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zoom RSS CEC研修会 信仰のプロフェッション 2010/2/11 ヨハネ福音書11章

<<   作成日時 : 2010/02/14 10:10   >>

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私は仕事を紹介するという仕事をしてきました。
それぞれの特性を生かして、しかるべき職場を紹介するのですが、これがなかなかたいへんでした。


フランス語で 「働く」 は “travailler”、その名詞形である 「仕事」、「労働」 は “travail” といます。
この 「トラヴァーユ」 は、日本では女性求人雑誌の名前となって 広く知られることとなりました。
動詞の トラヴァイェは 「働く」 ばかりでなく、「勉強する」、「錬磨する」 の意でもある。 学生や子供達が学校で勉強したり、家で学習したりするのも トラヴァイェという。
ドイツ語では ベルーフです。
こちらは天命、使命、天職という意味が含まれます。
英語のworkには 働くという意味のほかに 神の業や、道具として用いる、という意味もあります。

あるテレビでプロフェッショナルとは何かというインタヴューを職人さんにしていました。
比較的無口だったその人は、「自分の仕事に満足しない人だ」と言っていました。
それは、言い換えれば「これ以上は出来ないと諦めない」というようにも聞こえました。
つまり、絶えずさらにひとつ上の仕事の内容を追求する人のことをプロフェッショナルと言うのだということでしょう。
この場合のプロフェッショナルとは、通俗的な意味で、その仕事で収入を得ているという意味ではありません。

私の前職の上司は、部下に対してよくこういいました。
サラリーマンというのは給料をもらうために仕事してるヤツだ、君たちは自分のことをビジネスマンだといえ。
それはサラリーをもらうプロではなく、ビジネスのプロであれ、ということを言いたかったのだと思います。


牧師は、説教することこそが最大の仕事です。
み言葉と祈りに専念することが聖書に書かれています。
説教とは聖書のメッセージを聴き取り、それを語ることですから、聖書を読み続けることが仕事の第一歩です。
そこから聴けるだけのメッセージをいつも新たに聴き取る努力を続け、それをなるべく分かりやすく語るための努力を続けることがプロの要件なのだと思います。
しかし、いつも言いますように、信仰は霊と言葉によって与えられるものです。言葉だけでも、霊だけでもありません。
霊は神様の賜物ですから、その聖霊を求めて読み、聖霊を求めて語る。
それが説教者の使命でしょう。

しかし、キリスト者というものは、説教をする者であれ、説教を聞く者であれ、基本的に聖書に対してはプロフェッショナルなのだと思います。
皆さんも、絶えず新たに聖霊を求めて、生涯聖書を読み、説教を聞くことにおいてプロフェッショナルであらねばならないのだし、その喜びへと召されているのです。


プロフェスという言葉には、信仰を告白するという意味があります。
さらにプロフェッションは職業という意味と共に信仰告白という意味があります。

プロフェッションというのは、“profess” という動詞の名詞形です。
プロフェスは 同辞典によれば、
   1 公言する、明言する
   2 (宗教・神など)の信仰を公言する、(公に) 信仰 [告白] する、奉じる
   3 自分のものらしく主張する、装う、・・のふりをする、・・と偽る
   4 ・・の知識 [技能] があると主張する、職とする
   5 (誓願させて) 教団に入会させる、入信させる
等の意味です。
4の文例として、profess law [medicine, plumbing] とあるから、プロフェスするのは弁護士や医者ばかりでなく、配管工も認められています。
そうなると、ここでも建築家や医者が特別な存在とは見なせなくなる。


私たちキリスト者は、聖書の言葉から絶えず新たに神の言を聴き取り、信仰を告白しつつ生きることに生涯をかけており、ある意味、そのことを生涯の仕事として生きているのです。
その点においては、牧師も信徒も何の違いもないといえます。


ヨハネ福音書11:27のマルタの信仰告白を中心に据えました。
つまり、イエス様を「神の子、メシアであると信じる」、それがキリスト教信仰であると言ったのです。
それは勿論、間違ってはいません。
しかし、「神の子」や「メシア」(キリスト)という言葉は、実はこの時代も今の時代もイエス様以外にも使われる言葉です。
たとえばローマの皇帝アウグストだって「神の子」と呼ばれていました。
旧約聖書においてはイスラエルの王は「神の子」でもあります。
イスラエルの民も神の子という意味をもっています。
また、「メシア」を自称したり、また人々からそう呼ばれる人物はイエス様の前にも後にも大勢います。
旧約聖書では、イスラエルの王はメシアでもあるのです。
神様に選ばれ、立てられ、聖別の油を注がれた王や大祭司はメシアなのです。
そういう歴史的事実を知らなくても、私たちがそれぞれ「神の子」とか「メシア」とはこういうものであると勝手に想像して、イエス様にそのイメージに当てはめ、「イエス様は神の子であり、メシアです」と言うことも出来るわけです。

