日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 神と人の一致 2009/9/20 ヨハネ8:21-30

<<   作成日時 : 2009/09/26 07:11   >>

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“信仰を持って生きる人生は大変素晴らしいですね。どんな宗教でも信仰を持つことは良いことだと思います。結局どの宗教も帰する所は同じですから”、
なんていうことをいわれることがあります。
若干言い回しは違いますが、同じような意味で“どの宗教でもたどり着く所は同じですから”などと言われると、どう説得してやろうかと思うのですが、私の未熟さゆえに納得してくれたことがありません。

以前、石田先生が「キリスト教は宗教じゃないから、」とおっしゃいました。
私はそのことが、ずーっと引っかかっていました。

実は、この“どの宗教も同じ”というのは、日本人が共通して持っている感覚なのではないかと思います。
一つひとつが独自のものであるというその主体性よりも、同じだという発想、これは思想的に言っても日本人特有のものだろうと思います。
神と自分との関係というよりは、横とのつながりばかり意識するのではないでしょうか。

“日本人はみんな同じような発想をするのであり、同じものでなければならない、ゆえに宗教も同じ”、というような発想です。
神仏混淆、“神道も仏教も要するに富士山の天辺に登るのと同じようで、御殿場口、吉田口があるようなものでコースが違うだけだ”という、こういう考え方が、何となしに説得力が有るような気がいたします。
実は私もしばらくそんなふうに考えていました。

キリスト教は他の宗教とどこが違っているのかと言われると、一口で言えば外来の宗教だということでしょう。
しかし、外来というのなら、仏教も外来のものです。
外来のものは、自分たちのものでないとすれば、民間宗教と言うか、土着宗教以外はありえないと言うことになってしまいます。

人間というものは、本質的に自分自身の考え方を批判されることを好まないものであります。
そういう謙虚さというものをなかなか持てません。
ましてこのキリスト教信仰というものは、自分が前から持っている偏見であるとか、あるいは信念というものが、正しかったか正しくなかったかということに切り込んできます。
と、つい、“そういうことはどうでもよい”というようになってしまいます。
これが、日本におけるキリスト教宣教の入り口にある問題点だろうと思います。

ヨハネ福音書は、徐々に福音が明らかにされていく、そんな流れが感じられます。
本当はすぐにでも核心に触れたいんだけれど、順を追って、説明していく。
そんな感じがいたします。

こういう様々な無理解の人たちとの関わりを否定するわけにいかない、そういう人たちと関わりを持たざるをえません。
しかしその関わりの中で、イエス・キリストの本当にこの世に来られた意味を明らかにしていくというのが、我々キリストに属する者の本来の使命ではなかろうかという気がいたします。

今日のテキストでありますが、今日の所に、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。」とあります。
多分この場所は、その前の20節で「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。」とあります。
この続きとするならば、エルサレムの神殿において、熱心な礼拝者でイエスの言葉に耳を傾ける人たちに語られたものだろうということになります。

ヨハネの福音書の特徴のひとつ、わかりやすいところと非常にわかりにくいところが混在しているということです。


これは、「わたしは去って行く」ということは、ここから居なくなるとか、地上から消えて無くなるということではありません。
22節に群衆の中にはそれを誤解した人の言葉が記されています。
それは「自殺でもしようとするつもりか」(22節)、とこう思いこんだのです。
イエスは決してそういうつもりではありませんでした。
つまり、この言葉を聞いた人の多くはこの言葉の意味がわからなかったわけです。
「わたしは去って行く」、一体イエスが去って行くというのはどういうことなんだろうか。
居なくなるということだけではないわけです。

このことについて、ヨハネ福音書は、“去る”という言葉がかなり頻繁に用いられていることに注目しなければならないと思います。
例えば、16章5節からです、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。」、逆に尋ねる者はないというのです。
「むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」。
これは、弟子たちに語られた言葉だからそういう状況になったのでありますが、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(7節)。

ここで主イエスがおっしゃるところの“去る”というのは、これは“十字架にお架かりになって、そして、神様のもとにお出でになる”ということです。
神の許にお帰りになるということです。

先週も学びましたが、行くとか、来る、というキーワードがヨハネ福音書にはあるのです。

行ってしまったら、“もう何も無いのか”ということになりますが、決してそうではありません。
“そのために弁護者をあなた方のところに送る”、という希望があります。
ここはキリストと聖霊との関係が述べられている所として注目される個所です。
口語訳聖書では「助け主」と訳されていました。
このほうがわかりやすいような気がします。

もう一箇所でありますが、その前の14章28節です、27節から読みましょう。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
これは祝福を弟子たちに与えてくださっています。
人間が持っている様々な不安とか慮りとか、そういうものを取り去る祝福をお与えになる。
そして言われるには、28節
『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
とこう言っております。
ここで、”わたしは去っていく”ということは、”十字架に架かられて、そして蘇られて天に帰る”ということで、これは“救いの完成として大きな喜びなのだ”ということを意味しています。

あとからみれば、これだけの内容と広がりを持った意味があるのですけれども、この一般の人たちは、“わたしは去っていく”と聞いたら、
どこか遠くに行ってしまうとか、もう宣教をやめてしまうとか、あるいは自殺してしまうのではないか、という意味としてとってもしかたないかもしれません。

