日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 主の声を聞く  2009/11/8 ヨハネ10:1-6

<<   作成日時 : 2009/11/08 11:56   >>

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今日から始まる10章、これは9章の盲人の癒しの出来事と共に非常に有名な箇所で、お好きな方の多い箇所だと思います。
特に、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉は、多くの人にとって心の支えとなっている言葉ではないかと思います。
しかし残念ながら、本日はこの箇所までは行きません。
来週以降のお楽しみです。

皆さんと一緒に、ヨハネ福音書を読み進めて来て気がついたことがあります。
それは10章は9章と全く別の話があると思っていましたが、実は9章の続きなのだということです。
内容が変わったので、私たちはここでいきなり羊飼いの譬話が始まったと思いがちです。
しかし、「はっきり言っておく(アーメンアーメンあなたがたに言う)」とイエス様が言っている相手は、9章に出てきたファリサイ派の人々です。
つまり、10章1節から18節は、9章の出来事をイエス様が総括している言葉だと言って良いと思います。

9章には生まれつきの盲人がイエス様に目を癒され、見えるようになったという出来事が記されていました。
しかし、その「見える」とは単に肉眼が見えることではなく、イエスという人間の中に神の姿、救い主としての神の姿が見える、ヨハネ福音書の言葉で言えば「人の子」の姿が見えることを意味していたとお話しました。
そして、それは別の言い方をすれば、救いを知らなかった人がイエス様と出会い、イエス様が誰であるかを知り、救いを得ることが出来ました。
その結果、彼はユダヤ人社会から追放されたのでした。
それは民としての権利が保障されないことを意味します。
教育は受けられない。選挙権はない。医療保険はない。年金はない。傷つけられても警察は取り合ってくれない。誰も雇ってくれない。誰も声をかけてくれない。
つまり、全くの孤独の中に飢え死にするほかにない。
先週はそのことを社会的死刑判決と申し上げました。
この癒された盲人は、そういう境遇に立たされたのです。

何故でしょうか。イエス様に目を癒されたからか?いいえ違います。
それだけなら、追放されるまでには至らなかったはずです。
彼が追放されたのは、「自分の目を癒してくださった方は神のもとから来られた方としか考えられない」と証言したからです。
そして、「自分が生まれながらに見えなかったのも事実だし、今見えるのも事実だ。この事実だけは、知っている。そのことを知らないなどとは言えない。」まさに命をかけて、こう証言したが故に、彼はユダヤ人社会から追放されたのです。
その時、再びイエス様が彼に出会って下さり、「主よ、信じます」と言ってイエス様を礼拝する者へと造り替えてくださった。
このことが9章の冒頭でイエス様がおっしゃった「神の業」だったのです。

さて、今日の箇所に「連れ出す」という言葉があります。
「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」
最初の「連れ出す」は、「中から外へと導き出す」という意味の言葉です。
16節に、一人の羊飼いが囲いの外にいる羊たちも導いて一つの群れになるとありますが、その「導く」に「外へ」を表す語がついている言葉です。
それに対して、「自分の羊をすべて連れ出す」の方は、ファリサイ派の人が癒された盲人を「外に追い出した」と同じ言葉でした。
ファリサイ派の人々に外に追い出された者を、イエス様は再び外に連れ出す。
一体、どこからどこへ連れ出すのでしょうか?
ここに再び二重三重の現実が、あるいは意味が隠されているのです。

もう一つ、連れ出すことに関連して重要なのは「声」です。
9章では「見る」ことが問題となっていましたが、10章では見ることではなく、「聞く」ことが問題となっています。
「外」とか「出す」という言葉は、その前提に「中」とか「入る」という事柄があります。
つまり、外と中を分ける「囲い」があり、出入りするための「門」があります。
盲人は、イエス様への信仰告白の故に、ユダヤ人社会の中から外へ追放されたのです。
ユダヤ人とは、本来神が選んだ民イスラエルなのですから、彼は神を信じる信
仰共同体の中から外へ追放されたということになるはずです。
それは神を信じない罪人として、です。
しかし、イエス様は、その人を外で見出す、そしてさらに外へ連れ出す。
これは、偽りの信仰共同体から追い出された者を真の信仰共同体へと連れ出す、あるいは中へと導き入れることを意味するのではないでしょうか。
ファリサイ派のユダヤ人は一人の罪人を追放したと思っているかもしれないけれど、実は、この人は真の羊飼いの声を聞き分けて、従ったのだ。
その結果、彼は自ら偽りの信仰共同体の外に出たのだし、その人を救いへと導くのは、新たな神の民の群れの中に招き入れるのは、私なのだ。
私が連れ出し、私が招き入れる。
そういうことをおっしゃっているのではないか。と思います。

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。」
来週読むことになっている7節以下でも「門」は出てきます。
そこでは、イエス様ご自身が「わたしは羊の門である」と言っています。
そして、「わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」とあります。
しかし、その後では「わたしはよい羊飼いである」とおっしゃる。
そうなると、イエス様は門なのか、羊飼いなのか、一体何なのか分からないということになります。
そこで色々な物を読んで勉強するとますます分からなくなるということも起こります。まさに「何のことか分からない」のです。
この辺のことは来週お話いたします。

さて、古代の町の多くは城壁に囲まれており、門がありました。
その町に至る道はいくつあっても、その町に入る門は一つしかない。
町に入るためには、その門を通らねばならない。
門とは、そういうものです。
唯一性があるのです。
羊飼いはよい羊飼いもいれば、悪い羊飼い、羊のことを気にかけない雇い人もいるのですが、ここに出てくる門に、良い門と悪い門があるわけではありません。門が持っている一つの意味は、そういうことだと思います。

しかし、一節から六節までの単元に出てくる門は、羊飼いが入ってきて、羊飼いに連れ出される羊たちも当然その門から出るわけです。
そして、一一節にあるように、羊飼いがイエス様だとすると、この門はイエス様ではないことになりますが、少なくとも一節に出てくる門は、イエス様だけが通ることが出来る門なのだと思う。
他の者は通れない。
だから、誰かが囲いの中の羊を連れ出したい時は、柵を乗り越えて中に入らざるを得ないのです。
そして、その囲いの中にいる羊とは、神の民イスラエルだと思います。
その民を救いへと導くのが羊飼い、牧者なのです。

旧約聖書で牧者は、しばしば王様のことを表します。
神様に選び立てられた王が羊飼いで、その民が羊なのです。
ですから、王の仕事は神様の御心に従って羊を養い、導くことです。
青草の原、憩いの水辺に導くことです。
しかし、現実には、イスラエルの王達は、しばしば羊を食い物にしたし、見捨てました。
そういう現実を見て怒った神様の言葉が、旧約聖書のエゼキエル書には出ています。そこで神様はこうおっしゃっています。

「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」
そして、さらにこうおっしゃる。
「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。」

ヨハネ福音書10章の主イエスの言葉の背景に、このエゼキエル書の言葉があることは明らかだと思います。
神の民を牧すべき人間が、牧者が正しく牧していない。
神を神として崇めるように導き養っていない。
神が与える糧で養っていない。
その現実に対して、神ご自身が羊の群れを養い、ついに真の牧者を立てて、その者を君主とし、彼を通して主なる神が崇められるようにする。
その時、羊の群れは真の食べ物と飲み物を得て救われるのです。

この羊飼いはただ一つの門を通って入ります。
門番は、羊の持ち主から誰が羊飼いであるかを知らされているので、その羊飼いが来たときに門を開ける。
しかし、そうでない者は無理矢理柵を乗り越えて入ってきて羊を食い物にするのです。

この福音書が書かれた当時の神の民の指導者、つまり牧者はファリサイ派でした。彼らこそ、神の民を導き養う牧者の務めを担うべきだったのです。
しかし、彼らは、神の名を語り、神の言葉を利用しつつ自分の栄光を求めるばかりでした。
自分たちも神に赦されねばならぬ罪人であるにも拘らず、神の言である律法を表面的な意味で守ることで、自分たちは義とされていると確信していたのです。
そして、その律法を守らない人、守れない人を罪人として裁いていました。
それは主イエスによれば、神の民を神に導くのではなく、自分たちの名誉のために利用する盗人であり、強盗以外の何者でもない。
そういう者たちが、今や囲いの中に何人もいる。
そして、その人々の声に惑わされ、聞き従う者たちもいる。

しかし、その中にも、神の許から来て門を通って入って来た真の羊飼いの声を聞き分けることが出来る者たちもいました。
たとえば9章で癒された盲人がそうです。
彼は、生まれながらの盲人で物乞いをしつつ生きるほかになく、律法など守りよ
うもないのですから、自他共に神に見捨てられた罪人と思う他にない人でした。しかし、その彼こそが、主イエスの声、その言葉に従って、シロアムの池で目を洗ったのです。
これが洗礼を意味することは既に語りました。
罪を自覚せざるを得ない人間だから罪の赦しを求めるのです。
そして、神の業とは、罪を赦し新しい人を新しく造り替えられました。
主を礼拝する者として救いに導き入れることに他なりません。
その業が、主イエスを通して現れた。それが9章の内容です。

この盲人は、まさに救いへと招き入れられたのです。
しかし、それは命がけのことでした。
それまで生きてきた命を失うことを意味していたからです。
しかし、彼は見えない時に聞いたイエス様の声、その言葉によって見えるようになったのだし、その声を忘れることはありませんでした。
そして、見えるようになった時、再び同じ声の持ち主であるイエス様から「あなたは人の子を信じるか」と問われ、「主よ、信じます」との告白にまで導かれた。つまり、新しい信仰共同体であるキリスト教会における礼拝を捧げる者となったのです。
そこに救いがあります。
何故なら、この時、彼は門を出入りして、まことの牧草を見つけることが出来るようになったからです。
人はパンだけで生きる者ではなく、主の口から出る一つ一つの言葉によって生きる者だからです。
その言葉は、この礼拝において語られるのです。

私たちの礼拝は、「招きの言葉」から始まります。
そして、司式者はその祈りの中で、しばしば、「今日も私たち一人一人の名を呼んでこの礼拝に集めてくださったことを感謝します」と祈ります。
私は今日もそのように祈りました。
これは事実でしょう。
私たちは一人一人、イエス様から名前を呼ばれているのです。
呼んで頂いているのです。
羊飼いであるイエス様にとって私たちは羊です。
今日も、それぞれ名前を呼ばれて、「さあ、おいで」と言われてここに集まってきたのでしょう。
この世の囲いから連れ出されて教会の門を入り、この礼拝堂の中に入って来た。そして、ここで牧草を見つけるのです。
ここで休み、ここで食べ、ここで力を与えられ、ここで道を示される。そうじゃないでしょうか?

しかし、この世には、様々な声が飛び交っています。
「こっちの水は甘いよ」「あっちの水は苦いよ」と滅びの道に誘い込もうとする声が満ち溢れている。
渋谷などは、そういうセールスの聖地のような所です。
そういう人の声に従ってついていき、怪しげな門から中に入ったらとんでもないことになるのです。
どう言い繕ったって、金さえあれば老後は幸せだ、健康であれば人生は幸せだ、そんな声はいくらでも聞くことが出来ます。

この福音書で「声」が出てくる所を皆さん覚えておられるでしょうか。
既に何回か出てきているのです。
その内の一つは、5章24節です。
そこでもイエス様は、今日のように、非常に大事なことを語るときに使う「はっきり言っておく」と仰ってから、こう言われています。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

イエス様の声を聞く。それが生死を分けるのです。
肉体の生死ではありません。
しかし、肉体の中に永遠の命が宿るか否かがイエス様の声を聞くか否かで分かれるのです。
そして、その命が墓の中に入ってから決定的な違いを生み出す。
死んだ者もイエス様の声を聞く。
私たちは、そのことを信じて墓前礼拝に行くのです。
しかし、その時、「善を行った者」は復活して命を受ける。
ここでいう「善」とはいわゆる道徳的な意味での善ではありません。
イエス様の声だけを聞いて、イエス様にだけついて行くということです。
この世からは追放されようと、死刑宣告されようと、罪人として断罪されようと、「私はこの羊飼いについて行きます。その声に従って行きます。この人が来いと言えば、どこからでも行きます。そこにだけ命があることを信じます」と言って、羊飼いに従うこと。
それが、ここでの「善」です。
社会的評価は何の関係もありません。
いわゆる善人が救われるのではない。
善人であれ、悪人であれ、病人であれ、異邦人であれ、イエス様の声を聞いて、信じて、その声に従う時、地上に生きている今既に永遠の命を与えられ、死から命へ移されているのです。
その命を養うのは、イエス様の声、イエス様の言葉、その肉、その血なのです。そのように生きるのがキリスト者です。
そして、そのキリスト者は、肉体の死の後、墓の中でもイエス様の声を聞くことが出来、復活させられるのです。

死の直前にも、そのイエス様の声を聞いて信じることが出来る。
人間の幸せとは、そこにあるのではないか。
富を持っていようと、健康であろうと、この声を知らず、この声を聞くことが出来ないとすれば、そして聞いても信じることが出来ないならば、私たちはただ死ぬだけだし、その後に希望はありません。

死の間際にイエス様の声を聞き、この方が、羊のために命を捨て、自分の命と引き換えに永遠の命、天国の命を与えてくださるお方であると信じて生き、そして死ぬことが出来た。
私は、ここに人間の幸いがあると思います。
私もそうやって生きたいし、死にたいです。いつでも主イエスの声を聞きたいです。
そして、いつまでも聞きたい。そして、従いたい。そして語りたい。そのように生かされたい。使命が終わるまで。


今日、それぞれイエス様に名を呼ばれてこの礼拝堂に集まったひとりでも多くの方が、聖書とその説き明かしをとおして、イエス様の声を聴き取り、イエス様について行くことが出来ますように。

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