しかし、そんなものがヨハネ福音書の伝える信仰であるはずもありません。
先週も少し触れたように、トマスという弟子は、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました。
彼はこの時、イエス様が命がけの伝道をした上で英雄的な死を遂げて終わる殉教者だと思っていたのです。
しかし、彼は復活の主イエスと出会った時に「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのです。
この告白がヨハネ福音書に登場する人物の最後の信仰告白です。

「主」とは、旧約聖書では神ご自身のことです。
キリスト教信仰とは、イエスという人物がその神であること、あるいは主は今イエスにおいてご自身を啓示しておられることを、信じる信仰なのです。
少なくとも私にとってイエスは「わたしの主、わたしの神」以外ではないことを告白する信仰です。その根拠は、このイエスという人物が、十字架の死の後に復活されたからです。その方と出会う、出会ってしまう、その時、人はこの信仰を告白せざるを得なくなります。しかし、その方と出会っていなければ、その人にとってキリスト教信仰は愚かにして狂気なものにしか見えないことは当然のことです。

もう少し、このことについて見ておきたいと思うのですが、11章の直前でエルサレムのユダヤ人がイエス様を石で打ち殺そうとする理由を、こう言っています。


「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」


私の高校時代、世界史の教科書に、イエス・キリストと釈迦と孔子が世界の「三大聖人」とかいう括りで出ていたと思います。
しかし、ヨハネ福音書は、イエスという人を聖なる人物として紹介してはいません。
ヨハネ福音書は、最初から「イエスは神である」と告白している、プロフェッションしているといえます。

「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

これがこの福音書の書き出しです。
言とは、イエス・キリストのことです。
そして、さらにこういう言葉も出てきます。

「言は肉となって(つまり人間となって)、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」


ここにこの福音書を書いたヨハネという人、また彼が属する教会の人々の信仰告白、プロフェッションがあります。
そして、この告白をすることが、当時の人々にとってはまさに命がけのことだったのです。
当然です。
イエス様が自分のことを神と等しい方とすることで神への冒?罪に問われて殺されることになります。
ですから、そのイエス様を人となった神として告白をする人々もまた、神を冒?する者として殺されても少しもおかしくありません。
実際、当時のキリスト者たちは、神が人間の肉の姿を取るわけがないと信じているユダヤ人からも、皇帝こそ神の子であり救い主であると信じることを強要するローマ帝国からも迫害され、殉教の死を遂げる人々がいくらでもいたのです。
そういう時代状況の中で、この福音書はイエスを「神の子」「メシア」「主」「神」として信じる告白をしているのです。

プロフェッションという言葉には、一歩前に進み出て告白するというニュアンスがあると思います。
一列に並んでいる人々に対して、「この中でイエスを主、神と信じる者は前に出よ」と言われた時に、「はい、わたしは信じております」と命をかけて一歩前に出て告白する。
マルタの告白とは、そういう告白。
ヨハネが属している教会の命がけの信仰告白なのです。
この福音書を書いたヨハネという人は、何の危険もない状況の中で、思弁的に神とは何か、メシアとは何かを論じているわけではありません。
この信仰によって生きるのか、この信仰によって死ぬのかという厳しい現実に直面する中で、イエス様が神の子メシア、そして、主、神であることを信じる告白をしているのです。

キリスト者の人生とは

そして、この福音書を通して、イエス様ご自身が、私たちに「あなたはこのことを信じるか」と問いかけてくるのです。
そして、その問いに「信じます」と答えることが出来る時、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない」という信仰の神秘が、現実として分かるのだと思います。
この信仰の神秘、あるいは究極の現実に向かって、私たちキリスト者は生きているのだと思います。
そのキリスト者の現実を、パウロがフィリピの信徒への手紙の中に書いているので、お読みします。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。・・・わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」



ここにも信仰に生きるプロフェッショナルとは何であるかが明確に記されていると思います。
私たちは今日も、私たちなりに、これまで到達したところに基づいて一歩一歩前に進んでいきたいと思います。


そのイエス・キリストが、今日も、私たちに問いかけてくださいます。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。(あなたは)このことを信じるか」と。

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシア、わたしの主、わたしの神であることを信じます」と信仰告白することが出来る人は幸いです。
その人の内には命の光が宿るからです。信じることが出来ますように。


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