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zoom RSS イエスの時、救いの時 2009/8/23 ヨハネ7:25-36

<<   作成日時 : 2009/08/23 14:20   >>

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みなさんは主イエスキリストを知っているでしょうか。
残念ながら私は、まだお目にかかったことがありません。
お話を伺ったことも、直接書かれたものも読んだことがありません。
人から伝えられたこと、人が書いたものを読み、また聞きながら、誰かが描いたものを見てイメージするだけです。

さて、本日の箇所で群衆は主イエスのことを「知っている」と言っています。
ただ、彼らが言っているのは「うわべで」知っているかどうかです。
彼らは何を知り、何を知らなかったのでしょうか。
冒頭でみなさんに質問をしましたが、これら私たちにも言えることです。
彼らは主イエスの肉の兄弟や、主イエスの仕事や、誕生や生い立ちや学歴までも知っていました。
彼らは幼いころからの主イエスについて多くのことを知ってはいましたが、これだけでは主イエスの本質を知ったことにはなりませんでした。

それに対する主イエスの答えは、「あなたがたは、その方(父)を知らない」(28節)と言われました。
ここで最も大切なのは父なる神を知ることです。
父を知ることがなければ、キリストを知ることはできません。
これが知ることであり、知るということの秘密です。

よく親の顔がみたい、などといいます。
人を知るにも、その父を知らなければならないようです。
知ることの根拠は、父を知ることだといえます。
新しく生まれた人を知るには、「人間的な標準」では知ることができません。
キリストを知るのにも、人間的な標準やうわべでは知ることができません。
キリストを知るには、生けるキリストとの交わりを通してはじめて知ることができます。

知ることができない、わからない、などと繰り返して申しますと、キリスト教を学ぶのはとても難しいなぁ、と感じられるかもしれません。

それでは、どのようにすれば父を知ることができるのでしょうか。
知ることの鍵は、信仰です。
信じる人が、父を知ることができるのです。
神を信じて始めて神を知ることができます。
信仰とは、神の中に飛び込むことです。
あまり盲目的に何でも信じればいいのか、と言ってしまうと危険も伴いますので注意が必要です。
そして信じたら、信仰によって行動することです。

先ほども賛美しましたが、見るところによらず、信仰によって歩むのが大切だということです。
見えるものが見えなくなり、見えなかったものが見えてくるのが信仰です。

この信仰がなくしては、次の主題である「時」が見えてきません。
信仰によって、もうすでに「時」が来ていることが見えてくるのです。
信仰は、目に見えないものを確信させます。
信じるときに、「神の時」が来るのです。

先ほどお読みいただいた伝道の書3章1節から8節、大変有名な箇所です。
「天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」時というのは神様によってすでに定められた時期という意味です。
この箇所にはとても一息には言い切れないぐらいの事柄が並んでいます。
時、時、時、と言っている時。
“何事にも時があるのだ”ということですが、一見これは運命論的に見えます。しかしそうではありません。
詩篇交読で分かち合いました詩篇31章には「わたしの時はあなたのみ手にあります」とあります。

少し復習をいたします。
7章の冒頭で主イエスと、その兄弟たちの間で時をめぐった対立がありました。
この仮庵のお祭りの時こそエルサレムに上げって行くべきだ、と言い、主イエスご自身はその時はまだだ、とおっしゃいました。
主イエスは、「イエスの時」が歴史の中でたった1度しかないことを知っておられました。
この世が期待する「時」と主イエスご自身の「その時」が大きく食い違っていたのです。
第一、これから世直ししようというのに隠れている人はいません。
これは人間的なものの見方、時の捉え方です。

選挙だというのに、なにもせずに隠れている立候補者はありません。
ポスターを貼らない、演説をしないでは当選しないでしょう。
今まで行ったこともない町内会のお祭りに顔を出したとかでニュースにもなるくらいです。

私たちは時間、時というものを非常に人間化して受け取る風潮があります。
運命論者は典型的な一つの時の考え方です。
何事も運命だと割り切ってしまうこともあります。
“何をしてもみんな運命だ、私たちはそういう運命の星の下に生まれた”というふうに運命のせいにしてしまうことがあります。
朝のテレビの星占いを見て、一喜一憂します。
そうかと思うと、時というものはとにかく挑戦して自分を実現していくものだというふうに捉える。
これはもっとも現代的でしょう。
現代人というものは、あまり運命論というものは好かないようです。

会社で“時間と言うものは在るものではなくて作り出すものだ、部下たちよ働け”というような号令をかけることがあります。
前向きな目で見れば、当たり前のことのようにも思えます。
時というものに対する考え方が人間化してきていると言えるでしょう。

