日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 闇の力に打ち勝つ主 2009/11/29 ヨハネ10:31-42 

<<   作成日時 : 2009/11/29 11:56   >>

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ヨハネ福音書は、わかりやすいようであり、わかりにくいところが多い福音書です。
説教を準備しているといろいろと気付かされて、喜びに満たされることがあります。
学べば学ぶほど、ヨハネ福音書の深さ、凄さを味わうことができます。
しかし、その喜びを一方的に説教に取り込んでしまうのもよくない場合があります。

私が神学生のときに、現在出雲教会の牧師である永野先生より、学んで気付かされることばかりにとらわれてしまうと、薀蓄ばかり語る説教になってしまうので注意するように、といわれたことを思い出しました。


毎週、聖霊の導きの中でメッセージを示されて、それを語っているつもりなのですが、聴く方はヨハネ福音書が分からないのだとすれば、どうすれば良いのでしょうか?
この問題で、私は苦しみ続けています。
独りよがりの聖書解釈で、自分だけわかったつもりで語ってはいないだろうかという恐れです。

聖書は、結局、皆で心を合わせて祈りつつ読むしかないのだと開き直っています。
説教者も聴衆も、聖書の言葉を信じて読む。
読む、時に声を出して読む、ということはとても意義深いものだと思います。
目で読むだけでなく、自分の耳でも聞き、再び理解するのです。

信じなければ、悟ることは出来ないのですから。
しかし、信じるためには御言の説き明かしが必要であり、何よりも神の霊の導きが必要です。
ですから、今日も聖霊を求めつつご一緒に読んでいきたいと思います。

もうこれまでも何回か、ユダヤ教の中枢にいる人々が、イエス様が殺されそうになる場面がありました。
今日の箇所も、その直前にイエス様が「わたしと父とは一つである」とおっしゃったことに端を発し、主イエスを殺そうとした、という物騒な始まり方をしています。
これは人間の肉体をもって生きているイエス様が、霊において永遠に生きてい給う父なる神と一つであると言っているわけです。
ヨハネ福音書は、創造の神と一緒に言葉があったと始まりますから、このことは福音書の最初から私たちに示されていることです。

それはまさにユダヤ人が言う如く「あなたは、人間なのに、自分を神としている」ことになります。
彼らがこう言うのは当然のことです。
ユダヤ人は、絶対に人間を神格化したりはしないからです。

古代社会では絶対的権力者は何らかの意味で神格化されました。
王様は神の化身であったり、神の子であったり、神そのものであったのです。
自らそう宣言し、人々をそのように信じ込ませることでその権力を保持していたのです。
日本などは、つい最近まで「現人神」と神格化された絶対君主がいたわけですから、近代社会の中に古代の精神構造が色濃く残っていたと言うべきなのもかもしれません。
しかし、ユダヤ人は、如何なる意味でも一人の人間を神格化することはありませんでした。
王たちも当時の大帝国の王のような権力は持ち得ませんでしたし、神様の御心に背けば裁かれたのです。
神は神であって人間ではなく、人間は人間であって如何なる意味でも神ではない。それは彼らユダヤ人(イスラエルの民)にとっては些かも揺るぐことの無い確信だったのです。

しかし、今、彼らの目の前に、神が共に生きて働いていなければとてもなし得ないような業をする人間がおり、また人間では語り得ない不思議な言葉を語る人間がいる。
イエス様は何十年も病で寝たきりの男を立ち上がらせ、男だけで五千人という大群衆にパンを与え、生まれつき目の見えない人を見えるようにしてこられました。また、「わたしは世の光である」と言い、「わたしはあるという者だ」と言ってこられた。
こんなことは、正気の人間が言えることではありません。
だからこそ、既に読んできたようにユダヤ人の中には、「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている」と言う人々が多かったのです。
しかし、その一方で「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか」と言う人々もいました。
イエス様を前にして、彼らは困惑しているのです。
そこで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と言ったのです。
それに対して、イエス様は、そのことについてはこれまでずっと語ってきたし、わたしが父の名によって行ってきた業が、わたしが誰であるかを証している。
しかし、信じない者は信じない。信じる者は信じる。そして、わたしに従う。
わたしは彼らに永遠の命を与える。
誰も彼らを父の手から奪うことは出来ない、わたしと父とは一つだから、とお答になったのです。

ここで言われていることは、38節の「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」ということと同じです。
そこでもユダヤ人はイエス様を捕えようとしたとあります。
つまり、彼らにしてみると、イエス様の業と言葉、これはたしかに人間の業、人間の言葉とは思えないほどの力、権威を持っている。
それは認める。
その力が悪霊から来るのか、神から来るのかは分からないが、とにかく、理解し難い人間であることは確かだ。
しかし、だからと言って、この人間が神であることは断じて認められない。
人間は如何なる意味でも神ではあり得ないし、自己を神格化することはモーセの律法、十戒の最初の「私以外のものを神としてはならない」という戒めに背くことであり、神格化された人間を神として礼拝することも等しく背くことであると考えているからです。
そして、これは正しい信仰なのです。

しかし、イエス様はここで父とは別に私が神であるとおっしゃっているわけではなく、父と私は一つだとおっしゃっているのだし、父がイエス様の内におり、イエス様は父の内にいるとおっしゃっているのです。
また後に弟子たちに向かって、「わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことが出来ない」とおっしゃった後、フィリポという弟子が、「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と頼む場面があります。
その時、主イエスはこうおっしゃるのです。

「私を見た者は、父を見たのである。・・・わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」

実は、ヨハネ福音書はこの事実を書くためにこそ書かれたと言って良いのだと、私は最近思い始めました。
神学の言葉で言うと、父・子・聖霊なる三つの神はしかし一体であり、神の独り子であるキリストは真に神であると同時に真の人である(キリストの両性)というキリスト教信仰の根幹的な事柄を、ヨハネ福音書は真正面から、しかし、極めて象徴的、暗示的に書いている、いや証言しているのだ。そう思うのです。

しかし、そのことを当時のユダヤ人が理解出来ないこともまた当然です。
しかし、理解は信じることによって得ることが出来るのであって、理解したから信じるのではありません。
これは当時に限らず、いつの世でも同じことです。
イエス様は、結局、多くのユダヤ人たちには理解されませんでした。
闇は光を理解しないのです。
彼らはまたもやイエス様を捕えようとしました。
しかし、イエス様を捕えることは出来ず、イエス様は恐らく平然と彼らの目の前を通り過ぎていかれたのでしょう。
そして、イエス様の先駆者である洗礼者(バプテスマの)ヨハネが洗礼を授けていた場所、イエス様自身もヨハネから洗礼を受けた場所に戻られたのです。
ここはイエス様にとって原点のような場所です。

バプテスマのヨハネは、イエス様について、こう証しをした唯一の人物です。

「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

この箇所にも「神の子」と出てきます。
イエス様も今日の箇所で「『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして、『神を冒涜している』と言うのか」とおっしゃっていますが、ヨハネはここではっきりと「この方こそ神の子である」と信仰の証をしています。
そして、その上で、こう言っているのです。
「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」
イエス様の原点はここにあるといえます。

独り子が、二千年前に「肉となって」人の世に宿られました。
それは、ある一時期、人となって人の世界に宿り、そして、神を示されたのです。人の世界に繰り返し現れては消える神格化された人間とは決定的に違う存在です。
ユダヤ社会で確固たる地位を持っていたとしても彼らは所詮人間です。
権力を持つにしたがって自らを、また他者から神格化された人間に過ぎません。そして、ある時に、「我こそは神の化身なるぞ」とか「神の子救い主である」とか「現人神である」とか言ったり言われたりしているだけで、死んでしまえば終わりです。
しかし、このナザレのイエス、ヨセフの息子イエスと呼ばれた方は、人が神になったわけではありません。
神が人となったのです。そして、神を示してくださったのです。その根本が全く違うのです。

今日の箇所で問題になっているのは、イエス様が神なのかまた神の子なのかという問題です。
これまで言ってきた通りイエス様は神の子であるが故に神なのです。
そして、その方が父なる神から聖なる者とされて遣わされ、父の業を行っている。神様の業を行っている。
そのことを信じることが出来る時、イエス様が神の子として神であること、イエス様の内に父がおり、父の内にイエス様がいることを知り、また悟ることが出来る。
そして、その者は永遠の命を生きる。
それがイエス様のメッセージです。
ヨハネ福音書においては、ユダヤ人に対するメッセージはこれが最後となります。
繰り返しユダヤ人に語られたメッセージは、その多くが理解されることなくむなしいものとされました。
しかし、世の闇の中に生きる人間、そこに留まろうとする人間は、その言、命の光を理解しない。
闇の世にある楽しみ、安楽と不安の中に留まり続けようとするからです。
以後は、基本的にはイエス様を信じ、イエス様に従う者たちに対する言葉が記されていくことになります。

けれども、何故か同じ世にあっても、主の言葉を信じる者が誕生します。
その人は、初めからあった言としてのイエス様の栄光を見ることが出来、そのことの故に、イエス様の内に生きる者とされ、そうであるが故に、神の内に生きる者とされるのです。
闇の中に、輝く光として、神様と一つである救い主がおいでになる。
そのことによって、神がその人の内に生きる。
それが永遠の命であり、その命を生きている者は、肉体の死の後に新しい体を与えられるのです。
そこに神の恵みと真理があるのです。

ヨハネ福音書は、このように冒頭で結論を語りました。
以後、この一章で書かれていることが、どのようにして実現していったか、イエス様はどのように神を示し、多くの人々はどのように理解しなかったか、しかし信じる者は何を信じ、何を知っていったのかを書いてあります。

クリスマスの備えをするアドベントに入りました。
教会の暦では新しい年を迎えました。
光を信じるもの、ことばを信じるものとして、喜びのうちに主の語降誕を喜び祝いましょう。

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