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zoom RSS 裁きと赦し  2009/9/6 ヨハネ7:53-8:11

<<   作成日時 : 2009/09/06 17:43   >>

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ヨハネ福音書の8章は、「姦淫の女」の話で始まります。
実は、この物語は、とても有名な話ではありますが、ヨハネ福音書本来の文章ではなく、後から挿入されたものだと言われています。
冒頭から驚かせてしまって申し訳ありませんが、私は、たまにこんなことを言います。
みなさんはぜひ、そのことに躓かないでください。

でも、本日の箇所をよくみてみますと、中括弧でくくられています。
これは、いくつかの重要な写本には載っていない、という意味です。
もう少し正確に言えば、古い写本にはこの箇所が載っていないのです。
ルカ福音書やヨハネの別の箇所にこの箇所が記されているものもあるのです。
これは写本をする人が、本当はこの箇所に入るのではないが、福音書として残すべきだと意図して残したと考えられています。
しかも主イエスの細かな動作の描写に違いがあるそうです。
表現に違いがある、というとこの記事に信憑性がない、と考えがちですが、そうではありません。
福音書は書き記されるまで、多くの口によって何十年も伝えられていますから、
福音書が書かれるまでに、さまざまな形ですでに伝えが広まっていたと考えることができます。
写本される地域によってすでに伝えられていた話と食い違ってきているということではないでしょうか

その意味でもちょっと不思議であり、福音書の中でも、きわめて珍しい物語だと言われます。
それだけ、福音の本質というか真髄をズバリと語っているからです。
主イエスはたとえ話を通して福音の本質を語ることがあっても、面と向かってこのように断言することはありませんでした。
しかもこの言葉を聞いた律法学者たちはどこかへ行ってしまったというのです。

主イエスがオリブ山に夜登られたという記事から、ルカの21章37節前後に近い時期であることがわかります。
マルコやマタイでは、主はお祭りのときにはエルサレム郊外のベタニアに泊まられたとありますから、この話はルカの伝承と同じ資料からとられたと考えられています。
むしろ、「律法学者とファリサイ人」という表現もあるので、本来はルカ福音書に収められていたとする意見も有力なようです。

さて、イエスが神殿の境内で教えておられた時、律法学者達が姦通の現場で捕らえられた女性を連れて来ました。
そしてイエスに言った「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:4-5)。
律法学者たちは、民衆に人気のあるイエスを妬んでいました。
なんとか陥れようと企んでいましたので、目の前に姦淫の女を連れてきたのです。
では、この女性は現行犯で捕まり、最高法院で死刑宣告を受け、その上でつれてこられたのでしょうか。

当時の社会では姦淫は重大な罪であり、律法は「姦淫を犯した者は石で撃ち殺し、悪を取り除け」(申命記22:13-24)と教えられていました。
しかし、この当時、ユダヤ人に死刑勧告をする権利は与えられていませんでした。

思い出してください。
主イエスの十字架も、ピラトの前に出され、ユダヤ人に差し戻されるという経緯を経ていました。
この記事は、そんなことには何の関心も持っていません。

この箇所は、主イエスがこの究極の選択にどう答えるのか、と言うことのみに集中しているのです。

もし、イエスが律法に従い、「女を石打の刑に処しなさい」と言われたら、愛と赦しを説かれていたイエスの評判は地に落ちるでしょう。
逆にイエスが「女を赦しなさい」と言われたら、それは律法の教えに背くことになります。
どちらを答えてもイエスは不利になる、律法学者たちはそう考え、早朝の神殿に、この女を引き連れてきたのです。

しかし、イエスは何も答えられず、ただ指で地面に何か書いておられました。


イエスとこの女性の周りには、律法学者達の意地の悪い冷酷な顔、民衆の卑猥な好奇心がありました。
律法学者たちは何も答えないイエスを責め続ける。
イエスは身を起こして言われた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8:7)。イエスが言われたのは、この女ではなく、自分を見つめよということだ。
この女は罪を犯した。
このことは変わらない真実です。
しかし、罪人であるのはこの女だけでしょうか。
あなた方は、自分は罪を犯したことがないと断言できるのか。
もし出来るなら石を投げよ。

2.罪を赦された時
イエスが彼らに求められたのは、自分への振り返りです。
私たちが非難すべき者だけに目を注いでいる間は、自分への振り返りはない。
イエスが何も答えられないことにより、彼らの視線は姦淫の女からイエスへ、イエスから何かを書いておられるイエスの指先へと注がれています。
イエスの指先が指すのは彼らの良心。
良心に誓って罪の思いを持ったことがないと言えるなら、石を投げよとイエスは言われたのです。

