日本ナザレン教団 成田キリスト教会

アクセスカウンタ

zoom RSS 暗闇からの開放 2010/3/14 ヨハネ12:30-38

<<   作成日時 : 2010/03/14 11:51   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0




イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
ヨハネ福音書12:30-38


今日は光について考えてみたいと思います。
私たちは、光がないと何もものを見ることができません。
キリストという光がなかったら、神さまを見ることができません。
光と命とには、密接な関係があります。
光がなくては、命、即ち健康を保つことも、成長することもできません。
一部の深海生物の中には直接は光を必要としないものもあるようですが、それらも光による殺菌作用などがなければ、結局死に至ります。
信仰の命を保ち、成長するためには、光であるキリストから光をいただかなくてはならないのです。
だから本日の箇所で、「私は世の光である。私に従う者は、命の光を持つ」と、キリストは語られたのです。

ある詩を紹介します。
「光る光るすべては光る
光らないものは一つとしてない
みずから光らないものは他から光を受けて光る」

光は、ものごとのありのままの姿を明らかにします。良いところも悪いところも分ります。
つまり長所も欠点も明らかにするということです。
信仰も不信仰も明らかにします。
もうひとつ同じ詩人の詩をご紹介したします。

「光と闇」
光だ光だ
という人には
いつか
光が射してくるし

闇だ闇だ
という人には
いつまでも
闇が続く


これは坂村真民(さかむらしんみん)=癒(いや)しの詩人という詩人の詩です。この方は信仰者ではありませんでしたが、聖書の語る真理を表しているように思います。
斎藤茂太氏は、『プラス思考がその人を強くする』という本の中で、このように言っている。
「真民さんの詩や文章には、人を包み込むようなあたたかさがある。それは真民さん自身が本物だからなのだ。」
「どん底を見てきた人は、人間に対する眼差しに慈愛が満ちるのだろう。」
さらに斎藤氏は、真民さんが挫析と劣等感をバネに詩をつくって来たことに共感し、心から敬意を表している。

主イエスという光に照らされて、神さまに愛されていると知ったら、喜び、感謝をしましょう。
罪が分ったら、大胆に悔い改めましょう。
そして、新しく生まれ変わりましょう。

世の光としての主イエス・キリストは、私たちに語りかけられます。
「光の子となるために、光のあるうちに光を信じなさい」(ヨハネ12:36)と。
このみ言葉は、私たちに対する主イエスの希望であり、願いだと言えます。
主イエスは私たちに「光の子」となってほしいと願っておられるのです。

だから、「あなたがたは世の光である。」(マタイ5:14)と語っておられるのです。
「今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光からあらゆる善意と正義と真実とが生まれるのです」(エフェソ4:8−9)と、パウロは語ります。
光の子となるとは、光を継承することです。
親にとって自分の子が可愛いのは、自分の命を受け継いでいるからにほかなりません。

命を受け継ぐとはどういうことでしょうか。

キリストに倣いてという本があります。
トマス・ア・ケンピスの有名な書物です。
トマス・ア・ケンピスは紀元一四世紀の後半に生まれ、九二歳まで生きた修道士です。
彼の書いたこの本は聖書に次いで多くの人に読まれているものですが、その原題はラテン語で「デイミタチオネクリスティ」と言います。

イミテーションと言いますと「模倣品」とか「模造品」とか「まがい物」という意味でつかわれることが多いと思います。
本来は「模範とする」という意味です。
「キリストのまねび」と訳することもありますが、「まねび」は「学び」でもあります。
キリストを模範として学ぶということです。
彼はこの本の中で、信仰とはキリストのまねをすることだと書いています。
イエス・キリストが歩まれたように、私たちもキリストに「まねび」、そしてキリストに「学ぶ」ことが信仰なのです。

そのキリストなる光から善意と正義と真実とが生まれるのだと、聖書は語ります。
「善意」と語っていることに大きな意味があります。

現代は、人間不信が強くなってきて、善意が通じにくくなってきています。
善意が善意として通じ、受け取られる社会でないと、本当に住みにくいです。
日本もかつて非国民がいないかと、だれかに密告されないかとびくびくしていたことがありました。
日本中のあちこちに監視カメラが設置され、どの車がどこをどう通ったかもわかるようになっているといわれます。
疑いだしたらきりがないのです。
疑惑は雪だるまをつくるようにどんどん膨れてしまいます

善意の回復こそ、現代の重大課題です。
いずれにしても、私たちに「光」があるということは、何ごとにもまして、大きな喜びであり祝福だといえます。
夕暮れになっても光がある。ゼカリヤ書14:7
闇になっても盲目になっても孤児になっても不治の病になっても
危篤になっても極刑になっても臨終になっても光がある


今、私たちが過ごしている四旬節は、もう一度信仰の原点に立ち戻ろうという期間です。
信仰の原点とは互いに愛するということです。
そして、愛するというのは、神や人、そして被造物をも大切にしていくことです。このことを抜きにして、いくら祈ったり、犠牲や節制を行ったりしたとしても何の意味もありません。
逆にいえば、祈りや犠牲、節制ができなかったとしても、愛を実践していくことができたならば、それがもうすでに、祈りや犠牲、節制を行ったことになります。信仰というのは、けっして、外面的なことではありません。
掟でがんじがらめにされていることでもありません。
そうなってしまったならば、イエス様が一番嫌っていたファリサイ派と同じことになってしまいます。
イエス様をはじめ神が私たちに求めているのは、真の意味での愛です。
愛を追い求めていこうと日々歩んでいくならば、それが信仰を追い求め、深めていくことになります。
神のもとに行くまでは、完全に愛することはできません。
ですから、結果をあまり気にする必要はありませんが、日々の振り返りと、信仰から外れてしまったことへの軌道修正は必要となるでしょう。
あと三週間で復活祭を迎えます。
それまでの間、特に私たちの信仰を振り返ってみることは、大切なことでしょう。

最後にもう一度最初の聖書のことばに戻ってみることにします。
神は私たちを愛するがために、私たちをゆるし、受け入れようとしてします。私たちはそれにどのように応えていけばよいのでしょうか?
神は、一方的に私たちを愛してくれていますが、私たちは、神を愛することも、人を愛することも、被造物を愛することもできていません。
少しでも神に倣って信仰を深めていくことができるように、私たちも、特に自分との間で嫌いだったり、気の合わない人に対して、「ゆるそう」、「受け入れていこう」とする姿勢を持っていきたいものです。
神は難しい課題を私たちにあえて突きつけ、私たちがどのようにその課題を果たしていこうとするのかを見守っています。
神の愛に応えて、私たちも神からの課題に挑戦していき、復活祭を迎えるための準備を行っていくことにしましょう。

私たちが、神からの大きな愛を感じ、神が私たちを愛によって、ゆるし、受け入れてくださったように、私たちも、互いにゆるし、受け入れあっていくことができますように、聖霊の導きと照らしをもとめましょう。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
暗闇からの開放 2010/3/14 ヨハネ12:30-38 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる