日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS まことの世の光 2009/9/13 ヨハネ8:12-20 (敬老礼拝)

<<   作成日時 : 2009/09/13 12:06   >>

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暦の上では敬老の日は21日ですが、少し前倒しして、本日を「敬老礼拝」と致しました。


敬老とは高齢者に尊敬の思いをもって「老人」と接すると言う意味です。
何歳以上が老人であるか、という議論は残りますが、
そういう意味では敬老は今日一日だけに限りません。
聖書には次のように書かれています。
「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」箴言16:31
「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳。」箴言20:29
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさ い。わたしは主である。」レビ19:32
「92:13神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。14主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。15白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし16述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方御もとには不正がない、と。」詩編92:14-16

成田教会に限ったことではありませんが、かつては教会の活動の第一線に立たれた方々が、こんなことをおっしゃることがあります。
「昔はいろいろ奉仕もできたが、今は何も役に立つことができない。」
でも、それは違います。
お年を召した方には共同体の中で他の人ができない大きな役割があります。
それは祈りの時間を多く持てるということです。
自分のためだけでなく、教会のため、みなのために祈って頂きたいと思います。

聖書を見てみますとやたらと長命の人が出てきます。
特に、旧約聖書の中に出てくる族長と呼ばれている人たちについて、その寿命が、並はずれて長いことに、お気づきになると思います。
アダムは930年、セツは912年、エノクの人生は、彼らと比べると短命で365年、ノアは950年でした。
アブラハムの寿命は175年、イサクは、180年、ヨセフは110年、80歳で荒野に旅立ったモーセは、120歳まで生きました(申命記34:7)。

当時、年令を、どのように数えたかは分かりません。
1年が365日ではなかったとする学者も居ます。

しかし、本日の交読で読んだ詩篇90編の、10節では、「70年」「80年」を、かなりの高齢であると見て記されています。
現代の私たちの平均寿命に近いように思います。
しかし、「永遠」と比べると、900歳であっても、80歳であっても、問題にならないのです。
永遠の命とは、時計で計ることが出来る命の長さではありません。
むしろ、限りある人生は、天地を造られた、創造主の御前で、どのような価値を持つものであるか、「儚(はかな)い」とされる人の一生の「意義」が問われているのではないかと思います。
自分が生きている、生かされていることの意味が分かって生きているのかどうか、生きている意味を見いだして生きているかどうかということが、問われていると思います。
永遠という時間をも司る神様の御手の中でどう生きるかが問われてくるのだと思います。

さて、本日の箇所で「私は世の光である」と主イエスはおっしゃいました。
ここで思い出すのは、このヨハネによる福音書の最初の所で書かれていたことです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1〜5)

ヨハネ福音書は、冒頭でイエスさまのことを「言」として紹介していました。
そしてその言であるイエスさまが、太古の昔より、世の始まる前から神と共にあった、と記されています。
そしてその言が、「光」であり、暗闇の中で輝いている、と書いていました。
そして今日の所で、イエスさま御自身が「光」であるとおっしゃっているのです。

「私は世の光である」とおっしゃったイエスさまに対して、例によってファリサイ派の人々が反論いたしました。
「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」。
しかしこの時点でこのようにファリサイ派の人々が主張するのも一理あります。
なぜなら、イエスさまは「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とおっしゃっているのです。
これを同じ言葉を一人間の私が言ったとしたらどうでしょうか?
「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と。
多くの人々は、そんな私を哀れな目で見るでしょう。
教会の皆さんは、「先生、そうとうお疲れですね。」などとおっしゃるでしょう。
あるいは、眉をひそめて目を合わせないようにして去っていくかもしれません。
とても正気の沙汰とは思えないからです。
そのように、こんなことを言う人間は、大法螺吹きか、妄想家であるかでしょう。
100歩譲って他人がその人のことを言ったとしても、それも危険な感じがします。自分で自分のことをそんなふうに言える人の精神がおかしいと思うのが普通です。

ですから、ファリサイ派の人々がイエスさまのことを、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と言う気持ちはわかります。

しかしそんなリアクションに対して、イエスさまは当然反論なさいます。
「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」‥イエスさまはご自分がどこから来て、どこへ行かれるのか、知っておられると言うのです。

何週間か前、主イエスがどこから来てどこに行くのかをおっしゃり始める分水嶺があったと申し上げました。
確かに主イエスの時はまだ来ていないが、間もなくくる、という前兆が現れだしています。
それは弟子たちにも、取り巻く群衆にもなんとなく感じられたのかもしれません。


