日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 盲人は何を得たか 2009/11/1 ヨハネ9:35-41

<<   作成日時 : 2009/11/01 12:08   >>

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このヨハネ九章は八章から一連の流れだと以前お話いたしました。
9月の最初に8章を学び始めて、11月に入って9章を終えます。
いわゆる安息日論争といわれる箇所ですが、長かったようであり、興味深く意義深い箇所だったなぁと思い起こされます。

本日は、9章の最後、生まれつきの盲人が主イエスによって癒され、その後どうなったか、ということが記されている箇所です。
すこしおさらいをしながら見ていきたいと思います。
11月の予定表ではアドベント第一週は続けてヨハネからとしましたが、その後をどうするのかは祈りつつ考えたいと思っています。

ヨハネ福音書は、たえず、言葉の表面的な意味とその裏の意味を考えなければその真相は分かりません。
ほとんどの場合、過去において起こっていることを書いているようでありつつ、実は聖書記者ヨハネがこの福音書が書かれた時点の現在が書かれています。
そしてさらにこの福音書を読んでいる今現在の私たちにも当てはまります。
そして、その言葉は様々な意味で象徴的なものです。
たとえば、「身を隠して」という言葉も、実は七章の初めからの連関があって出てきている言葉です。
それは一見すれば、ユダヤ人に殺されないように、物陰や人陰にコソコソ隠れて逃げ去ったというように読める表現です。
本質的には、人々の目にはイエス様の姿は見えなくなったということを語っているのだと、私は思います。

ですから、この「生まれつきの盲人」は、一般的な盲人をさしているのと同時に、イエス様の本質が見えない人間の代表だといえます。
罪とは、いわば神の姿が見えない状態のことだからです。

神様の前に立たない人間。アダムのように葉っぱの陰に隠れている人間。
闇の中に生きている人間。
耳が聞こえないとか、倒れていて立てないとか、そういう表現もありますが、それらはすべて罪の中にいる人間のことです。

ですから、この九章は、そういう意味で目が見えない者が見えるようになっていく奇跡を書いているのです。
肉眼が見えない者が主イエスによって見えるようにされたという出来事を書きつつ、その癒された盲人が、イエス様の姿を見て、その本質を見て、「主よ、信じます」と言って、跪いて礼拝をする者にされなければ、それはここで書きたい奇跡、つまり、神の業ではないのです。
見えなかった肉眼が見えるようになった。
それがこの人に現れた神の業なのではなく、一人の人間がイエス様のことを人の子、主であると信じることが出来るようになった。
それが、ここで起こった現実、事の真相なのです。
そして、聖書に記されている福音が分かるとは、その現実、事の真相が自分にも起こるか否か。
すべては、そこに掛かっています。
起こらないのであれば、それはただ過去の不思議な出来事を聞いただけの事です。

今日の箇所で一つの問題は、「追い出す」という言葉です。
先週の最後にも、「彼らは、『お前はまったく罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した」と出てきます。
これは「中から外に投げ出す」という意味です。
そして、この言葉は二二節の「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」とあるように、ユダヤ人の生活の中心である「会堂からの追放」を意味します。
これは社会的な死刑宣告に等しい裁きだと先週お話しました。
直接的には書かれていませんが生まれつきの盲人は、裁かれたのです。
彼が、自分の目を開いてくださったお方は、神に立てられた「預言者だと思う」と言い、さらに「生まれつき目が見えなかったものの目を開けた人がいるということなど、これまでも一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです」と証言した。その証言によって、彼はファリサイ派の人々によって裁かれたのです。
既に八章の終わりで、イエス様が石打の刑に処せられそうになったことに繋がる現実がここにあります。

この福音書の一章に既に「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と書いています。
天地が造られる前に既に存在していた言、命そのものであり、人を照らす光そのものであった言が、肉となって、つまり人間となってこの世に来られたのですが、その方を受け入れる人は、ごく少数だというのです。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。問題は、信仰です。
信仰によって見えるようになることです。
そして、それは古き命、古き秩序、この世の命、この世の秩序から追い出され、死ぬことを意味するのです。
それは自ら出ることでもあり、そのことによって神の子として新しく生まれ変わることなのです。
そこに九章の冒頭でイエス様が言われた、「神の業が現れる」という言葉の実現があるのです。

先週の箇所の最後で、目が見えるようになった盲人が、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と告白した後に「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています」と、一人称単数形が複数形に変わっていることに気づきました。
そして、ここにはこの福音書が書かれた当時の教会の姿があります。
つまり、教会とは、それぞれの仕方でイエス様に出会った人々の共同体なのです。それぞれの仕方で見えない目を見えるようにしていただいた。
水で洗ってもらった、洗礼を授けられた者たちの共同体なのです。
そのすべての人々が「わたしたち」として主イエスへの信仰を告白している。
その告白、証言によってユダヤ人社会から追放されようとも、そしてそのことによってローマ帝国から迫害されようとも、自分において起こった出来事から目を背けない。
逃げない。その出来事を起こしてくださった方への感謝と賛美と信仰を証しする。そういう教会の姿が、この目を開かれた盲人の言葉の背景にはあるのです。

