日本ナザレン教団 成田キリスト教会

アクセスカウンタ

zoom RSS 大切な君 2010/2/27 ヨハネ20:20-26

<<   作成日時 : 2010/02/28 08:03   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0







さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
(ヨハネ福音書12:20−26)

先週、私たちはベタニヤ村での香油注ぎの記事を学びました。
それは主イエスが十字架にかかる6日前、土曜日の出来事でした。
翌日の日曜日、主イエスはエルサレムに入城されました。
この入場の箇所は受難節がもう少し進んだ時に学ぼうと思っています。

この12章というのは、イエス様が地上で過ごされた最後の数日間の事です。
日曜日から金曜日まで、一週間に満たない僅かな時間です。
どの福音書もこのたった一週間足らずのことでありますけれども、全体の、そのことのために一生懸命書いております。
ヨハネ福音書もそうです。
この箇所の前がエルサレム入城という箇所でした。
お城に入るなどというと、心がうきうきするような印象を受けます。
しかし、主イエスは心穏やかではありませんでした。
解放者として主イエスを歓呼する群集が、一転して「十字架につけろ」と憎悪する群集に変わりうることをご存知だからです。

過越しの祭りのために、国の内外から大勢のユダヤ人や、あるいは改宗者たちがエルサレムにやって参るわけであります。
たまたまあるギリシア人が、12弟子のひとりであるフィリポのところにやって参りました。
―この場合のギリシア人というのは、必ずしも今日我々が考えるギリシアの国家のもとにあるギリシア人ではありません。
いまでこそ、様々な知識を得るために外国に出て行くという若者はおりますが当時はギリシア人だけがわざわざ外国にまで行って知識を深めていたそうです。
外国人が自由に旅行ができる世の中ではありませんでしたし、わざわざ異文化を学ぼう等という考えもなかったようです。
その外人がそして言うには、“先生に是非お目にかかりたいと思っておりますので、よろしくお取り計らいしていただけませんでしょうか”、とこうお願いしたわけです。

口語訳聖書にはこの箇所に「君よ」という呼びかけの言葉が入っています、
この「君よ」というのは自分より目上の人に呼びかけるときに用いる言葉です。
主よ 呼びかけるのと同じ言葉です。
しかしここで主イエス以外を呼んでいるのに「主よ」と呼びかけるわけには行かないので「君」と訳し分けられているのです。
学校や会社で「君」と呼ぶのとはわけが違います。

12使徒のなかで、このフィリポというのは、これはギリシア名です。
ですから、非常に親しみを持ってこの人がやって来たのかもしれません。
聖書ではわざわざ「ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポ」と名前はギリシア名だけれどユダヤ人だと説明書が淹れられています。
これは、このギリシア人がよくフィリポを知っていたという意味ではないと思います。
そこでフィリポは、やはり親しいアンデレ、ヨハネ福音書の初めの方でもこのフィリポとアンデレというのは何か仲良しのような印象を受けます。
このアンデレにそのことを話して、“じゃ、先生のところに行ってお願いしてみようか”という事で、主イエスにそのことを伝えたわけです。
そこでどういうような事になったのか。
一体このギリシア人が何を話したくてイエスのもとに来たのか。
ユダヤ教に改宗していたのかどうか。
あるいは主イエスと何か会談でも持たれたのか。
フィリポの斡旋が功を奏したのか…、等については、全然この後で記されておりません。
ポンと切れまして23節に、「すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」…。
こういう段落で、一粒の麦ということが言われているわけです。
ですから、何かこの前のところから切り離された形で言われているのですが、これはどんなことだろうかと考えてみますと…。
ユダヤ人と主イエスとは、たいへん厳しい緊張関係にありました。
もしも隙があったならイエスを逮捕しよう、あるいは亡き者にしようと、こういう勢力が一段と盛り上がった時であります。
そのような時に、わざわざ外国人であるギリシア人がやって来て“イエスにお会いしたい”、とこう言ってくるということは、非常に珍しいということ以上の出来事です。
自分たちの同胞が、本当に神を知り神様に一番忠実であるべきユダヤ人が、最も神に不誠実であり不信仰である、そういうことをご覧になって、イエス様は心を悩まされたと思うのであります。


