日本ナザレン教団 成田キリスト教会

アクセスカウンタ

zoom RSS 誰のところに遣わされるか ヨハネ6:66-69 2009/7/5

<<   作成日時 : 2009/08/09 12:23   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

一、主イエスと群衆
最近の日本は総裁選ブームです。
毎年総理大臣が変わります。
誰もが数ヶ月の短命内閣だと思っていた麻生内閣はなんだかんだと人員の補充はあったものの

ブームに浮かれるのは、どうやら、現代人ばかりでなく、古代の人々、主イエスの時代の人々も同じだったようです。
主イエスが伝道を始め、今まで、誰も語ったことのないような、権威あるメッセージが語られました。
人々は、あちらこちらから主イエスの話を聞きに集まってきました。
主イエスは、人々に神のことばを語っただけでなく、足の利かない人を立たせ、目の見えない人を見えるようにしました。
また、らい病をきよめ、さまざまな病気を治し、悪霊を追い出すなどの目覚しい奇蹟をなさいました。
そのようなしるしをもって神の力を表わされました。
さらに、評判を聞きつけた多くの人々が主イエスについていくようになりました。
特に、主イエスが奇蹟によって五千人もの人々にパンを与えた後は、人々が主イエスを遠くの町までも追いかけるほどでした。
人々の間では、口を開けば主イエスのことが話題になるような、ブームが沸き起こったのです。
しかし、人間は、熱しやすくて冷めやすいものです。
時として、主イエスが耳あたりの良い話だけでなく、人間の内面の罪深さに触れ、主イエスご自身に関する真理を明らかにされるようになると、人々は、主イエスからひとり去り、ふたり去りしていきました。
人々は、主イエスについていけばいつでもパンにありつけるわけではないことが分かると、主イエスから離れていきました。
離れていくのは群衆だけではありませんでした。
「弟子」と呼ばれる人たちも、主イエスから離れていきました。
人々は、主イエスがご自分を天から来られたお方で、ご自分の血と肉を人々に分け与えると言われた時、
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(60節)とつぶやきました。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(53節)という主イエスのことばは、たしかにショッキングなものです。
しかし、主イエスは、こうした過激なことばを使って、大切な真理を人々に悟らせようとされたのです。

「弟子」という言葉には、「習う者」「学ぶ者」という意味があります。
ちなみに、ナザレン神学校の機関紙「マセータイ」が同じ言葉です。
彼らが本当に主イエスの弟子、主イエスから学ぶ者であるなら、その意味を主イエスに尋ね、学ぶべきだったのです。
また、「弟子」という言葉には「従う者」という意味があります。
ところが、この人たちは、主イエスに従わず、主イエスから離れていきました。
66節に「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」とある通りです。
この人々は、自分では「弟子」だとは思っていても、本当の意味での主イエスの弟子ではなかったのです。
流行に乗って、主イエスを追いかけていただけの人々だったのです。


二、主イエスの質問
世の流行なら、ブームに浮かれ、騒いで終わってもかまわないでしょう。
しかし、イエス・キリストを信じる信仰がそうであったら、どうでしょう。
主イエスが私たちに与えようとしておられる大切なものを得られないままで終わってしまいます。
みんなが主イエスのところに押し寄せてくるといった、いわゆる「ブーム」が下火になり、人々が主イエスから去って行った時にこそ、本当の弟子の真価が問われるのです。
それで主イエスは「あなたがたも離れて行きたいか。」(67節)と、十二弟子に質問されたのです。
新改訳では「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」とあります。
―これは、なんとなく寂しい感じのする言葉ですね。
主イエスは、多くの人々が自分のところから去っていって、心細くなられたのでしょうか。
そうではありません。
主イエスは、そのお働きを始められた最初から、人目につくことをして、数多くの人々を集めることをなさいませんでした。
主イエスは、弟子たちを「友」と呼んで、愛し、信頼してくださいました。
主イエスは、常に父なる神により頼んでおられ、決して人をあてにしてその働きをすすめられたわけでもありませんでした。
しかし、だからと言って、「去る者は追わず」「わたしから去りたい人は、どこへでも行くがよい」と思っておられたわけではありません。
主イエスから去って行くことが、何を意味するかよくご存知の主イエスは、そのことを悲しく思われたのでしょう。
人が主イエスに出会いながら、主イエスから何も得ないで去って行くなら、なんと残念なことでしょう。
光に背を向けて歩いていけばそこに待っているものは暗闇でしかないのです。
命から離れて行けば、そこには無力な人生しかないのです。
主イエスはご自分から去っていく人々を、心からあわれみました。
そのお気持ちが「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」という言葉に表れているのです。
しかしこの質問は、決してセンチメンタルなものでなく、弟子たちに、「人々は去って行くが、あなた方はどうなのか。本当の弟子として、最後までわたしに従ってくるか」と、主イエスに従う覚悟を問いかけるものだったのです。

教会のインターネット・ホームページの「今月のメッセージ」に「主イエスに質問したいこと」という記事を載せました。私は、そこにこう書きました。『ドイツのハンブルグで、七十ヵ所の学校の七歳から十七歳の千八百二十三人を対象に「もし主イエスが今日ここにおられたら、あなたは何を話したいか、または聞きたいか」という質問をして統計をとりました。その結果は、「なぜあなたは悪魔に問題を引き起こさせるのか」(六八・五%)、「世界にはなぜ金持ちと貧しい人がいるのか」(五三・四%)、「失業者のために何かをしてほしい」(四五・四%)といったものでした。(世界キリスト教情報サービスによる)』(この続きはホームページでお読みください。)どの質問も、現実的で、ドイツの子どもたちならずとも、私たちも、主イエスに聞いてみたい質問ですね。私たちは、数多くの質問を持っています。そして、私たちが真剣に求めた時、主イエスは、私たちの人生に起こってくる数々の質問に、聖書によって答えてくださいました。
ところが、私たちは、「主イエスが私たちに質問したいこと」には、心を留めず、それに答えようとしていないように思います。

聖書には、主イエスが私たちに問いかけておられることばがいくつかあります。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ16:13)
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」(マタイ22:42)
「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」(マルコ10:38)
「あなたは人の子を信じますか。」(ヨハネ9:35)
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25ー26)
「あなたはわたしを愛しますか。」(ヨハネ21:22)
主イエスは、私たちの人生に深いかかわりのあるこれらの質問を、今も、私たちに問いかけておられます。
今、主イエスの質問に、真剣に答えようではありませんか。
主イエスの問いかけに答えることによって、私たちは、豊かな人生へと進み出すことができるのです。

三、ペテロの答え
「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」との質問にペテロが答えます。
ペテロは、十二弟子のスポークスマンのような人でしたから、この時も、十二弟子を代表して、答えたのです。
ペテロの答えはこうでした。
「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
群衆は、主イエスからパンを得られないことを知ると離れていきましたが、十二弟子たちは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」ことを知っていました。
ですから、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」と、言うことができたのです。
多くのユダヤ人は、主イエスが「わたしは天からくだって来た」と言われたのを信じませんでしたが、弟子たちは「私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」と、主イエスが神から来られた特別なお方であることを信じ、受け入れていたのです。

主イエスは、主イエスに従おうとするひとりびとりが、このように、主イエスが神の子であり、私たちの救い主であることを言い表すことを願っておられます。
主イエスは、主イエスの弟子に、他の何を知るよりも、主イエスが私たちにとってどのようなお方かを知るように、他のどんなことをするよりも、主イエスへの信仰を言い表すことを願っていらっしゃるのです。

最初にお話ししたように、主イエスが話題の人だから、みんなが主イエスについて行くからというのでなく、あなた自身の決断で、主イエスを信じることを求めておられるのです。
主イエスの弟子には、主イエス・キリストを自分の救い主として自分の心と人生に迎える、決断が必要なのです。

日本では戦後「キリスト教ブーム」が起こりました。
神社の境内やお寺の敷地にも、テントが張られ、多くの人々がキリストの福音を聞きました。
それによって多くの教会が誕生しましたが、「キリスト教ブーム」は長くは続きませんでした。
最初は教会に大勢集まっていた人々も、ひとり減り、ふたり減り、人々は教会からも、神からも離れていきました。
歴史のある教会はどこでも、昔は礼拝堂がいっぱいだったとか、いすが足りないくらいに子供であふれていた。などといいます。
しかし、いつしかそれらの人は教会からいなくなってしまいました。
それは、主イエスがたとえ話で話されたように、日本の精神的な風土が「岩地」や「いばら」のようで、なかなかクリスチャンが増えず、教会が育たなかったのです。
岩地に蒔かれた種は、芽を出しはしますが、土が薄いために根をはることが出来ず、日が昇ると枯れてしまいました。
主イエスは、これは困難にぶつかって、すぐにくじけてしまうことだと言われました。
日本は、信仰を保つにのに、難しい国です。
世界でもトップレベルの技術を持っているのに、古くからの習慣が人々をしばりつけています。
頭でっかちの進化論に縛られています。
それで、信仰を求めていくうえでの困難にぶつかると、そのために信仰の思いを捨ててしまった人が多くいたのです。
いばらの中に蒔かれた種は、最初は芽を出し、根を持ちました。
しかし、いばらが成長すると、その勢いに負けて、実を結ぶことができませんでした。
主イエスは、「いばら」とは「この世のこころづかいや富の惑わし」のことだと言われました。
日本が戦後の復興を果たし、物質的に恵まれてきた時、人々は霊的、精神的なことよりも、物質を追い求め、金銭を崇拝するようになってしまいました。
それがつい十数年前のバブルの時代まで続いたのです。

しかし、そのバブルもはじけて、日本は、混迷の時代に入りました。
いろいろな新興宗教が起こり、多くの人々はそれについて行きました。
どれも人々を救うどころか、人々の心を奴隷にし、その人生を狂わせ、あるものは社会を破壊するものになりました。
先日松本サリン事件のドラマが放映されていましたが「オウム真理教」の「サリン事件」はその典型です。
今、人々は、何を求めて良いのか、どこに向かっていけばいいのか、誰についていけばいいのか分からずにいるのです。
しかし、聖書によって、主イエスを知り、主イエスを信じた私たちは、どこに行けばいいのか、誰についていけばいいのか知っています。
私たちは、ペテロと同じようにこう言うことができます。
「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
主イエスのところに行くこと、主イエスに従うことがその答えです。
私たちは、キリストの愛に包まれています。
キリストの愛を知っているのです。
特権には責任が伴いますが、与えられた責任を見落としてはなりません。
恵まれすぎて、真剣に信仰に取り組まないで終わってしまわないよう、注意しましょう。
それに、私たちは多かれ少なかれ、心の中に「岩地」や「いばら」を抱きかかえたままかもしれません。
そんなことを考えると信仰を持つのが難しくなってしまいますが、神には、その岩地を砕き、いばらを焼き尽くす力があるのです。
神のことばが私たちのこころに根をおろして、確かな実を結ぶようにしてくださるのは神です。
実際、日本にも、神のことばを輝かし、積極的に伝道しているクリスチャンや教会が多くあるのです。
ですから、私たちも神の力をいただいて、ペテロと同じように主イエスにお答えしましょう。
「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」



月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
誰のところに遣わされるか ヨハネ6:66-69 2009/7/5 日本ナザレン教団 成田キリスト教会/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる