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zoom RSS 裁きと赦し  2009/9/6 オバデヤ

<<   作成日時 : 2009/09/07 00:28   >>

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聖書に、オバデヤ書というのがあります。
通読表をつけておられる方は、このオバデヤとフィレモンは、章のない書物であることをよくご存知だと思います。
しかし、意識していないと読んだかどうかも忘れてしまうことがあります。
ではこんな書はいらないのでしょうか。
そんなことはありません。
ここからも神は語っておられる、そう信じて、チャレンジしてまいりましょう。

なぜこのオバデヤ書を選んだかというと、この書物が聖書の中に存在するということは
この短い中に「裁きと赦し」が凝縮されているだろうと思ったからです。

さて、この題名となりました「オバデヤ」という人、神の言葉を人々に語り告げる預言者の使命を果たした人だと思います。
この「オバデヤ」というのは「ヤーウェのしもべ」という意味だそうです。
この人については、名前の意味くらいしかわかっておりません。
旧約には、「オバデヤ」という名前の人が11人も出て来るそうですが、その誰とも一致しません。
さらに、その時代もはっきりしません。
内容をみると、前半ではエドムの滅亡とその理由が傲慢にあることを指摘しています。
後半はイスラエルの勝利とその領土の回復を告げています。
エレミヤ書に匹敵する神の正義を示しています。
しかし、あえて定めるとすれば、後で見ますように、内容的なことから言いまして、紀元前587年以降、つまりイスラエルの南半分であるユダの国がバビロンに滅ぼされ、その都エルサレムが陥落した後、まもなくの時期であると推定できます。
ここでは、ユダが攻められ、エルサレムが大きく損なわれたことが書かれ、その時のことが問題になっているからです。
そうした時に語られたこの書のメッセージは何か。
それは、この短さからただ一つにまとめられます。
1〜2「―――主なる神はエドムについてこう言われる。『見よ、わたしはお前を諸国のうちで最も小さいものとする。』」
「エドム」というのは、一つの地域の名前、そこに住む民族の名前、そして彼らの国の名前です。
その地域は、塩で有名な湖、死海の東南側の山地から紅海のアラバ湾に至るところだと考えられています。
地理的な意味とともに、神様の勢力に敵対する象徴的な勢力という意味を持っています。
彼らはまたの名を「エサウ」とも呼ばれていました。
彼らは、イスラエルと大変近い、「兄弟」のような民でした。
ところが、エドムは事々にイスラエルの「風下」に立たされ、不利な目に遭わされてきました。
ダビデ王の時代には、直接的に支配されたこともあります。
しかし、そういう立場にありながらも、エドムの人々は地道にこつこつと努力をした。
また、彼らのいた場所も、交通の利にも恵まれ、また山岳地帯ということで他から攻められにくい大変有利な場所でした。
文化・学問も発展し、多くの知恵者・学者を輩出して栄えました。
一方イスラエルの方は、「落ち目」になっていきました。
国が北と南に分裂し、北の方は先にアッシリアに滅ぼされる。
そして、残った南ユダの国も、申しましたようにバピロンに滅ぼされていきます。
ある意味で当然に、今までイスラエルから苦しめられて来たエドムの人々としたならば、「あんなユダはひどい目に遭っても当然だ、いい気味だ」ということになるわけです。
そうして、「反対に、自分たちは栄えている、安泰だ」と言って喜んでいました。
このことを捉えて、神様は「高慢な」エドムを裁き、「小さくし」、ついには滅ぼすのだ、これがオバデヤ書のメッセージです。

ユダが滅ぼされる時に、エドムが冷たい態度を取ったことに所以します。
ここだけ見ますと、最初に出しました「なぜ、こんな書が聖書にあるのか」ということなるわけです。
「それなら、単なる民族同士の憎しみ、復讐心の応酬に過ぎないのではないか。」
もちろん、ある意味の時代的制約や民族的限界はあります。
しかし、それを超えて今も私たちに語りかけてくる神のメッセージがあるはずです。
皆さん、これらの呼びかけは私たちにも訴えかけて来るとは思いませんか。
12〜14「兄弟が不幸に見舞われる日にお前は眺めていてはならない。ユダの人々の滅びの日にお前は喜んではならない。―――その災いの日にわが民の門に入ってはならない。その災いの日に苦しみを眺めていてはならない。―――逃げて行く者を殺すために別れ道で待ち伏せしてはならない。その悩みの日に生き残った者を引き渡してはならない。」
「兄弟」を、友を、そして新約も含めて全聖書的に広げて言うならば「どんな人」をも、とりわけその「悩みの日」「災いの日」に見捨ててはならないのです。
ただ「眺めて」、手を貸さず、まして「喜んでいてはならない」のです。
それは、神の前に罪であり、神はそれをしっかりと見ておられて、正しく裁かれるのです。
15「主の日は、すべての国に近づいている。お前がしたように、お前にもされる。お前の業は、お前の頭上に返る。」
それは、たとえ、「相手が悪くても」です。
そのようにユダが苦しみ、滅ぼされたのは、「ゆえなくして」ではありませんでした。
聖書は一貫して、イスラエルとユダが神の前に罪を犯し、悪かった、そしてその滅亡は神の前に当然な正しい裁きであったことを告げています。
そして、このオバデヤの預言は、まさにその神のユダに対する裁きが既に起こった後に語られているのです。
それを踏まえてなお、ユダを「眺め、笑い、見捨てる」エドムの罪は、神の前に裁かれるのです。
「当然の報いだ。自業自得だ。」と言い放つのは、決して赦されないことなのです。
ここにすでに、私たち人間が考えるような「因果応報」を越えて行かれる神の御心と道が示されています。
神は、他の預言者が語ったように、ユダの罪をただ責め、裁くのではありません。
むしろ、その罪を神御自身が担い、赦し、そうして倒れたイスラエルを再び立たせて行こうとされるのです。
この神の道は、とりわけ私たちの主イエス・キリストによって明らかにされました。
主イエスは、このエドムと似たような状況にありながらも、全く反対の行動に出た人をたとえ話で話されました。
そして、主イエス御自身は、「善きサマリア人」として生きられました。
イエス様は、人々を愛したのに、人々から憎まれ、捨てられ、嘲笑われながら、十字架に殺されて行かれました。
しかし、主は「お前らは、わたしを見捨て、ひどい目に遭わせたから、お前らも罰を受けて、ひどい目に遭え」とはおっしゃらなかったのです。
かえって、主は、人々の、私たち全ての者の罪を担い、引き受け、それに引き換えて、なんと神の赦しと救い、そして、罪人が立ち上がり生きることを、「永遠の命」を与えてくださったのです。
これが、神の道であり、神の愛です。
この神の愛に救われ、生かされて、ユダとイスラエルは、エドムたちの嘲笑と冷酷な振舞いにもかかわらず、やがて赦され、生かされて、再び立ち上がらされる。その約束と希望をもオバデヤは告げています。
17〜21節前半「しかし、シオンの山には逃れた者がいてそこは聖なる所となる。ヤコブの家は、自分たちの土地を奪った者の土地を奪う。―――捕囚となったイスラエル人の軍団は、カナン人の地をサレプタまで所有する。―――エルサレムの人々は、ネゲブの町々を所有する。」
確かにここには、まだ時代的・民族主義的限界がはっきりとあります。
いまだ「憎しみと復讐の論理」を越えているとは言い難いと思います。
しかし、それだけにとどまらないものも、現れて来ているのです。
21「救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる。」
単なる人間的・地上的国家の枠を超えたことが現れているのです。
「国は、人間のもの、限りある人間のもの」ではなく、「愛と赦し、その恵みにおいて限りない神、主のものとなる」のです。
だから、そこで行なわれる「裁き」とは、「救い」であり、「赦し、生かす」ことなのです。
主イエスは、この言葉を実現しつつ、宣べ伝えられました。
「神の国が近づいた!悔い改めて、福音を信ぜよ。」それは、主が自ら表されたとおり、「愛と赦しの国」、「人を、どんな人でも、救い、生かす国」でありました。

エドムは、そして私たちもまた、これらの言葉によって、悔い改めへと招かれているのです。
それは、この神の御心と道、それが行なわれる「神の国」がすでに来ているということです。
すでに始まっていることを聞き、信じて、私たちもまた兄弟・友を見捨てず、またどんな人をも「愛し、赦し、生かす」ことに生きる道だからです。

わたしたちも、主の愛に捉えられ、命の道を歩むものとして歩んでまいりたいと願います。

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