主イエスは言われた「人の子が栄光を受ける時が来た。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12:23-24)。
人の子が栄光を受ける、民衆は主イエスが王として立つことを期待していました。
しかし、主イエスは力でローマを倒しても、そこに何も生まれない事を知っておられたのです。
正に「剣を取るものは剣で滅びる」(マタイ26:52)のです

「一粒の麦が死ななければ」、麦を地に蒔けば、その麦は地の中で、壊され、形を無くして行きます。
そのことによって種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結ぶのです。
蒔かずに貯蔵しておけば今は死ぬことはありません、しかしそれもやがては死に、後には何も残さない。
主イエスが王として立っても、それは一時的なものに終わってしまうのです。
しかし、十字架で死ぬことによって、そこから多くの命が生まれていく。
だから主イエスは言われました「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12:25)。

ここで命を愛すると言われている「命」はギリシア語のプシュケー=肉的、自然的命と訳されます。
それに対して、永遠の命には「ゾーエー」という言葉を使います。
プシュケー=肉の命を第一にするものは、ゾーエー=霊の命を失うとここで言われているのです。
私たちも肉の命を貯蔵することは出来ます。
出来るだけ危険なところに近寄らず、幸福な生活を求めて老年になり、平和の内に死ぬ。
しかし、そのような人生は成立し得ません。
自分の満足と幸福だけをひたすらに追い求めている人がいます。
しかし、そのような人の多くは 現実には何と多くの悩みを負い、妬みや憎しみに囚われて惨めな人生を歩むかを私たちは知っています。
何故ならば、競争社会において、全ての人が自己満足、自己実現を果たすことは出来ないからです。
競争に負けた人は勝者を恨み、競争に勝った人はやがて新たな競争者に負けていくのです。

先週はオリンピックの話題があふれていましたが、国を代表して参加する人は多いのですが、金メダルを取る人はたった一人です。
各種目メダルは3個、8位までを入賞としても世界でたった8人です。
オリンピックは出場することに意義がある、などと言われますが、戦っている選手は、応援団、国を挙げての応援の上にプレッシャーと戦い、自己と戦っています。
たった一つの金メダルのために。

競争、戦いといって避けて通れないのは戦争です。
人類は正義という名のもとに戦争を繰り返し、平和を得るためだと大義名分をうたいます。
実際には国威発揚のため、経済を活性化させるため、利権を得るためであり、そこには本当の命、平安などありえないのです。

そのしるしとして、歴史が証明しています。
華やかな脚光をあびて世に君臨し、強大な国家を建設しながら、やがて歴史のかなたに消え去って行った人は多い。
アレキサンダーやナポレオンがどのような英雄であっても、今の私たちには、何の力も及ぼしません。
しかし、主イエスはそうではありません。
人々から嘲られて、十字架で死にながら、今も歴史の中に行き、人々を動かしていく。
主イエスの行いや言葉によって、何と多くの人の人生が変えられ、今でも変えられていることか。
これこそ、一粒の麦の教えが真理であることの証だと言えるでしょう。


私たちは自分の力で生きているのでしょうか。
自分で働き、収入を得ているのだから、自分の力で生きている、そういう考えもあるでしょう。
あるいは神により生かされているのか。
人間が命を継続させるために必要なものはすべて地上に存在していることを思えば、それが神によって生かされているかどうかを判断するに十分な答えです。
どちらを信じるかで私たちの行き方は変わってくるのです。
どちらが主人であるかは、どちらが命の決定権を持っているかで決まると言えます。
私たちは自分の命を左右する力はありません。
私たちは死ぬことを運命付けられた存在だといえるでしょう。
とすれば、命を与えて下さる方のことをもっと考えるべきだと聖書は教えるのです。
命ほど大事なものはありません。
船が難破して海に投げ出された人が、持ち物や荷物を捨てなければ助からないとしたら、その人は命以外のものは惜しげなく捨てるでしょう。
私たちも同じ状況にあるといえます。
世の命=プシュケーを手放そうとしないことが、本当の命(ゾーエー)を危険にしているのだ。
だからプシュケー、自己を捨てよ、そうすればゾーエーを得るのです。
家を建てるものの捨てた石、ユダヤ人が捨てた主イエスの十字架の中にこそ、命があるのだと聖書は語るのです。

私たちも主イエスがお捨てくださり、私たちに与えてくださった命にいきたいと願います。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大切な君 2010/2/27 ヨハネ20:20-26 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる