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zoom RSS 荒野に降り立つ主 マラキ3:1-3 2009/12/6朝礼拝

<<   作成日時 : 2009/12/06 15:17   >>

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待降節とはどのような時でしょうか
一般的にはたのしいクリスマスに備える日々であると考えがちです。
しかし古くからは再臨と主を待ち望むときであることを忘れてはなりません
クリスマスが終わればそれでこれでもう安心、そのようなものであってはならないのです。
再び来たりたもう 再臨の主を心からお迎えする、
その記(しる)しとして喜び祝うのがクリスマスであり、そのことに備えるのがアドベントの真の意味だといえます。

主の誕生は第一の降誕であり、再臨の主は第二の降誕
再臨の主を待つことを忘れてしまうのであれば、クリスマスは形だけのものとなってしまいます。

 使徒信条に「かしこより来たりて」と唱えます。
「かしこ」とはどこでしょう
毎週「私は信じています。」と告白している使徒信条にある言葉です。
「主はかしこより来たりて、生けるものと死ねるものとを裁き給わん」
かしことは「神の国」です。
「かしこより来たりて、生きるものと死ねるものとを裁き給わん」ということは

クリスマスに一度この世に神の国から来られたキリストはさばき主として、ふたたび世に来られます。
人々が、人生の終わりや世の終わりのことを考え、恐れを感じるのは「さばき」を予感するからです。
「さばき」という概念は、普通は誰も考えたくない概念です。
それで、ある人たちは、キリストを救い主としてだけ考えようとします。
しかし、キリストは救い主であると同時にさばき主です。
さらに言えば、キリストはさばき主であるから救い主になれるのです。

キリスト教と仏教の神様の考え方の違いはここにあります。
閻魔様が生きている間うそを付いた人の舌を抜くなどという裁きはありますが、
仏教では人間が死ねば仏という信仰の対象になります。
人生の延長線上に神があるという考え方です。
しかし、キリスト教は神が人間となってこの世に現れたのです。
しかもその神は、救い主であり、裁き主であるということです。

私たちはこの再臨信仰の中に生きているでしょうか?
もし再臨信仰がないとすれば私たちの信仰は形だけとなってしまいます。

再臨の主はいつおいでになるのでしょうか。
2012年マヤ文明の歴史がそこまでしか記されていないから、そこで歴史は終る、という話が世界中で話題になり映画になっているそうです。

しかし、聖書は、再臨の主は盗人のように突然やって来る、と説明します。
その時は神さまのみが、お決めになるのです。
主は突然来られる 主は人間の時計によって来るのではありません。
人間は自分自身の時計に従って計画を立てます。
それは自分の都合で救いを得ようとしているということです。
我々の人生は神の時計に従って導かれている。
いつ再臨の主がおいでになられても良いように私たちは生きているでしょうか。

自分のみの快楽におぼれていないでしょうか。
神様に喜ばれる生き方ができているでしょうか。
それらを点検するときがアドベントであるということもできます。

本来、私たちの人生は待降節的人生でなくてはなりません。
全生涯が再臨の主を待ち望むものでなくてはならないのです。

「あなたたちが待望している主は突如おいでになる」

マラキは特別な日を教えています。
神の裁きと救いの日、私たちにとって特別な日とは何でしょうか。
それはまず、洗礼を受けた日ではないでしょうか。
古い自分に死に、新しい自分に生まれ変わったはずです。
特別な日を境に人生が変わる そういう日が私たちにはある。クリスマスも同様です。
クリスマスによってキリストの福音に触れる人がいます。
クリスマスに初めて教会を訪れる人がいます。
クリスマスに洗礼を受ける人がいます。
だから、このクリスマスを大切にしなければなりません。
私たち信仰者にとっていつもどおりのクリスマスであってはならないのです。

主の十字架の日、主の復活の日 これこそは私たちの生が変えられる日でなければなりません。
再臨の主が私たちの心に再び来られる日も特別な日だといえます。
これから執り行われる聖餐式ももちろんそうです。

