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zoom RSS イエスの与える自由

<<   作成日時 : 2009/09/27 15:56   >>

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アメリカは自由と平等の国だといわれています。
では、彼らが命がけで守ろうとした「自由」とはなんだったのでしょうか。
それは、ひとことで言うなら、「罪からの自由」だろうと思います。
主イエスが、「「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ8:34)と言われたように、罪は私たちを奴隷にするのです。
アルコールやギャンブルにふけることだけが罪ではありませんが、罪の奴隷ということは、アルコールやギャンブルなどの依存症を考えると一番わかりやすいと思います。
全米で、一千万人がアルコール依存症、一千二百万人がギャンブルのとりこになっていると言われます。
日本でも少し前にニュースになった薬物の依存というのがあります。

アルコール依存症にかぎらず、どの依存症も、その心の奥底にあるものに解決を与えないかぎり、決してそこから回復することはできません。
酒やギャンブル、薬物は、一時的な快楽と逃避を与えることはあっても、現実を変えることも、心の傷をいやすことも、心を満たすことも、慰めを与えることもないのです。

さて、本日の聖書の個所で、再びイエスさまと、聞いている人々との間に対立が生じています。
何が対立しているかと言うと、ここにいる人々が「誰の子か」ということを巡って対立しているのです。
聞いていたユダヤ人たちは、自分たちは「アブラハムの子」であり、「神の子」であると主張しています。
それに対してイエスさまは、あなたがたは「悪魔の子」であるというようなことを言っておられるのです。
「神の子」と「悪魔の子」では、全く正反対です。
そしてしかも、この対話が、私たちと大いに関係あることとして語られています。

まず「彼ら」がイエスさまに反発して言います。
「彼ら」というのは、31節にありますが、どうやら一度はイエスさまを信じた人々のようなのです。
その彼らが、「わたしたちの父はアブラハムです」(39節)と言っています。
すなわち、「私たちはアブラハムの子だ」と言っているのです。
また、46節では、「私たちにはただ一人の父がいます。それは神です」と言っています。
つまり、自分たちは、アブラハムの子であり神の子である、と言っていることになります。
ユダヤ人というのは、自分の系図を大切にする民族として有名です。
なぜそんなに系図を大切にするかと言えば、自分たちはアブラハムの子孫であるということを誇りにしているからです。
自分たちは、旧約聖書のアブラハムの子孫であり、神から選ばれた民であると。
それに対してイエスさまは、44節で「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって」とおっしゃっています。
すなわち、悪魔の子、と言っておられるわけです。
もちろん、ここで「アブラハムの子」とか「悪魔の子」というのは、実際にアブラハムの血筋を引いている子孫である、とか、実際に悪魔を親として生まれた、ということを言っているのではありません。
41節で主イエスさまが述べられているように、「あなたたちは、自分の父と同じ業をしている」ということです。
ここで「業」と訳されている言葉は、「行い」ということです。
、「あなたたちは、悪魔と同じ行いをしている。だから悪魔を父としているのであり、悪魔の子であると言える」ということです。
先祖がアブラハムであるとかないとか、そういうことは問題ではありません。
あなたがたの業が、すなわちその行いが、悪魔と同じことを行っているから、悪魔が父であるとおっしゃっているのです。

現代では、多くの社会で言論の自由や経済の自由などが認められています。
それは、どれも大切なものです。
しかし、それは、人間の外側の活動を解放することはできても、私たちの内面を自由にすることはできません。
人間に必要な自由は、なによりも、内面の自由、たましいの自由、罪からの自由なのです。
では、この自由はどのようにして得られるのでしょうか。
主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31〜32)と言われました。
ここで言う真理は、決して一般的な真理ではありません。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら」とあるように、それは、主イエスの教えのこと、神のことばのこと、聖書の真理を指しています。
主イエスは、私たちの罪を赦し、私たちを罪からきよめて、私たちに罪からの自由を与えてくださいます。
しかし、それは、自動的に、知らない間に与えられるものではなく、私たちが、真理に向かい合うことによって与えられるのです。
私たちが知らなければならない真理とは何でしょうか。
それは第一に、私たちが罪の奴隷であるという事実です。
自分が罪に縛られていて、そこから解放される必要があるという真理を受け入れない限り、人は自由になることはできません。

病気の人が「自分は健康だ。」と言っている間は、決して良くならないのと同じです。
自分の病気を認めることから、治療がはじまるように、自分が罪に縛られていることを認めることから、罪からの救いと解放がはじまるのです。
しかし、自分の現実の姿を認めることは、容易なことではありません。
特に、「自分は真面目に生きている」と思っている人にとっては、いっそう、そうだと思います。
しかし、聖書のことばに照らして、私たちの心と生活を正直に調べてみますと、どんな面においても、決して罪の奴隷などではないと言うことのできる人は誰もいないのではないでしょうか。
たとえ、それを自覚してはいなくても、どこかに、自由を失っている面があるものです。
主イエスは、そのことを素直に認め、はっきりと言い表すことを私たちに求めておられます。

