日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS イエスとは誰か1 ヨハネ9:13-17 2009/10/18

<<   作成日時 : 2009/11/15 17:27   >>

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さて、前回からの続きです。
生まれつき目の見えなかった人が、イエスさまとの出会いによって目が見えるようになった軌跡の物語です。
目が見えず、物乞いをしていた男に、イエスさまが唾で泥を作って男の目に塗りました。
そしてイエスさまは「シロアムの池に行って洗いなさい」とお命じになり、そのようにすると目が見えるようになった。
そういう喜ばしい出来事がありました。

今日の聖書個所では、人々が、目が見えるようになったその人を「ファリサイ派」の人々の所に連れて行ったと書かれています。
当時は病気が治ったかどうかを長老に見せて、「あなたは清められ、病気は癒された。」と宣言を受けなければ、ユダヤ共同体に戻ることはできませんでした。

ファリサイ派は、ユダヤ教の有力な一派で、モーセの律法を自分たちが決めたとおりに厳格に守ることで有名です。
そしてイエスさまのことを敵視していた人々です。
なぜ人々は、元盲人の男を、イエスさまに対立するファリサイ派の所に連れて行ったのでしょうか?
あきらかにイエスさまのなさった奇跡を見せるためだったのです。
そして、こんな奇跡を行うイエスさまだから、イエスさまは神さまの所から来た方に違いありませんよ、ということを教えるために連れて行ったのかも知れません。
ところがここから、ファリサイ派による、この元盲人の人への尋問が始まるのです。
ファリサイ派の人々は、素直に喜びませんでした。
喜ばないどころか、イエスさまがこの人の目を見えるようにしたということを疑ってかかるのです。
尋問してなんとか粗探しをしようとするのです。
なぜファリサイ派の人々は、目の見えない人が見えるようになったということを喜べないのでしょうか?
目が見えなかった者が、見えるようになった。
これはどんなにすばらしいことでしょうか。
盲人であったこの人も、どんなに見えるようになることを望んでいたでしょうか。
神さまのお造りになったこの世界を、どんなに見たかったことでしょうか。
それが今、見えるようになったのです!ところがきょうの聖書のファリサイ派の人々を見ておりますと、なんともイヤな感じを受けるのではないでしょうか。
このファリサイ派の人々には、盲人であった彼に対して、共に喜ぶということが全くないからです。


だいたい、すばらしいことが起きたのに喜べないというのは、どういう場合かというと、「妬み」(ねたみ)がある場合です。
このケースの場合は、まず盲人であった彼に対する妬みでしょう。
ファリサイ派は、自分たちにはすばらしい神の恵みを体験できずにいる。
しかし自分たちが「罪人」として見下しているこの男が、神の業を経験した。
そのことに対する妬みです。
もう一つは、イエスさまに対する妬みです。
彼らがイエスさまに対して妬みの感情を持っていたことは、マタイによる福音書の27章18節を見ると分かります。
そこでは、ファリサイ派など、イエスさまを十字架につけるためにローマ総督ポンテオ・ピラトにイエスさまを引き渡した理由が、「妬みのため」と書かれているのです。
「妬み」。
この言葉について、ある神学者は次のように解説しています。
妬みとは、「神から誉れを受けようとしないで、人から褒めてもらおうとする思い」であると。
わたしはこれを読んで、なるほどと思いました。
ファリサイ派というのは、自他共に認める宗教家でした。
神を信じる敬虔な人々であり、民衆の先生でした。
ところが、実際に本当に神を信じているかというとそうではない。
実は「妬み」があった。
神からの栄光を求めようとしないで、人間から褒められ称賛されることを求めていたということになります。
そしてそのような妬みの心は、私たちの中にもあるものです。
そもそも22節に書かれているように、ファリサイ派の人々は、「イエスをキリスト(メシア)と公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」のです。
つまり、先に結論ありきで、そもそもイエスさまの業が神の奇跡であることを認めないという前提に立っているのです。
もう結論があるのです。
結論が出ている上で、この元盲人の人を調査している。
こういうのを「偏見」というのです。
結論が出ているのに、話し合いましょう。
なんていっている話が現代にもありますが、そこにも少なからずこの「偏見」があるのではないでしょうか。

私もそのような偏見に出くわすことは時々あります。
「キリスト教が嫌いだ」という人も、ほとんどが誤解と偏見に基づいていると思います。

さて、ファリサイ派の中のある人々が言いました。
「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」。
「安息日」ここまでも何度か問題になってきました。
「十戒」にあるように、安息日は労働を休む日でした。
現在でも、イスラエルに行くと、安息日にはユダヤ人は働きません。
以前にもガス漏れの話をしたことがありましたが、例えば安息日にエレベーターに乗ると、何階に行くかというボタンを押しても押さなくても、各階停車し、ドアが勝手に開いては閉じるということを繰り返すのだそうです。
それは、各階に行くボタンを押すという行為が「労働」に相当するからだと判断しているからなのです。
それほど徹底しています。
だからすごく宗教の戒律が生きていると思われることでしょう。
それでは「戦争」はどうなのかと思って調べてみました。
なんと、戦争は安息日にしても良いことになっているのだそうです。
ついこの間まで、イスラエルがガザに攻めこんで戦争がなされていましたが、安息日になったらイスラエルが攻撃をやめたという話は聞きませんでした。
戦争は安息日に許される行為とされているのです。
安息日に休んでいては、敵にやられてしまうからです。
なんとも不思議な自分勝手な掟のような気がいたします。
一見宗教的であるように見えるが、実は人間の都合が優先されています。
エレベーターのボタンを押すことはダメで、戦車を操縦し、ロケット砲を発射するボタンを押すのは許される。
私たちの神さまは、「十戒」でそんなことを決められたのでしょうか。
殺してはならない、奪ってはならない、とあるじゃないですか。
律法をたてにして自分を守るくせに、自分は律法を守らないとはなんと自己中心的な理解でしょう。

ファリサイ派の人々は、イエスさまがこの元盲人の人の目を開けたことが、「労働をした」ことに相当すると判断したのです。
だから、「安息日を守らない」と言ったのです。

14節では、わざわざ土をこねて、その目を開けられたのは安息日のことであった。
と説明が加えられています。
「土をこねる」というのが労働に値するのです。

それに対してイエスさまはどう対応なさったか。
聖書を読んでいると、イエスさまは安息日に、同じように人の病を癒したりなさっています。
これは、ファリサイ派との対立を描くために、わざと聖書に残したという糸もあったと思います。
イエスさまにとっては、安息日というのは、普通に仕事を休み、会堂で神さまを礼拝するというところまではファリサイ派の人々と同じなのですが、そこから先が違うということが分かります。
ファリサイ派の人々にとっては、安息日というのは、「休まなければならない」「〜してはならない」という禁止の日でした。
しかしイエスさまにとっては、「喜んで労働を休んで、神さまを礼拝することができる」「神さまの祝福が現れる」‥‥そういう日であることが分かります。
つまりこれは、神さまが最初に安息日を制定された、その原点に帰っているのです。
創世記の1章2章です。
神さまは天地万物と、この世界の自然と、私たち人間をお造りになり、お造りになったものをご覧になったところ、それは極めて良かった、と書かれています。そして神さまは、七日目に創造の仕事を離れ、安息なさいました。
その七日目を安息日として神さまは祝福し、聖別されました。
このように安息日は、極めて良い日、祝福された日、喜びの日です。
その日は労働をしなくても、神さまがちゃんと養ってくださり、その分を備えて下さる日です。
イエスさまはその安息日を取り戻したのです。
そしてキリスト教会は、その安息日を、イエスさまの復活された日曜日に移し、感謝と喜びをもって主を礼拝する日といたしました。
すべての重荷を主にゆだねて、思い煩いを主にゆだねて、主を礼拝する。
ここに主の祝福と癒しがあることを信じて礼拝しているのです。
この日曜日の礼拝そのものに、主の祝福があるのです。

今日の聖書の中で、際だっているのが、元盲人の人がファリサイ派の人々の尋問に対して答えている言葉があります。
ファリサイ派の人々が、どうして見えるようになったのかと尋ねた時、彼は答えました。
(15節)「あの方が、私の目にこねた土を塗りました。そして、私が洗うと、見えるようになったのです。」‥‥これは直訳するとこうなります。
「彼(イエス)が私の目の上に泥を塗った。そして私が洗った。そして私は見えた。」
何と単純なことでしょうか。
しかし何と力強い事実でしょうか。
そしてこの事実は、だれも覆すことができないのです。
この人は、さっきまで道ばたで物乞いをしていた人です。
この人について、「本人か、それとも両親の犯した罪によって、その天罰で生まれつき目が見えないのだ」と人々が言っていた人です。
さげすまれ、哀れまれ、最も軽んじられていたのです。無名の人です。
たぶん無学で、字も読めず、知っている単語すら少なかったと思われます。
ところが、今やこの人は、イエスは預言者だ、宣言するのです。
聖書は、この卑しめられ、不幸のどん底にあったような人に、神の光を当てているのです。
キリストの証人としてのスポットライトを当てているのです。
「彼が私の目の上に泥を塗った。そして私が洗った。そして私は見えた。」それゆえイエスさまは「預言者」である、神から来られた方であり、神の言葉を語り、神の業をなす人であると。
あの人こそ、神と人とを結ぶ人であると。
その人がどこに行ったかわからないが、私は間違いなく神に触れられ、肉体はいやされたのだ、

この人の言葉にはねたみも、偏見もありませんでした。
初めて見えたもの、穢れたものを見たことのない目で、その真実を見抜くことができたのです。

勉強を重ね、地位もあるファリサイ派の人々さえも、イエスが誰であるのか分からないでいる。
イエスは神から来られた方であると。
そうすると、本当は見えるべき者が見えないでいるのは、この人ではなくファリサイ派であり、見えているのはこの元盲人の人であるということになります。
主イエスは、私たちが本当に見えるべき事を見えるようにして下さる方です。
安息日の祝福を与えて下さる方です。
元盲人の人が、「彼(イエス)が私の目の上に泥を塗った。そして私が洗った。そして私は見えた」と単純に証ししているような、そういう御業を、私たちにも同じようにしてくださるのです。
そしてこれからもなさってくださるのです。

私たちも、見えているような気になって、大切なことが見えなくなってしまわないように気をつけたいと思います。
キリストにたち、み言葉に立って歩んでまいりましょう。

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