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zoom RSS 闇の中の光 ヨハネ12:36b-43 2010/03/21

<<   作成日時 : 2010/03/21 12:01   >>

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イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
ヨハネによる福音書12:35-43





世の中にはさまざまな人がいます。
自分勝手に生きていたり、ずるく立ち回ったり、人を平気で傷つけて生きていたりする人に出会うことがあります。
そんな人が成功し、うまく生き抜いていく姿を見ると、わたしたちはやっかみ半分で心の中でつぶやいたりします。
あんな生き方をしていたら、今にひどい目にあう。
また逆に、けなげにまじめに、いろいろなものに耐えながら生きているのに、不運が重なる人を見ることもあります。
そんなときもわたしたちは心の中でつぶやくかもしれません。
そのうち必ずいいことがあるからと。
しかし、実際にわたしたちの重いとは裏腹に、いい人の不幸は続き、ひどい人の成功が続いていく姿を見続けることがあります。
そんな姿を見て普段信仰を持っていない人手さえつぶやきます。
やっぱり神様なんかいない。
神様が向こうを向いているんだとか、神様がどこかに行ってしまったんだとか…。


さて、本日の聖書にありますとおり、イエス様が人々の前を立ち去って「身を隠す」ということは、これまでも何度かありました。
ヨハネ8章には「わたしはある」と言って、ご自身が神であることを宣言するイエス様に石を投げようとする人々の目の前から立ち去って身を隠した、とあります。
そして、これまでも何回か、人々はイエス様を捕えようとしましたが、その時は、「イエスの時はまだ来ていなかったから」という但し書きがついていました。
しかし、今回は、まさにその時が来たからこそ、身を隠されるのです。
「人の子が栄光を受ける時」、「人の子が上げられる時」が来たのです。
つまり、ユダヤ人に逮捕され、ローマ人に十字架刑を言い渡され、すべての人によって十字架に上げられ、処刑される時が来たのです。
その前に、弟子たちに語りかける、その言葉と業をもって語りかける、そしてイエス様が誰であるかを彼らに示す、分からないだろうけれど、示しておく。
そういうことをなさる。
それがこの後13章以降に記されていることです。


前回の箇所の最後で、主イエスは、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」(35節)と語られました。
私たちは、光あるうちに、光がはっきり見えているうちに、しっかりと光をつかまなければなりません。
それをなす時があるのです。
時代には波がありますし、私たちの人生にも波があります。
明るい時代があり、暗い時代がある。
ひとりひとりの人生にも明るい時があり、暗い時がある。
平穏な時があり、困難な時がある。
幸福で楽しいと思う時があり、不幸だと思うときがある。
私たちはさまざまな時の中を生きているのです。
完全に闇に覆われてしまう前に、私たちは光に立ち返らなければならないのです。

もっとも平穏な時、困難の少ない時が、光がある時というわけでもありません。ここで言う「光」というのは、この世の「光」のことではないからです。
極端にいえば、イエス・キリストというお方が光そのものだと聖書は語ります。
先ほど述べましたようにイエス・キリストご自身が「わたしは光として世に来た」(46節)とはっきり語られているからです。
光が見える、見えないというのは、一種の状態だといえます。
例えば 主イエスを素直に信じられる時と、そうでない時があります。
しかしその光をしっかりと手にするということは、状態ではなく決断です。
私たちは、この光を自分のうちにお迎えする。
この光と共に歩むという決断をするのです。
その信仰の決断をする時に、それが自分の中で積極的な意味を持ってくるようになるのです。

ヨハネは、イエス様の多くのしるしを見ても人々が信じなかったことに、預言者イザヤの言葉の実現を見ています。
この預言の、特に四〇節以下に引用された言葉は、マタイ福音書やマルコ福音書においては、イエス様自身の言葉の中に引用されている言葉です。
それだけに、困難な伝道をしている初代教会においても極めて重要な言葉だったのだと思います。

最初に出てくる言葉は、「苦難の僕の詩」として有名なイザヤ書五三章の書き出しの言葉です。
このイザヤ書五三章を、ある人は「旧約聖書の最高峰の言葉」だと言います。
この言葉を初代教会はイエス様の受難を預言するものとして受け止めており、極めて大切な言葉であることは、間違いありません。

 少し抜粋しながらお読みします。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
・・・
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

・・・・
わたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
 ・・・・
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
 ・・・・
主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。
・・・・
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」


この僕が、自分たちの罪を背負い、自分たちの身代わりに神の裁きを受け、罪人のための執り成しをしてくださったことを、いったい同時代の誰が信じたというのか。
そして、いつの時代でも、この僕のことを知らせる言葉をいったい誰が信じるというのか?そういうことを歌っている詩が、この詩です。

この苦難の僕と同じ様に、イエス様の真の姿、その御業の真相を、誰が信じられたでしょうか。
ほとんど人間には不可能なことなのです。
ヨハネはイザヤの預言を引用することを通して、そう言いたいのだと思います。

群集はイエス様が、メシア、救い主とは、圧倒的な力をもって外国の勢力を追い払い、民族国家を樹立し、経済を繁栄させてくれる王だと認めています。
もちろん、神の民イスラエルですから、その王は神の御心に従って、その支配を確立する王でなければならないと考えてはいる。
しかし、その神の御心が、実は、人々の罪をすべて一人の人間に負わせて裁き、そのことを通して人々の罪を赦すことにあるなどとは考えようもないことなのです。
それは、イザヤの時代もイエス様の時代も同様です。
そしてそれは現代でも変わることはありません。
その現実、変わることのない現実をヨハネは指摘します。
人は誰も、自分が罪人だとは思わず、思わないから罪の赦しを自覚的には必要とせず、必要としないから期待はずれのメシア、王は追放し、抹殺する。
その事実はいつの時代も変わらない。

しかし、自覚として必要としていなくても、必要であることはいくらでもあります。
自覚としては食欲がなくても体は栄養を欲している。
自覚症状としてはどこも悪くないけれど、体の中には癌細胞が増大している。

そういうことは誰にでもあることです。
自覚と現実はしばしば異なるものです。

それは、すなわち
見えていると思っていること
知っていると思っていること
聞こえていると思っていること
信じていると思っていること
はしばしば現実と異なるということです。

主イエスを光として受け入れ、その光の元にその姿を見るとき初めてその本質が明らかにされるのです。
そのとき初めてさまざまなことが明らかにされるのです。

それは、主イエスご自身が神であり、その言葉は神の言だからです。
その言こそ命であり、光だからです。
その命の光を受け入れなければ、自ら死の裁きを下すことになってしまう。
そういう言として、キリストは今もこの世に来ておられ、闇の中の光として輝いておられるのです。
そうして、今、この礼拝堂にいるすべての方が、その光の前に立っているのです。神様に招かれているからです。
そして、三六節にありますように「光のあるうちに、光を信じなさい」と言われている。
世の誉れではなく、神からの誉れを求め、世における自分の命を憎み、主を愛し従う道を選びなさい、と言われている。
そこにこそ、永遠の命があるのだ、と。

私が語れること、語らなければならないことは、このことだけだと思います。
あとは、ただ神様に祈る以外にはありません。
私たちすべてが信じることが出来るように聖霊をお与えください、と。
世の終わりの日まで、一人でも多くの人々が、この永久に変わることのない主の言葉を信じることが出来ますように、と。

 ルカ福音書の言葉ですけれど、主イエスはこうおっしゃっています。
「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

また、ヨハネ福音書でもイエス様は、「父が、わたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とおっしゃっています。
だから、私たちは絶えず新たに主の言葉を聞き続け、聖霊を求める以外にありません。
そして、主イエスの言葉は、すべて必ず実現し、世の終わりの日には、その確かなことが明らかにされます。
その確かさに支えられ、導かれながら、不確かな私たちは、今日からも不確定な世の中で、確固たる救い主、イエス・キリストを証しして歩めますように祈ります。

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