人間は石を持つと投げたくなる性質があります。
武器を持つと使いたくなる、それが人間の性です。
おもちゃのピストルを持てば、まず、その辺のマッチ箱を打ち、人形を打ち、そして動くものを打ちたくなる。
かつて矢鴨などというのがニュースを賑わしたことがありました。
自分より弱いものを攻撃することには、罪の意識を感じない、それが人間の本質です。
ましてやこの場合、合法的に石を投げることが許されている女がそこにいる、
律法違反を起こした民族的にも恥ずべき女がそこにいる。
手に持った石を握りなおし、確実に当ててやろうとみなが息を呑んで、主イエスが、石を投げろ、と言う言葉を待っていたのです。
しかし律法学者たちはイエスの言葉に自分達を振り返り、石を投げることが出来なくなってしまいました。
そこにいることすら恥ずかしいと思い、その場所から居なくなりました。

後には女とイエスが後に残されました。
イエスは女に言われた「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(8:10)。
これは裁判官の裁きの言葉ではありません。
隣人の問いかけでした。
女は答えた「主よ、誰も」。
イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない」。

これは罪を問わないことではありません。
罪は罪として認めた上で、刑の執行を猶予すると言われました。
「あなたは過ちを犯した。しかし、あなたの人生は終わっていない。私はあなたに機会を残そう。それはあなた自身が自分を購う機会だ」。
だからイエスは続けて言われた「もう、罪を犯してはいけない」。
律法学者は力で女を屈服させようとしました。
力による屈服は、心からなる服従は生むことはありません。
本当の服従は赦しから来る。
罪が在るのに赦された時、人はもはや反抗することは出来ません。
この言葉をいただいた者は、もう元の罪ある生活には戻れないのです。

この姦淫の女性はマグダラのマリアではないかと言われてきました。
イエスの十字架の時にゴルゴダの丘まで従い、イエスが葬られた後はその墓にまで行き復活のイエスと最初に出会った婦人です。
あるローマ法王がそう説教で語ったことによってキリスト教の伝統の中ではそのように理解されてきました。
このことは何の確証もありません。
500年くらい後に、同じくローマ法王によってそれは誤りである、と訂正されましたが、この女はマグダラのマリアとは別人だと宣言されました。
しかし、いまでもこの認識はなくなったわけではありません。
ある意味、この女性はマグダラのマリアであり、わたし達でもあります。
神の赦しを経験した者は、もう元の生活に戻れないのです。
そして私たちもこの赦しを知っているから、教会につながる者とされたのだというのです。

今日の招詞に、詩篇51:3―5を選びました。
「神よ、私を憐れんでください。御慈しみをもって、深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。」
ダビデはある時王宮から、女が湯浴みする姿を見ました。
彼女の美しさに、ダビデは自分の欲望を抑えることが出来なくなり、女を王宮に呼び出しました。
ダビデは女を自分のものにするために、女の夫、自分の部下でもあるウリヤを殺した。
その罪を預言者に問われた時に、ダビデは改めて自分の犯した罪の重さを知り、神に叫んだのです。
「神よ、私を憐れんで下さい。私の罪を洗い去って下さい」。
ここでダビデは、妻ウリヤに対して、またバテシバに対して「罪を犯しました」と言っていない。
あくまでも「神に対して」罪を犯したと告白しています。
聖書でいう罪とは、「的をはずす、誤る」と言う意味です。
神との関係が的をはずしている、正しくないのが罪であり、神との関係が誤っているから、人との関係も誤り、それが殺人や姦淫等の目に見える罪として現れてくるという意味です。
だからまず正すべきは神との関係であり、神との関係が正された時、人との関係も正すことができるのです。
そして私たちが心から悔い改めた時、神は言われるのです。
「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯してはいけない」。

ここまで、律法学者たちはイエスを憎んでいました。
しかしこの時のイエスの言葉の中に、神の声を聞いたのです。
だから女を裁くことが出来なくなってしまいました。
赦したかったのではない、裁けなかったのです。
裁かれているのが女ではなく、実は自分自身であることがわかったからです。
しかし彼らは、その時自らも赦されていると言う声を聞くこことができませんでした。

私たちが自分の正しさに固執してあくまでも相手を裁こうとする時、実は私たち自身が神から裁かれているのです。
この神の裁きに耐えうる人がいるでしょうか。
自分の正しさを捨てて、神の正しさを求めましょう。
もし、誰かとの間に不和があるのであれば、神との関係が壊れているということを認識しましょう。
私たちがまず為すべきことは神との関係の正常化しなければならないからです。
そのために、聖書を読み、祈り、神からの言葉をいただくために礼拝に参加するのです。
主が招いてくださる聖餐にともに与ってまいりましょう。

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