日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 御心を行なおうと願うなら 2009/8/16 ヨハネ7:14-24

<<   作成日時 : 2009/08/16 12:05   >>

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ヨハネ7:14-24



地上デジタル放送の開始まであと2年をきりました。
皆さんのお宅ではアナログからデジタルへの以降はお済でしょうか。
アナログでは、電波を受けるだけでしたが、デジタルになるとこちらから通信を行うことができるようになるそうです。
番組のアンケートに答えたり、クイズに参加したり、つまりレスポンスができるようになるそうです。

この夏のティーンズキャンプのテーマは「RE:神様からのラブレター」というものでした。
春のキャンプでは「神様からのラブレター」というテーマで私が担当させていただきました。
そのことを受けて頭に「RE:」というのをつけてのテーマです。
メールをされる方はご存知だと思いますが、受信したメールに対しての返信にはそのタイトルに「RE」というのがつきます。
これはレスポンスの略なのですが、神様からのラブレターを受けてどうレスポンスしていくか、実践していくか、というのがテーマになりました。

手前味噌になりますが、今月のふくいんには私の記事が載っています。
このふくいんの記事を見た、ということで旭川教会の信徒から電話がありました。
このようにお電話を頂いたのは初めてでしたのでとてもうれしくなりました。
暫く話をしていると、その兄弟が私の大学の後輩であることがわかりました。
さらに懐かしく、うれしい思いになりました。

さて、エルサレムの宮でイエス様が教えられた時、それを聞いた人々は驚いたとあります。
当時の聖書は巻物で、それぞれの教会にいくつかあるだけで、だれもが簡単に手にして読むこともできませんでした。
ですから、聖書について学ぶには誰かラビについて学ぶ必要がありました。
主イエスの教えを聞いた人たちは、主イエスが有名な聖書の学者について学んだわけでもないのに、こんなに教えられるのはどうしてだろうと不思議に思ったのです。

この箇所は、6章を挟んで、5章の安息日論争からの続きです。
ずいぶんと間が開きましたので、聖書を戻してみてみましょう。
ここで、ヨハネがこの当時の人たちをどのように捕らえていたかを考えたいと思います。
ヨハネはファリサイ派と祭司、ユダヤ人と、群集、を分けて考えているようです。
また、さらにこの箇所ではユダヤ人とイスラエルというのも分けているようです。
この箇所で主イエスの教えに驚いたのは、ユダヤ人です。
ファリサイ派までではないけれど、主イエスに批判的な人たちです。

彼らは皮肉にも、主イエスには聖書を語る資格がない、と言っているのです。
主イエスはたしかにガリラヤ地方の山間部の寒村ナザレで育ちました。
そこにもファリサイ派が主催する会堂シナゴクがありました。
そこでも教会学校のように子供たちに教えてはいましたが、あくまでも初歩でしかありませんでした。
もっと学ぶために高度な学校に行って初めて、難解な聖書を解き明かすことができるとしたのです。
そのことを皮肉っているのです。

しかし、イエス様は、わたしの教えは神からのものだと答えられました。16節。
律法学者やファリサイ人のような不幸な人の一番の特徴は、自分の栄誉を求めたことでした。
すべて自分の努力や才能によると思い、自分の栄誉だけを思うのは、不幸なことです。
謙遜に環境の変化を受け止めることができません。
自分の思いでいっぱいになってしまいます。

神様に心向けている人は、主の偉大さと自らの弱さに非常に敏感であり、自らのうちにはなんら誇るところがないことが分かるものです。
反対に人は、自分を誇示することで、自らの弱さや不安を包み隠そうとしました。

なぜ、人々はイエス様の教えが神様からのものと考えることができなかったのでしょうか。
それは、彼ら自身の聞き方、彼らの心の向け方に問題があったのです。17節。
主は「だれでも神の御心を行おうと願うなら、」それが分かると言われました。
「御心を行なおうと願うなら」これが本日の箇所のキーワードです。
「御心を行なう」と言っても、私たちが神の御心を行なっているということではありません。
また、私たちに神の御心を行なうことができることでもありません。
「御心を行なおうと願うなら」です。
御心を行なおうという願いがあるか、意欲を持っているか、志が抱いているかということが問われているのです。詩篇40:9。
「神の御心を行なっているか」と問われると、「私にはできない」「私には分からない」と答えるでしょう。
イエス様が言われたことは、「行なおうと願うなら」分かる、霊的知識を得るというのです。
多くの人々が、御心は何か、何が真理か分からない、難しいと訴えます。
聖書は難しい、私はちっとも福音がわからない、そういうことがあります。
自分の周りを見回して、いったい御心はどこにあるのだろうか、と思います。

しかし、そのような言い回しのほとんどの場合、真理を見つけられない、御心が分からないということが、神様に関して無関心の口実になっていないでしょうか。

このような心の状態にある者に対して主は喚起を促しておられるのです。
聖書から知恵を得る秘訣の一つは、主の御心を行なおうと願うことなのです。
これが難しいことでしょうか。

「主の御心を行なうことを喜ぶ」意欲を持つことがなければ、どんなに聖書を学んでも、御言葉を聞いても、御心を知ることはないでしょう。
私たちは教えとか言葉が分かるためには、必ず自分の中に合い通じるものがなければ、反応しないのです。

