拝  ヨハネ20:1-18

<<   作成日時 : 2010/04/04 09:38   >>

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復活に立ち会う者

イースターは主の復活を記念する日です。
神学校の恩師石田先生は聖書原典のギリシャ語の単語を引き合いに出して説教をすべきではないとおっしゃっています。
しかし本日は、あえて2節に使われている、「置く」という動詞に着目してこのテキストを見ていきたいと思います。

ここに使われている「置く」という単語は「ティーセミ」という単語です。
神学校で用いている教科書メイチェンの「ギリシャ語原典入門」の後ろの辞書では「put」、
「置く」としか訳がありませんでした。
しかし他の辞書には、「据える」や「設ける」、顔に覆いを「かける」、病人を床に「寝かせる」や、ある職務に「任命する」、「定める」、金を「預ける」、霊を「授ける」などの意味があります。
ひざを置けば「ひざまずく」、命を置けば「捨てる」という意味になります。
生前のイエス様はラザロがどこに葬られたのかお尋ねになられました。
そしてこのイエス様はだれも「葬られた」ことのない墓に「葬られました」
この墓がある。という語にもこの「ティーセミ」が用いられています。

当時のこの地方の墓は、横穴式で、入り口を大きな石を転がして塞いでいました。
オリエントでは、このような墓の中にはいくつかの遺体が入れられるのが通常でありました。
その墓の中では時間ともに死体が腐ります。
遺体が腐った後、骨を骨つぼに集めて他の場所に埋葬するのが常でありました。
時にエルサレム中が沸きかえった十字架での処刑の時です。
偶然、岩に大きな穴を掘ったままで、まだ誰も使っていない墓がエルサレムのほど近い場所にありました。
別の福音書ではアリマタヤのヨセフの墓だったと記されています。

さて、テキストを見てまいりましょう。
週の初めの日である日曜日に女の弟子達が、死体の処理をするために、朝早く、まだ暗いうちに、墓に向かいました。
マリアが墓へ行ってみると、その石が取りのけられているのを見ました。
平行記事のほかの福音書には母マリアを含む女の弟子達が墓に向かったとかかれています。
しかしヨハネ福音書だけが、マグダラのマリアのみがイエスの葬られた墓へ向かったと記されています。
マリアは弟子のリーダーであるペトロとイエスの愛した弟子のもとへ行きました。
そして弟子たちに「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私達にはわかりません。」と報告します。
ここでつかわれる「置く」という単語が「ティーセミ」です。
ですから、どこにあるのか、どこに葬られたか、というだけではありません。
マリアにとって心から信頼し、愛したイエス様がどこに据えられたかわからなくなってしまったのです。


そもそもヨハネの福音書における復活物語には若干の矛盾点が見出されます。
マグダラのマリアがたった一人で朝早く出かけたとすれば、どうやって墓の前の石を取り除けようと思ったのでしょうか。
他の福音書では、石をどうやって除けようかと他の女性の弟子と相談したと記されています。
原典では単数形と複数形が混在しています。
また、こんな早くに墓に行って具体的には何をしようと思ったのでしょうか。
他の福音書には女性の弟子たちが墓に行く前に弔いのための香油を買ったと記されています。
しかし、ヨハネはそんなことはお構いなしに、週の初めの日の早朝、取るものも取らずマリアが墓を訪れたと記しています。
マリアが「ティーセミ」に向かって一直線に、一目散に向かっていったと記されています。


このヨハネ福音書は、一貫して我々に「愛」を教えています。
いいえ、単に教えているばかりではありません。
愛を証しすることによって、福音書に触れる我々を生かします。
今日の箇所は、復活日の早朝、マグダラのマリアがイエスの墓の外で体験したことを記しています。
これは「我々を生かすのは愛である」という証言に他なりません。

最近、私は心の中で、先に召されて行った親しい人々(家族・教会の懐かしい仲間・友人)に向かって、名を呼んで語りかけることがあります。
その人たちはたいてい何も言わないが、微笑み返してくれるでしょう。
記憶に残っているのは、その人たちの「愛」だけです。
パウロは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(第一コリント13,13)と書き記しました。
その通りです。
マリアも、死んだ主イエスとの間で、そのような交流をしていたのではないでしょうか。

イエス様は十字架上で愚弄され、侮蔑され、憎しみを持って殺されました。
それらの人達にとって、イエスが葬られた墓は立派過ぎたのかもしれません。
アリマタヤのヨセフや、ニコデモの余計な弔いに腹を立てたのではないか。
きっと誰かがイエス様の遺体をも持ち出して、まだなにかしようとしているのか。
墓を暴くということは、憎しみの窮みの表現として、あるいは侮辱の表現として行われたかもしれない。
そこまで卑劣で野蛮な行為が、自分が最も尊敬し愛するイエス様に及んでいる。
愛している人の肉体がどこかに葬られている、置かれているというだけでもどこかに安らぎを得ることができます。
マリアはその朝、イエス様が復活するのを見に行こうと出かけたのではありませんでした。
彼女の行為は、自分がいわゆる政治・思想犯として殺されたイエスのシンパであることを、明らかにします。
イエスを快く思わないユダヤ人たちに捕らえられるかもしれない、非常に危険なものでした。
ペトロと愛する弟子が帰ってしまった後も、墓の外に立って泣いているマリア。
涙と共に「わたしの主が取り去られました」と訴えるマリア。
「なぜ泣いているのか」と問いかける人がイエス様だとはまだ分からず、混乱しているマリア。

混乱するマリアのところに、主は具体的によみがえられました。
それは、主の復活は、私たちに与えられる永遠の命も具体的なものだということを意味します。
永遠の命というのはけっして観念的な命ではありません。
「やがて天国にいったら分かるさ」というようなものでもありません。
永遠の命はイエス様の復活が具体的であるように、私たちの人生にも具体的にかかわってきます。
イエス様の復活によって永遠の命を受けるということは、私たちの生き方が具体的に変えられてしまうような出来事なのです。
ここでマリアの様子を想像してください。
彼女は今墓の中にだけ関心が向いているのです。
自分の心の中にあるはずのものが失われてあたかも空っぽになっていたかのように。
永遠の命を見当違いのところに捜し求めていたのかもしれません。

そのような、悲しみの中にあるマリアにイエスはご自身を現わされて、「マリアよ」と、呼びかけられました。
温かく「マリア」と呼びかけられた時、マリアは一瞬でそれがイエス様であることを悟りました。
主は復活されたのです。
マリアは、間髪を入れず、ごく自然に「ラボニ」、「先生」と応えます。
これは普段彼女が 主イエスを呼ぶ表現です。
彼女はそう言いながら、一体、何が起こったかを一瞬にして悟ったでありましょう。
この経過は、単に復活という出来事の「説明」ではありません。
イエスがどんなに真実に群衆を、弟子たちを愛されたか。
それを明かしする出来事です。
マリアは呼びかけに素直にこたえることによって、復活の主を受け入れ心の中心にすえることが出来たのです。

注解書によっては、マリアが特別な弟子だったと特定するものもあります。
何年か前に流行った映画『ダヴィンチ・コード』では主イエスがこのマグダラのマリアとの間に子供をもうけたという設定で話が展開されていました。
話としては面白いのでしょうが、そういう事実はないと思います。
私は、全世界の人々を愛の対象とされているイエス様が個人を特別扱いされたとは考えられないからです。
愛を受ける側は、いままで受けたことのない大きな愛情を感じるでしょう。
だから、自分は特別に愛されているという錯覚に陥らせるのかもしれません。

そしてこれらのやり取りの瞬間にマリアは新しい命に満たされます。
その意味で、初めて復活の主と出会った弟子としては特別な弟子かもしれません。
この記事に触れたとき、私たちもそのことを再認識するのです。
「我々を生かすのは愛である」という人生の真実の、まことに美しい証言としてこの箇所を受け取りたいと思います。

先ほど、私は、ヨハネ福音書は我々に「愛」を教えている、と述べました。
第1章の「万物は言によって成った」という創造の叙述も、
また「言は肉となって、私たちの間に宿られた」という受肉の秘儀も、
神の愛の力を告げ知らせているのであり、そこからこの福音書は始まっています。
この愛の最高の表現が、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3,16)であります。
十字架の死が迫った時には、主イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ」(13,1)彼らの足を洗われた。
それから、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13,34)という新しい掟を与えたのであった。
「愛」はヨハネ福音書を背骨のように貫いて支えていることがわかります。

主イエスの愛は、マグダラのマリアを復活させました。
一旦は逃げ去った弟子たちと、三度「イエスを知らない」と否認したペトロを復活させました。
それは我々すべての者を復活させるのです。
主イエスは言われました。
「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。…このことを信じるか」
復活の主は、我々のたとえ死ぬべき命であっても、与えられた一日を信仰において全うするように「いのち」を与えます。
「このことを信じるか」我々にはこのことが問われているのです。

復活は、「どうも、そのようなことがあったようだ」とか、
あるいは「確かに、何事かが起こったようだ」といった、
客観的な出来事、事件としてあるだけでは、意味がありません。
2000年くらい前の今日、この日、イエス・キリストは復活した。
という単なる事実としてだけ、とらえられるものではありません。
イエス・キリストの復活は、信じがたいことです。
それは、普通に信じられるというような類のことではありません。
聖書自身が、この弟子たちの様子を通じて、私たちに伝えようとしているのは、
復活を信じることは、大変に難しい、困難なことであると言うことです。
「いや、私はイエス・キリストの復活が信じられるよ。」
などと、ある意味で気楽に言うことができないことなのです。
神の特別の助けがなければ、私たちは、イエス・キリストの復活を信じることはできません。
神への応答がなければ、復活は復活ではありません。
それは、私たちの生き方、考え方を根こそぎ変えてしまいます。
ですから、人々は、これを信じることができませんし、受け入れられないのです。
たとえ事実として起こっても、受け入れられないのはこのためです。

復活は、私たちが自分勝手に、主張している正義を破壊します。
復活は神の正義を受け入れることだからです。
私たち一人一人の名が、神によって呼ばれます。
その声に「ラボニ」、「主よ」と応答するとき、
私たちは復活の主を神の正しさを、心の中に取り込むのです。

私たちはこの主の復活をどのように捉えて、つまり「ティーセミ」するか。
復活の主を自分の中心に据えて、つまり「ティーセミ」して、
キリストにある生涯を歩んでまいりたいと願います。

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