日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 暗闇からの開放 2010/02/14 ヨハネ11:38-44

<<   作成日時 : 2010/02/14 12:09   >>

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さて、今日の福音は、イエスが葬られて四日後になるラザロを復活させてくださったことを記す有名な個所です。
福音書記者ヨハネはカナの婚礼に始まるヨハネ特有の奇跡物語の最後にこの記事を書いています。
今日の箇所の少し前の10章には、ユダヤの宗教的指導者たちが、すでにイエス様を危険分子として捕らえようとする動きがあったことが伝えられています。
弟子たちですら捕らえられれば死を免れないであろうことを知っていたようです。
また、この奇跡を体験したユダヤ人の密告によって、イエス様が捕らえられるきっかけとなったと記されています。

「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」イエス様が愛しておられた、マルタとその姉妹がイエス様に伝えました。
しかし、それを聞いてもイエス様は二日間動かれませんでした。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」イエス様はおっしゃられました。
シロアムの池で主は生まれながらの盲人の目を癒したのと同じように、神の栄光のためにその業をなされました。
神の望みは、主イエスがすぐ行って治すことではありませんでした。

しかしイエス様を迎えたマリアとマルタの姉妹は変えようのない絶望の中にありました。
死後四日ではなく、墓に納められてから四日ですから実際にはそれ以上の日数が経過していたでしょう。
聖書はその間、彼女たちがどのような思いで過ごしたかを伝えていません。
しかし彼女達の言葉からそれがいかに辛く苦しいものであったが想像できます。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
マルタはイエス様に無念の気持ちを表現します。
しかし、それはイエス様への抗議ではありません。
マルタはなおイエス様により頼んでいます。
マルタの思いはなお、世を去ったラザロにありました。
愛する者を失った悲しみの中にマルタはありました。
もうどうすることも出来ない無力感にマルタは包まれていました。
そんなマルタに「あなたの兄弟は復活する。」イエスは事もなげに言われました。
それに対しマルタは答えます。
「終わりの日、復活の時に復活することは存じております。」
彼女はここでイエスの言葉に対して、一般的な信仰者の答えをしています。
確かに彼女は、そこに希望をおいていたでしょう。
遠い未来の慰めとして彼女は悲しみに耐えようと決意していたでありましょう。
時間の経過が彼女の悲しみを癒してくれると信じていたのではないでしょうか。
あるいは「終わりの日ではなく、本当は今その業をお示いただきたい。」と口には出さずとも願っていたかもしれません。

イエスはさらに言われました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、だれも、決して死ぬことがない。このことを信じるか。」
マルタはこの自分で発した言葉を自ら聞きながら、彼女は誰に向かってこの言葉を言っているかに気がついたのです。
ただ、イエスのお話はラザロが治るか治らぬに尽きるものではないことだけは感じていました。
マルタはラザロの病気と生死のすべてをイエスに委ねました。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
その時点でのマルタの信仰告白です。
一般的な信仰告白を唱えるようにではなく、抽象的にキリスト教の教えをお題目のように繰り返すのでもありませんでした。
彼女はまさに、教え込まれたことを繰り返すように答えたのでした。
しかし、言いながら、誰が自分に問いかけ、自分が誰に答えているかに気がついたのです。
世に来られるはずの神の子、メシアその人に問われ、答えていると気がついたのです。
彼女は、教えとしてこの言葉を理解していました。
そのものに直面しているという意識に希薄であったのです。
「信じています」言ってはみたものの、自分の言葉の真実を彼女は疑わざるを得ないでいたのです。

この時、マルタは気が付いたのです。
そこで場面が大きく変わります。

マルタはマリアを呼びに家に戻ります。
これから起こる偉大なことを予見するかのように。
その奇跡の体験者として妹もその場に立ち合わせるために。


「どこに葬ったのか。」イエス様はお尋ねになられました。
そして、イエス様は墓へと案内されました。
「盲人の目を開けたこの人もラザロがしなないようにはできなかったのか。」そんな声も耳に入ります。
きっとほんの少し前までマルタが持っていたのと同じ戸惑いであります。

イエスは墓の入口を開けるように言われました。
当時のイスラエルの墓は、大きな洞穴に遺体を収め、しばらくして肉体が朽ち果て骨になったら別の場所に埋葬する、という風習がありました。
「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」とマルタが答えます。
墓に入れて4日目ですから、マルタの言うとおり腐敗が始まっていたことでしょう。
しかし、イエス様はマルタの信仰をもう一段高いレベルに引き上げようとされます。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」
この言葉は、「あなたは私が誰であるかをよく知ることになるだろう。」と言い換えられるでしょう。
そこでイエスは神である父に向かってお祈りになられました。
「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
そして、イエスが呼ばれるとラザロは墓から出てきました。
最初の言葉は、私の願いをすでに聞き入れてくださっているという感謝の言葉です。
すでに聞き入れられているのだから、ここで改めて「ラザロにもう一度命を呼び戻し、墓から出してください」などと祈り願う必要はありません。
しかし、ここで、なお天を仰ぎ父の名を呼ぶのは、ここにいるマリア、マルタをはじめ多くの人たちが、私が誰であるのかを知るためです。

ラザロの復活の奇跡は、イエスが来られたのは、この世の命のためではなく永遠の生命のためであることを教えています。
私たちはラザロの復活を見るようにキリストのみ業を見ることができるでしょうか。
この時に起こった出来事は、マルタとマリアはおろか、今日の私たちもなお信じがたいことでした。
誰もが、これは何かのからくりがあったのではないかとか、大げさに伝えられたのではないかという説明をしようとします。
あるいは科学の発達しない昔のことだからと言い逃れをしようとするかもしれません。
当然のことながら、当時の人々ですら話を聞いただけでは信じられなかったと思います。
ただ、この出来事に直面した多くの人々がイエスを信じたという事実は確かでした。

人々が、天を仰いで居られる主イエスの姿をみた時、イエス様が墓の中に遣わされる光であること。
闇に勝つ光であること。
罪に打ち勝つ救い主であること。
人々はまさにそれらのことを同時に目の当たりにしたのでした。
その光そのものが「ラザロ、出てきなさい。」と大声で叫ばれたのです。
それは光が闇を打ち破る声であります。
それは死の壁を突き破る言葉であります。

死人ラザロはよみがえりました。
ラザロのよみがえりは私たちにどのようなことを語りかけるのでしょうか。
イエス様が声をかけられるまでラザロは布にくるまれたまま、暗い墓の中にいました。
そして、イエス様の声に答えてラザロは手も足も顔も布で巻かれたまま光の中へと出てきました。
ここで用いられている「巻く」というギリシア語の単語は、ロバをつなぐ、夫婦が結ばれる、などという意味でも用いられます。
しかし聖書の中では大多数が「拘留するために縛り上げる」という意味で用いられます。
パウロはキリスト教徒を「縛り上げる」権限を大祭司から受けてダマスコに向かいました。というように。
そこで回心を体験し、霊に繋がれる身となりました。
このようにこの巻かれているという語がここで用いられています。

墓に葬られてから4日の間ラザロは布に巻かれて真っ暗な墓の中にいました。
罪の報酬は死です。
ラザロは罪につながれていたのです。
その肉体は時まさに朽ち果てようとしていました。
その時、敬愛するイエス様の権威ある声を聞きました。
そして、命を吹き込まれ、呼び求める声に従って出てきたのです。
イエス様は立ち会った群集に向かって、光の中へと押し出されたラザロを「ほどいてやって、行かせなさい」とおっしゃられました。
闇から光、死からの生還、罪の拘束から開放、そしてラザロは日常へと自分の足で立ち歩いて行くのです。

ヨハネはこの言葉でこの物語を終えてしまいます。
どんな思いで墓から出てきたのか、ラザロには何も語らせません。
ここまでの鮮明な記述と比べるとあまりにもあっけない終わり方であります。
しかし、手も足も頭も絶望の死につながれていた闇の状態から開放されること以上、何を書き記す必要があるでしょうか。
この後、ラザロは多くの人に告げ知らせたでしょうし、圧倒的な神の力を多くの人に告げ知らせたことでしょう。
絶望が希望に変わる瞬間を目の当たりにした人々は、イエス様が救い主だと信じずにはいられなかったでしょう。

私たちは今、主の希望に満ちた言葉と、大いなる業をもう一度思い起こしたいと思います。
私たちは、既に私たち自身が罪から解かれている、という喜びに感謝しましょう。
主により頼みつつ十字架の希望により頼み、主にある歩みを続けたいと願います。


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