“これは意外である”と、イエスは自分の運動がもう行き詰って、そして自殺でもしようと考えているのかな、と真意を測りかねているわけですね。

そして、そういう群衆にイエスは「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」(23節)と、さらに畳み掛けるようにおっしゃいました。
今度は、“去る”ということから一歩進めまして、“上から”とか“下から”とかいう言い方になって行くわけです。
さらに群衆たちは戸惑ったに違いありません。
主イエスはここで、上とか下とかというのは、もちろんこれは食べ物を指しているのでもなければ、また、場所を指しているのでもないわけであります。

上というのは、イエスがそこから来られた神様の許を指しているわけです。
ヨハネ福音書の非常に大事な主張の一つは、“キリストは創造の神とご一緒におられた方である”

パウロもピリピ書(2:6-8)、“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”というものであります。
ヨハネは別の表現で主イエスを上から来られた者だと見ているわけです。
それは神様が住んでおられ、神様が支配していらっしゃる世界、新しい命の創造が起こる世界と言って良いでありましょう。
一方、下というのは、これは人間が生まれ育ち、愛し憎しみ、また様々なことをして死んで行く“この世”ということです。
醜いこの世、この世という考え方はヨハネ福音書では度々出てまいります。
この世というのは、神様の愛の対象であるけれども実に醜い現実が生起している、起こっている、そういう所です。
ヨハネ共同体を攻撃するグノーシスという考え方をもった教派から攻撃を受けていました。
そんななかで自分たちの信仰をしっかり持つようにということから、このヨハネ福音書は書かれています。

これがヨハネの一言で言いますならば、世に対する考え方であります。
私たちはこの世という場合、非常に素晴らしい世、というよりも、むしろ、印象として見れば、非常に住み難い、生きにくい世、ということを考えます。

ましてや、ヨハネ共同体は、グノーシス主義という頭でっかちの信仰者たちとの戦いの中で書かれましたから、このことに関しては確信をついているところです。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、
と福沢諭吉は言ったそうです。
このときの天とは、創造の神を現していたといわれています。
日本古来の神という言葉では、私たちが思い描く創造の神を表せないと考え、「天」という言葉を使ったということです。

私たちは、地べたでさまざまな悩み、痛み、悲しみの中にいます。
それは人間の罪ゆえに起こされていることも多いのですが、人間の手ではどうすることもできないような問題に常に直面しています。
世界に本当の平和は訪れるのだろうか、
人間が死の不安から解放されることがあるのだろうか。
 
ところが福音は、こういう我々の様々な困難、あるいは多くの問題を抱えながら精神を奮い起してそういうものにアタックして行く精神力を強めてくれる、というものではないのです。
ここに、私は決定的な誤解があると思います…。
私たちは、私たちの努力できる、あるいはしなければならない事柄に思いを馳せるのではなく、我々の目を自分からもう一度、“神が送り賜うたイエス・キリストの教えではなく、キリストそのものに目を止めなければならない”。

キリストの教えを一生懸命に学ぶ人は、キリストの教えに躓くことがあります。
躓いた時に引っ張ってくれる人、導いてくれる人がいないからです。
そんな時、キリストに目を止めて我々が聖書を読むならば、躓いたとしてもキリストが私たちの手を引っ張ってくださるのです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(3章16節)という、このことが、イエスがここで盛んに言うところの“上から”ということを指すのです。
そのキリストがこの世に来られて、そしてまた天上に向かう時の、“この世を去る、しかし、去ってもあなたがたを見捨てたんじゃなくて、代わりに聖霊の導きをお与えになる”ということを、ここで約束していらっしゃるわけです。

群集は25節で、「あなたは、いったい、どういうかたですか」とこう質問します。
色々彼らも迷っているのです。
混乱しているのです。
今までの自分の考えとはまったく違う神が、救いが目の前にいるのですから。
どうしても、あなたはどういう方ですか、という質問になってしまうのです。
「イエスは彼らに言われた、「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」」。
改めてそう問われると、わたしはかねてから色々と言ってきたはずだが。

ヨハネ福音書には、「私は○○である。」という表現で、そのとき、そのときにふさわしい形で主はご自分を説明されています。
特に14章では「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。
今日私が一番申し上げたいことは、ここなのです、
「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」…。

多くの人たちは、“キリストによらなくても福音が分かるんじゃないだろうか”、あるいは、“イエスのメッセージはなんとなく理解できる”と思うことがあります。
そこに非常な誤解があるし、誤りがあるわけです。

何故キリストに依らなければ駄目なのか。
それは、我々自身、自分を変革するという、そういうことはできないということです。
罪ある人間は、自分自身を自分の力で後悔はできても、反省はできても、もう一度新しく創造されるということは出来ないからです。
しかし、キリストと出会うことによって、神様からお遣わしになられたこのキリストに出会うことによって、我々は全く新しいものにされるわけです。
そこの処で新しくされないというのは、キリストとの関わりがまだ不十分である、教えの段階に止まって、本当に生きた関わりを持っていないということです。

そして、いつもわたしは神様のみ旨を行っているので、わたしは神と共にいる。
また、神様もわたしと共にいるのである。決してわたしを見捨てることはない、こう言っているのです。

私たちはいつも、このユダヤ人を他人事のように考えますけれど、そうじゃない。我が内なるユダヤ人というのは在るわけです。我が内なるユダヤ人に対して徹底的に闘う。
闘うということは、絶えずキリストに目を注ぐということです。
キリストに目を注ぐことによって、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」ということが、いよいよハッキリと私たちに恵みとして分かってくる。
理屈ではなく、恵みとして理解すべきなのです。
そのことを人に知らしめるために主イエスが人となられて、地上に降りてくださったからです。

神の国に入るには、一本の道しかありません。
ただ主イエスを信じ登ってゆきたいと思います。

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