伝道の書が言っているように、いろんな時が確かにあります。
“愛するに時がある”その通り。
“黙るに時がある”その通り、沈黙は金ですから。
そういう時もある。
“戦うに時がある”その通り、しかし、“和らぐに時がある”。
そういう時というものを我々は見失ってはならないのです。
潮時などというものはとても大事である。

この時もまた、神様が創られたものです。
ベルリンの世界陸上では100m、200mで世界記録がまた更新されました。
時間への挑戦というのは、自分との挑戦だといえます。
自分と向き合い、自分の限界に挑む時初めて、勝負の時だといえるでしょう。

けれども、その時というもの、時間と言ってもいいわけですが、我々が時間の主人公になった途端に、逆に人間が時間の奴隷になってしまいます。

朝起きる時間、電車に乗る時間、学校や会社に行く時間…。
私たちは時間に縛られている、と感じてしまうと、伝道の書に書かれているひとつひとつの時が、私たちを支配しているかのような錯覚に陥ってしまいます。

ですから、私たちは「わたしの時はあなたのみ手にあります」という信仰を持たなければ、我々は永遠に時の鎖に繋がれてしまうのです。

主イエスはおっしゃられました、“わたしの時とは、神様の栄光を現す時である”。
神様の栄光というのは我々の人間の栄光とは違います。
すべてが神様のご支配のうちに、神様の視点で備えられ整えられているのです。

現在、選挙を戦っている人たちは時をじっと待って勝負をしている人たちがいます。
いま、熱い選挙戦が繰り広げられています。
ある人は禊だという人もいれば、今こそ改革のときだとか、今こそ正念場だとか言います。

この時期での総選挙というのは、個人的な意見を申し上げればやや潮時を見誤った感は否めないと思います。
政権を維持したい、権力のトップの座に座り続けたいというような思い、それが我が時なのではないかと思います。

さて、だんだん論点がずれてまいりました。
ヨハネ福音書の7章25節以降は、二つの意味で重要な箇所だといえます。
ヨハネ福音書は、イエスキリストとはいったい誰か、ということを繰り返し語っていますが、このことが本日の箇所で明らかにされています。
イエスキリストがメシア、つまり救い主であることがこの時示されたのです。
そして、そのことによって、この人は本当にメシアか、という問題がユダヤ人の中に生じたのです。

そして、もうひとつは、主イエスが「どこへ行くのか」が示されました。
ヨハネ福音書にはご自分が誰から遣わされて、どこから来たのかという事は語られていましたが、天に帰ることは示されていませんでした。
これらは誰にでもわかるような直接的な表現ではありませんでした。
隠された形ではありましたが、
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」
とはっきりおっしゃったのです。

カナの婚宴で「婦人よ、まだその時ではありません」とおっしゃった主イエスはこの時を待っていました。
やっとこの箇所で、そのことを公にしたのです。
そしてこの時を境に、事態はぐぐっと動いていくこともご存知でした。

しかしユダヤ人たちはこの二つのことがわかりませんでした。
ですから、35節で
「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
と言っています。
エルサレムに住んでいる人たちにとって、ギリシア人が住んでいるところは外国です。
ユダヤ人たちにとってそこは、自分たちの信仰生活の外側の世界です。
その知らない世界で、自分たちとかかわりのないことをするのか、というのです。
そんなことをする人間は、自分たちには何のかかわりもない。そういうのです。


自分は時をも創られた天から来た、とおっしゃられた主イエス。
その主イエスはまた天に栄光をあらわされて帰られるとおっしゃるのに、それが自分たちとは関係ないと思っている。

人類の歴史にも深くかかわる、神の恵みの支配は、わたしたちのすぐそば、目の前、そして、私たち自身に起こっていることなのに、それが関係ないように思えてしまう。
そのことを罪とせずして、何が罪でしょうか。
ほかの人は知らないかもしれないけれど、自分たちはよく知っている、といいつつそのことに気がつかない、わからないで過ごしているのです。

そのようなユダヤ人たちに、そして時を越えて今、私たちに主イエスは大声でこのようにおっしゃるのです。
あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。
なぜ大声で叫ばれたのか。
宗教改革者カルバンは、ここに主イエスの怒りを感じ取っています。
また、「叫び」というのは旧約聖書において、「祈り」の場面で使われることがある用語だそうです。
私たちも、自分がキリストに属するものであると祈り、叫ぶ必要があるのではないでしょうか。
キリスト者としてみ言葉に聞き、キリスト者として判断して、キリスト者として行動する、その様な者として世に遣わされてまいりましょう。

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