今日は旧約聖書最後の書、マラキ書から御言葉をいただきます。
イスラエルは神に対する背信の裁きとして国が滅ぼされ、住民はバビロンに捕囚となりました。
マラキ書は旧約の諸文書の中では、年代的に一番新しいものです。
当時の歴史的背景を少しだけ省みて見ましょう。
イエス様がお生まれになる600年位前にイスラエルはバビロン捕囚から国に戻ることができました。
その後、エズラやネヘミヤなどの預言者が立てられエルサレムの神殿の再興がはかられるところを学び会では学んでいます。

帰還した民は希望に燃えて国の再建を図りますが、住民の妨害や飢饉等のため、エルサレム神殿の再建は中断され、人々は毎日の生活に追われていました。
その時、預言者イザヤやハガイが立てられ、人々を励まします「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所に私は平和を与えると万軍の主は言われる」(ハガイ2:9)。
主のために神殿を立てよ、そうすれば主は大きな祝福を与えると約束されたと、ハガイは人々を励ましました。

紀元前515年、神殿は再建されました。
かつて預言者エゼキエルは神殿が再建された暁には、神の臨在が神殿を満たすだろうと預言しました(エゼキエル43:4)。
人々は神殿の再建を喜び、これからは主の祝福がいただける、生活は良くなると期待しました。
しかし、人々を待っていたのは、旱魃と凶作、飢饉でした。
その後もペルシャの支配は続き、さまざまの宗教的習俗が流行しました。
この世的には良いことは少しもなく、悪いことばかりが続くようで、こころ定まる日はありませんでした。

人々はつぶやき始めます「裁きの神はどこにおられるのか、どこに正義があるのか」(マラキ2:17)。
神殿を再建しても何も起こらない、相変わらず生活は厳しい。
宗教的義務の務めは継続されましたが、信仰の熱意は消えました。

人が宗教に求めるのは、この世での成功を求める現世利益か霊との交信をもとめる現世離脱のどちらか、です。
前者は「信じれば治る」とか、「信仰すれば幸せになる」とか言う教えで、苦難の中にある人は、わらをもつかむ思いです。
しかし、現実には信じても治らないことは多いし、苦しみは消えることがない。
マラキに描かれている世界は、この現世利益が破れた世界です。
他方、別の教えは、世を離れ、霊の世界との交流による救いを提唱します。
マラキ書を最後に預言は終り、黙示文学が始まります。
黙示とは神による世の救済をあきらめ、再臨による世の裁きを求める世界です。今、預言書を大事にする従来のキリスト教各派に人々が集まらず、ペンテコステ等の再臨宗教に人気が高まり始めているのも、現代の人々がこの世での救済に絶望しているからです。
悔い改めの伴わない安易な選択では得ることのできない
永遠の命の本質を得ることよりも、目さきのラッキーを求めてしまうのです。

しかし、聖書は「信じれば治る」とは言いませんし、「この世を離れなさい」とも言いません。
イエスに示されたのは、十字架を通しての世の救いです。
現世利益も現世離脱も共に、苦しみからの解放を求める人間の作り出した幻想です。
神殿を再建しても、バプテスマを受けても、救いが来るわけではありません。
また天を仰いでもイエスが再臨されるわけではありません。
そのような幻想を捨て、現実を直視し、逃げるなと聖書は教えます。
人は誰も十字架など背負いたくありません。
しかし、十字架を背負って始めて知る人生の豊かさがあると聖書は教えます。

神を畏れる者はすべて神の書の中にその名を記されている
それゆえ最後の審判の時は救いの時と変わる
裁くべき神は救うべき神でもあります。
裁きと救いは表裏一体 愛と怒りは表裏一体です
この恐るべき方のみが魂を救うことができるからです。

喜び踊る者と裁きに悲鳴を上げる者が同時に起こります。
その日は裁きと救いの日だ 歓喜と悲鳴が同時に起こる。
世界は暗く、一人一人の人生も暗い
しかし、夜は更(ふ)け、再臨の朝が近づいている
それゆえ、私たちは信仰の眠りから目覚める時である
なぜなら主は突然来られるからです。

主こそ救い主と信じる者には裁きの日は喜びの日となります。
それゆえ私たちは終わりの日、主の再臨の日を恐れることはありません。
暗い中に光がさすように。
死と隣り合わせの荒野に主が来てくださるように。
再臨の主は突如おいでになるのです。
それゆえに私たちは感謝と喜びを持って再臨の主を待つ日々を送りましょう。

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