聖書を読んでも、よくわからない、説教を聴いてもわからない、
信仰の先輩たちは、わからなくても心配しないで、いつかわかるようになるから、そんなことを言って励ましてくれます。
信仰は飛び込むことだ、と。
そんなことを言われても、自分にはできない…。

信仰を持ってから、洗礼を受けてからのほうが迷う。そんな話がキャンプ参加者からありました。
あまり知らないからと信仰生活に対してしり込みしたり、初めから一切のことを知らないと信じられないとおもったりすることがあります。
しかし、持っている知識を誠実に用いましょう。
それを使っている間に、新しい知識が与えられて来るのです。
信仰確信が生じてくるのです。

明確な知識は誠実な服従によるところが大きいのです。
教えられているところに従って生活すると、自然に今まで以上の理解が得られます。
数学のドリルというのも同じような気がします。
最初はこんなことをするのに意味があるのか、という疑問すらあります。
ドリルというのは、穴を開けるドリルと同じです。
同じことを何度も繰り返しつつ、掘り進めて行くものです。
信仰と知識とは別のものですが、自分のものとしていくという点では通じるものがあると思います。

理解しがたい問題が解決されたら信じようとか、もっといろいろ学んでから洗礼を受けようということがあります。
しかし信仰は、知識から得られるだけでなく、信じて従うことを通して得られるものです。

私たちは正直なところ、本当に神の御心を行なおうと願っているでしょうか。
もし、そうであるなら、神様は私たちの霊的知識が増すように、主の御旨を知るように、御心を行なうように少しずつ導いて下さいます。
もし、主の御心を行なおうと願っていないならば、それは神のしもべ、主の弟子になりたくないということで、理解力に問題があるのではないのです。
神様が自分を求めていないから、自分では理解できない問いのではないのです。

ここで、イエス様は誠実で正直な、心から真理を求めている聴衆を励まそうとしておられるのだと思います。
そのような人は、最初は全く知らないとしても、神の御心を行なおうと願うなら、神を喜ばせ、神様が示してくださることに従おうと願うなら、その人は教えを受け、御心を知るようになるでしょう。

誠実に神の御心を行なおうと願わない者たちは、神の御旨が分からず、本当は御言葉を守っていないのです。
ファリサイ派を中心とした人々は、律法を守ることを強く説いても、それを真実に守ってはいないし、また守ることができない人たちでした。
言い換えれば、律法の真意を誤解していたのです。
このヨハネの言葉は、間接的にパウロの影響を見ることができます。
主イエスは人間の心の奥底、罪を見抜き、そして聖書と律法はそれからの救いを示すものだ、
つまりパウロ的に言えば、人間は律法によって生きることができないことを示しているだと説いているのです。

結局、律法を破っていると言ってイエス様に敵対し、殺そうとしました。
安息日に癒しを行なったイエス様を批判したのです。
勿論、彼らがなにもしなかったかと言うと、そうではなかったのです。19-23節。そんな彼らに対して、イエス様は「うわべによって、さばかないように」と諭されました。24節。
うわべ、見かけの文字の意味だけで判断して、安息日には何の業もしてはならないと言うから何もしないと読むような判断をしないようにと勧めました。

彼らは聖書を読みながら、聖書を読んでいないのも同然でした。
神が安息日を設けられたのは、人が神の祝福を受け、救いの恵みに与るためです。
自分たちは長男が生まれた時に8日目に施す割礼に関しては安息日規定を黙認していたくせに。
字面だけを見て、安息日に病人を癒したイエス様を攻撃したのです。

いつの時代でも、事のうわべのみを見て、それを言い、行なった人の行為の良し悪しを簡単に決めてしまう傾向は変わりません。
裁判員制度、選挙、私たちの意志を明確に表すことを求められることも少なくはありません。
私たちは、よきにつけあしきにつけ、性急に人を判断しがちです。
あれは悪い、あれは良いと、見た感じがそうだというだけで決めてしまいます。ある人の行為は、はじめはよく見えるかもしれませんが、間もなく卑劣な動機からと分かるかもしれないのです。
始めは躓きを与えることでも、それなりの意味があってのことかもしれません。ですから、私たちは、物事の本質を見て、主の御心を求めたいのです。

聖書はその書かれた意図に照らして、書かれたのと同じ精神で読まなければ、書かれた真意を読むことはできません。
神の御言葉なのですから、「神のみこころを行なおうと願い」ながら、御言葉を読むのです。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」Uテモテ3:16。
これが聖書を私たちに示してくださった神様の意図なのです。
ですから、私たちも自分にとって有益となるように読まなかったなら、自分への適用を教えていただかなければ、聖書の本当の意図や神の御心を分からないままになってしまいます。
勿論、ただ利益欲しさに読むというのでなく、神の御心を行ないたいという願いをもって読んで行くのです。
御心を行ないたいのだけれども、今の私に関わる御旨はなにかという適用を、御言葉に聞いて行くのです。
分かったら信じようではなく、まず、信じたら分かって来るのです。
「御心を行なおうと願うなら」、私たちは全てを主に委ね、信じて行くことです。
そうして、自分対して御言葉が開かれて行き、光を放ち始めることができるのです。
御心を行おうと願いつつ、今週もまた歩んでまいりたいと思います。

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