日本語はあいまいだと良く言われます。
たとえば、誰かが誤って茶碗を割ってしまった場合でも、「わたしが茶碗を割りました。」とは言いません。
「茶碗が割れました。」と言います。
現代なら「割れちゃったわ〜」で済ましてしまでしょう。
日常では、それでいいのかもしれませんが、神の前に出る時はそうであってはなりません。
「私は、この罪を犯しました。」と、自分が一体どんな心の状態で、何をしたのかを言い表さなければなりません。
聖書には、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩51:4)という告白があります。
「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷である。」という真理の次に、受け入れるべき真理は、「キリストが私たちの罪を赦し、私たちをそこから救い出してくださる。」という「真理」です。
私は「真理はあなたがたを自由にします」ということばをはじめて聞いた時、「真理」と「自由」とが結びつかなかったことを覚えています。
私は「真理」という言葉を聖書に見たとき、決して揺るぐことのない、妥協のない、鋭い刃のようであり、閻魔大王のような印象を受けました。
しかし、「真理」とは何だろうかと考えていくうえで、イエスが「真理」であることに気づかされました。
イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言っておられます。

しかし、イエスは決して冷たいお方でも、私たちを天の上から睨みつけるお方でもありませんでした。
私たちが罪の奴隷となっていることを、心からあわれみ、私たちを、そこから解放するために命を投げ出してくださったお方です。
「自由」は真理である主イエス・キリストから来るのです。

しかし、イエスさまを信じて弟子となったのに、イエスさまのお言葉を聞けば聞くほど反発していくことがあるのです。
励ましの言葉、耳に聞きやすい言葉は受け入れても、戒めの言葉、厳しい言葉は耳をふさぎたくなってしまう。
そんな時は、自分が「罪の奴隷」(34節)であり、「悪魔を父としている」のであり、「その父の欲望を満たしたいと思っている」のであると、イエスさまがおっしゃったことを認めないのです。
自分がそういうものであると認めない、あるいは認めたくない。
それでイエスさまが真理を語られると、ますます反発して、やがてイエスさまを排斥するようになるということです。
人間、本当のことを言われると、反発するものです。
正しいことを指摘されると、最近の言葉で言うと逆切れするということです。
例えば、「あなたは本当に頭が悪いんですね」などと言われたとしたら、自分でもあまり頭が良くないと思っていても、間違いなく反発し、喧嘩になるでしょう。イエスさまは本当のことを言っておられるのです。

「真理」を言っておられるのです。
彼らは本当のことを言われて反発したのです。
それではなぜ彼らは、一度はイエスさまを信じたのだろうか、と不思議に思われるでしょう。
それは奇跡を見たからであり、自分たちにプラスになることをイエスさまが与えてくれると思ったからです。
しかし彼らがイエスさまに求めていたものは、あくまでもこの世の利益であり、欲望が満たされることであったのです。
言わば、自分たちにとって都合の良いと見えることだけをイエスさまに期待したのです。

主イエスに出会うことによって、私たちは自分の罪をはっきりと見ます。
光によって自らの罪がさらけ出されたからです。
罪を罪として認め、イエス・キリストの救いを求める時、私たちは罪から解放されます。
罪を捨て、救いを選び取ることによって、「自由」になるのです。
罪からの自由は、自動的に与えられるものでも、知らない間に自分のものになっているというものでもありません。
キリストが私たちを自由にしてくださるのですが、その自由を自分のものにするためには、私たちの側でも、信仰の選択が必要なのです。
主イエスという道を選ぶことができるということ、それがまさに自由です。
信仰の選択をすることによって、さらに大きな自由が、信じる者に与えられるのです。

日本国憲法の保障する「信仰の自由」ということは、自分の信じていることが、他の人によって脅かされないという意味です。
聖書から見るなら、それは、まずは、「信仰によって与えられる自由」でなければなりません。
アメリカは「信仰の自由」を求めてやってきた人々によってはじめられた国です。それらの人々は同時に、「信仰による自由」を知っている人たちでした。
そのことは初代大統領ジョージ・ワシントンの祈りによっても、知ることができます。ジョージ・ワシントンはこう祈っています。
「永遠にして、変わらぬ神よ、私の思いと言葉と行いを導いてください。私の罪をなんの汚れもない子羊であるイエス・キリストの血によって洗いきよめてください。聖霊によって私のこころをきよめてください。日ごとに、わたしを御子イエス・キリストに似たものとしてつくりかえてください。そうすれば、私は、あなたへの恐れのうちに生き、あなたの恵みのうちに死ぬことができ、私は、あなたが定められた時に、義とされた者たちの永遠の命にいたる復活を得ることができるでしょう。主よ、地上のすべての人々を祝福してください。そして、世界に御子イエス・キリストを知る知識を満たしてください。」
現在のアメリカはどこへ向かってしまったのだろうかという思いもあります。
ここに、私たちが守るべき「ほんとうの自由」、つまり「罪からの自由」、「信仰による自由」をしっかりと確認し、この自由を祝って過ごす私たちでありたく思います。

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

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