私は、今回この言葉を聞いて、私たちは自分自身について分かっているのだろうか、と思いました。
成田に来る前には大阪に3年、目黒に3年、その前が仙台でした。
今から10年弱前になります。
あの頃は子供たちもまだ小さくてかわいかった。
仙台にいた頃家族で撮った写真がいくつかあります。
香穂がそれを見つけては、これは誰?と問います。
神学校のときに生まれた香穂は、当然まだ仙台の時には生まれていません。
香穂は面影が残る姉たちの写真を見て、「香穂はどこ?」と訊きます。
「香穂はまだ生まれていなかった」と答えるわけですが、どこにいたのか?の問いに、この答えは正確ではありません。
家内は「イエス様と一緒に居たんだよ。」と答えていました。

わたしたちは主イエスを知っています。
人間がどこから来たのかを考えると、どこに居たのかと問われても、「分からない」と答えるしかありません。
また、「どこへ行くのか」知っているかというと、もしイエスさまがいなかったとしたら、それも分かりません。
「死んだら天国に行くのだ」という人がいます。
しかしそれを確かめたわけではないので、本当かどうかも分かりません。
天の御国を知らない人がそう言うと、単なる願望のようにさえ聞こえます。

人間がどこから来て、どこへ行くのか、
私は何者なのか、
私は何をすればいいのか。
これらは哲学と宗教の一番根本的な問いではないでしょうか。


そのように考えると、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ」と主イエスご自身がおっしゃっているのには、本当に驚かされます。

イエスさまはご自分のことをすべてご存知である。
この世に命が生まれ、命がなくなる時どこに行くのかもご存知なのです。
しかし、人間にはイエスさまがどこから来られたのか、そしてどこへ行かれるのかは分かりません。
だから、だれか人間の証人を立てることができないのです。
その代わりに、そのことを証明するのが、天の父なる神であられるということです。
イエスさまをこの世に送られ、そしてまたイエスさまを天の父なる神のもとへ引き上げられるのです。
そのことをなさるのは父なる神さまですから、神さまが証明してくださるというのです。
そのしるしである十字架と復活を見ることになるのです。

続いてイエスさまは、「あなたたちは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない。しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である」とおっしいました。
読み返してみると、何をおっしゃっているのか、よくわからない言葉です。
「誰をも裁かない」とおっしゃっているのに、「もし私が裁くとすれば」という。いったい、裁くのか裁かないのか、ちっとも分からない。
しかしこれはこういうことです。

ファリサイ派の人々は、主イエスを裁こうとして問いかけます。
それは、この前の所、先週学んだ「姦通の女」のやり取りもそうです。
あの姦通の現場で捕らえられた女は、イエスさまの言葉によって罪を赦されました。
イエスさまはその時おっしゃいました。
「私もあなたを罪に定めない」と。その言葉の意味を共に黙想しました。
これは、「あなたの罪などどうでもよい」ということではありませんでした。
「あなたの罪を、私が代わりに十字架で負う。命を捨てて」ということでした。十字架でイエスさまが、私たちに代わって罪を負って下さる、私たちが受けるべき神の裁きを、代わりに受けて下さる‥‥そういうことでした。

どこから来てどこへ行くのかを知っている者として、姦淫の女を裁く。
これが主イエスの愛の裁きでした。
まことの光として世にこられ、罪を明らかにする。
その罪を背負って、十字架にかかってくださる。
その使命を受けた主イエスだからこそ、このようなことができるのです。

今日の言葉も同じです。
「私は誰をも裁かない」
主は主を信じる者を「罪に定めない」と約束されるのです。
しかしでは私たちの罪はどうでもよいのかというと、全く逆で、死に値する罪はなくなりません。
ではその私たちの罪に対する神の裁きはどうなったかというと、それはイエスさまが十字架で代わりに受けてくださるということです。

それが、「もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である」という言葉です。
真実の裁きが、十字架で完成される。ということです。
イエスさま御自身が、十字架で裁かれるという裁きです。
その十字架のおかげで、私たちはそのことを信じるならば、裁かれずに赦され、救われるのです。
そしてそれが、今日の最初の所でイエスさまがおっしゃったことなのです。
「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と。

私たちは光によって生かされ、光によって裁かれるものです。
子供の頃、悪いことをしたり、うそをついたりすると、親に「お天道様が見てるよ」と言われました。
この光をも創り出し、命をも創り出された神が私たちを見守り、そして裁かれる。
その裁きは主イエスによって、十字架によって解決されている。
光をも創り出し、命をも創り出された神は私たちとともに居て、私たちはまたそこに帰るのです。
「私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。そういって私たちを見守ってくださる主に感謝し、光の中を歩んでまいりましょう。


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