それは今日の箇所でも明白なことだと思います。
彼がファリサイ派の人々に裁かれて、追放されたことを聞くと、主イエスは、すぐに彼に出会ってくださいました。
ここで「出会う」と訳されている言葉は、一章で主イエスがペトロとかアンデレという弟子たちと初めて出会った時に使われている言葉です。
そして、主イエスは出会った彼を信仰へと招く、信仰共同体である教会へと招くのです。

「あなたは、人の子を信じるか。」
原文でも「あなたは」という言葉が強調されています。
他の誰でもない、「あなたは、人の子を信じるか」。
大勢の中に隠れてしまう形ではなく、真正面に立っている主イエスから一人の人間として、こう問われる。
こういう所から、この箇所には当時の教会の洗礼式が背景にあると推測する学者もいますが、洗礼式でなくても、毎週の礼拝で、私たちは、一人一人、「あなたは、人の子を信じるか」と、主イエスご自身から問いかけられているのです。

「人の子」とは人に永遠の命を与えることがお出来になる方であり、それは神なのです。
「わたしはある」とは、そのことを表す言葉だからです。
しかし、その「人の子」は「上げられる」。
荒れ野でモーセが上げた青銅の蛇のように。
それは、その蛇を見上げた人間の罪が赦されたという旧約聖書の出来事が背景になっている言葉です。
つまり、主イエスは私たち人間の罪が赦されるために十字架に上げられる、また復活して天に上げられる、そしてその方が今、霊において私たちの目の前に生きておられる。
そのことを信じる時、信じることが出来る時、分かる時、人は永遠の命を得る。天に繋がる命を与えられる。
その命を与えることが出来る唯一のお方、それは人の子としての主イエス・キリストです。

物語の表面だけ読めば、主イエスは街中の路上で彼と出会って立ち話をしているのです。
でも、その背景には教会の礼拝があるのです。
そして、それは私たちが毎週守っている礼拝も同じです。
私たちは、ここで神様と対話しています。
神様の招きの言葉を聞き、それに応える形で讃美を捧げることから礼拝は始まります。
そして、説教もまた神様からの問いかけを直接聴き取ることと、その応答を通して出来上がっていくものだといえます。
その説教を聴く皆さんも、今、様々なことを問われ、あるいは裁かれ、自己弁明をしたり、悔い改めたり、怒ったり、悲しんだり、黙ってはいても、心の中で様々なことを応答しているはずです。
そして、その過程の中で、自分に問いかけているのは、目の前に立って語っている牧師でも何でもなく、実はイエス様ご自身なのだと気付く人は、分かる人は、そこに主イエスの姿が見える人は、「主よ、信じます」と応答することが出来るでしょう。
そして、それが礼拝です。

ここで「跪く」と訳されたプロセクネオーという言葉は、驚くことに他の箇所ではしばしば「礼拝する」と訳される言葉なのです。
彼は、この時、目が見えるようしていただくことの目標にまで導かれたのです。当然の神から計らいによって、神の子として生まれ変わったからです。
信仰によって、人の子から永遠の命を与えられたからです。
肉眼が見えるようになることと、この救いは直線的な結びつきはありません。
それは、以後の対話を見れば分かることです。

主イエスは、こうおっしゃいました。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
すると、その場で、イエス様と「一緒に居合わせたファリサイ派の人々」がこう噛み付いたのです。
「我々も見えないということか。」

この「裁き」という言葉、決定的に重要な言葉であることはお分かりだと思います。
私たちが最も嫌うことは、裁きの座に被告人として立たされることです。
その私たちが大好きなのは、人を裁くことです。
日常的に人を見下し、陰口を言いながら人を裁いています。
大好きなんです、裁くことは。しかし、裁かれることは大嫌い。
何故、大嫌いなのか。
それは、自分は裁かれるべき人間だと思っていないからです。
裁くことが出来る人間だと思っているからです。今日の箇所に登場するファリサイ派の人々は、その一つの典型です。

彼らは、元々は神様の裁きを非常に恐れて真面目に、真剣に信仰に生きようとした人々です。
神の言である律法を生活の細部に至るまで徹底的に守ることを通して、神によって義とされること、救われることを何よりも求めた人たちなのです。
「ファリサイ」という言葉自体が、分離を意味します。
汚れた事柄から自らを分離する。
汚れた人々から自らを分離する。
そうやって自ら聖なる者になるべく努力をした人たちです。
その真面目さ、真剣さは、尊敬に値すると言うべきでしょう。

しかし、彼らはその真面目さ真剣さの故にと言うべき面がありますが、次第に人を裁くようになりました。
裁くとは、基本的に分けることです。
義人と罪人を分ける。
分離することです。
「あなたは救われる義人、あなたは救われない罪人。」そうやって人を分けていく。
そして、自分たちは、その真面目さ真剣さの故に、救われる義人であると自覚しているのです。

これは、何も彼らに限ったことではありません。
私たちキリスト者がしばしば偽善者だと批判され、しばしばその批判が当たっていることは事実だと思います。
私たちは自分のことは見えると思っている。
見えないとは思っていない。
そして、神を信じていると思っているのはよいのですが、いつしか自分が神の位に立っていることに気がつかない。
だから見えるようにして欲しいとは思っていないのです。
自分では見えているつもりだからです。

生まれつきの盲人がイエス様と「一緒に」話していたように、その場にはファリサイ派の人々もおり、目の前のイエス様と「一緒に」いるのです。
原文のギリシャ語では「一緒」を表すメタという言葉が、両者につけられています。
盲人は生まれながらに見えなかったことを自覚しており、今、イエス様によって見えるようにされたことを自覚しています。
しかし、ファリサイ派の人々が「我々も見えないということか」とイエス様を問い詰めるとき、彼らは、自分たちは見えていると思っていることは確実です。
そして、面白いことに、この「我々も見えないということか」は、直訳すれば「我々は盲人なのか」です。
九章の最初に出ていた言葉が、ここに出てくる。
生まれつきの盲人、つまり、生まれつきの罪人の象徴としてきた人間が、ここに出てくるのです。

主イエスはおっしゃいます。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

もう少し厳密に言うと、「見えないと自覚できるのであれば見えるようになりたいと願うだろうが、見えると思っているあなたがたは罪を自覚していないが故に、その罪がそのまま残ってしまう。」そういうことだろうと思います。

つまり、主は霊的に盲目であっても、真理を受け入れる人は罪人ではない。
しかし、モーセの律法に基づく真理は理解していると主張するが、主イエスを信じない人は罪人だ、とおっしゃったのです。

一緒に主イエスの言葉を聞いていた人々がこの言葉によって分離されていくのです。
一方は見えなかったのに見えるようになった人、他方は見えると思いつつ見えていない人です。
そして、それは主イエスに信仰を告白する人と、告白しない人との分離と言ってもよいのです。
共に物理的にはイエス様と一緒にいるのだし、この場合は、両者共に肉眼ではイエス様を見ているし、その言葉も聞いている。
しかし、イエス様の隠れた本性を見える人と見えない人とが分離していく。
その言葉に導かれて信仰を与えられる人とそうでない人とが分かれていくのです。

私たちは、これから聖餐に与ります。
この場合の「私たち」とは、イエス様を人の子と信じる告白をして洗礼を受けた私たちキリスト者という意味です。
まだ信仰告白を伴う洗礼を受けておられない方たちは、その場にいつつ、聖餐に与かりません。
そこには明らかな分離があります。
それを「差別だ、主イエスは差別には反対したはずだ」と喚く人たちが他の教会の牧師や信徒の中にけっこういます。
主イエスへの信仰を持っていない人にとって、これから配るパンと葡萄液はただのパンと葡萄液です。
腹の足しにするには小さすぎるパンであり、咽喉の渇きを潤すには少なすぎる葡萄液です。
ただ、それだけのものです。
しかし、私たちキリスト者にとって、そのパンと葡萄液(ぶどう酒)は、人の子の命そのものなのです。
人の子である主イエスが、私たちの罪を赦し、私たちに永遠の命を与えるために備えてくださったものなのです。
そのことを信じる者にとってだけ意味があるものなのです。

宗教改革者のルターやカルヴァンは、聖餐のことを「見える説教」と言いました。説教は、神の言であるが故に私たちの命にとって無くてならぬものです。
私たちは説教を聴くことを通して神の語りかけを聴き、その対話の中に生かされるからです。
そして、この聖餐は、見ることを通して、そして手で触り、食べたり飲んだりすることを通して、今に生きるイエス・キリストとの交わりの中に私たちを生かすものです。
そのイエス・キリストを見ることが出来ない時、パンはただのパンであり、葡萄液はただの葡萄液です。
同じ礼拝堂にいても、同じように聖書を読み、説教を聴いても、そのことを通して、今ここに臨在されるイエス様に向かって「主よ信じます。私の罪を赦してください」という告白に導かれる者と、導かれない者との分離が起こるのです。
これは昔も今も変わることのない現実なのです。

今、主にある一致を感じつつ聖餐に預かりましょう。

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