日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 平和を望むこのとの召し エフェソ4:1-3 2009/8/9 

<<   作成日時 : 2009/08/09 12:09   >>

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64年前の今日、長崎に原爆が落とされました。
昨日は約5000個のキャンドルを周囲に並べて火をともす「平和の灯」のイベントが行われたそうです。
原爆症の訴訟が終結に向かっているそうですが、いまだに戦争が終わっていないということなのでしょうか。


人間はどうして戦争したがるのでしょう。
支配欲・独占欲、目的のためには手段を選ばない思い上がりがそうさせているのではないでしょうか。
日本は今、過去の戦争の傷みを知らない者たちが、再び戦争する国にしようと躍起になっています。
日本が過去に侵略戦争をしたことは口先で認め謝罪していますが、戦争責任を果たしていないのは事実であります。
そもそも、戦争責任を人間が果たすということ自体無理なのかもしれません。

1節は口語訳では「主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、」と、「召し」と言うことばが出てきます。
いったい何に召されているというのでしょうか。
この書き出しの「さて」ということばは、原語では「それゆえに」ということばが使われています。
つまり1章から3章まで書かれてきた内容を受けて、「だから、そのように召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と言っている訳です。
エフェソ書は3章までが教理を教え、4章からは実践を教えています。

3章までの内容を一言で言いますと、「あなた方は罪人であったが、救われて教会の一員になった」ということです。
その罪の具体的なことにつきましては、たとえば2章の1−2節で、次のように言われていました。
「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」。
「死んでいたにもかかわらず歩んでいた」と言うのですから、言わばゾンビのような存在だったと言わんばかりなのです。

しかしそんなおぞましい存在だったものが2章21節22節では、「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」といわれています。
このこそことパウロが1章から3章までかけて教えている、罪と救いについてです。
水曜日の学びでも、悪いことばかりしていた王が、悔い改めて神様の祝福を受ける、という歴史を学んでいます。
それと同じようにこれが「エフェソの教会員たちへの召し」だということができます。
ゾンビが神の御住まいとなっているという召しです。
そして、その実践とは、ゾンビが神の御住まいとなっているという召しにふさわしい生き方のことだと言えます。

それも1章4節によれば、「神は天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」というのですから、その召しは天地創造の前からの召しでした。
神があるときひょいと思いついたとか、気まぐれで選んで言いつけたなどという軽い召しでは、決して決してありません。
永遠の熟慮の結果の、神の永遠の召しだということができます。

ではそれほどの召しにふさわしい歩みとは、どういう歩みなのでしょうか。
2節「柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、」とあります。
それは「柔和」と「寛容」の勧めです。
柔和とは、自分自身の重要性や権威を強く主張しないことだとも言われています。自分がかつてゾンビであったということをわきまえる者は、決して自分を重要人物だとは思わないでしょう。
そして次の寛容と言うのは、誰かに傷をつけられたときに復讐しようとするのを遅らせるときに使われる言葉だそうです。
自分の重要性を主張しなければ、その自分が傷つけられてもたいしたことがないことですから、かっとくることもないということです。

かつて自分がゾンビであったということを覚えれば、寛容にならざるを得ません。私たちは2章の1,2節のかつての自分の姿を忘れるとき、謙遜の道からはずれてしまいます。

パウロは「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。」とあるところで書いています。
そういういろいろな弱さを通して実は自分の魂の貧しさというものをもまた意識させられながら、生かされているということがあるのです。
私たちの弱さというものは、自分がいかに醜く貧しいものであるかということを、いつもおぼえさせられて謙遜になるために、あえて神が与えてくださっているものでもあるということなのです。

自分が軽く扱われることでかっと来るとき、その人はそもそも自分がゾンビであったということを忘れているときなのです。

かつて総理大臣で、私はあなたとは違うんです、といっておやめになった人がいました。
自分がどれほど重要な人物であるかということを日ごろ思っていると、こういう目も当てられないことが実際に起こしてしまうことになるのです。
カルヴァンは「人は謙遜から始めなければ、温厚柔和を説いても徒労であろう」と言っています。
つまり謙遜なくして、他の徳はとても無理だということです。
ダビデのように、「母は私を罪あるものとして身ごもった」という、人間の罪の原点を忘れないことです。

そして「愛をもって互いに忍び合う」ことだといいます。
愛とは何でしょう。
この文脈で考えますと、相手の人はまさにかつてゾンビであった事。
それほど悲惨な中を生きていたこと。
今もそのことを覚えさせられるために、神によって弱くさせられていること。
そのことを知った上で、その貧しく弱い人のために、自分を犠牲にしていくことではないでしょうか。
そしてまたお互いに、その弱さ醜さ貧しさを、耐え忍び合うのです。
教会を造るために神が選ばれた材料は、まさに生まれながらの罪人であり、愚かさと弱さをかかえている者であるということを、よくよく知っておくべきです。
その上で「愛をもって互いに忍び合え」ということです。

そして3節「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」でした。

ここで言う「霊による一致」とは何でしょうか。
「霊」つまり、御霊は何をしてくださるお方でしょうか。
それは、イエス様のことを教えてくださる働きをしていてくださいます。
イエス様を知るということは、つまりは自分の罪を知らされ、そしてその救いを知らされることです。
ですから御霊の一致とは、そのような御霊の働きによって、教会員が自分の罪深さをみなで知り、またそんなものを救ってくださったイエス様をみなで知る。
そういう一致を保てというのです。
罪と救いを共々に共有する、ということです。
私とあなたは、お互いに罪人である、そしてまたお互いにイエス様によって、救われている、ということを理解しあうことです。
そういうことをいつも確認していくことが、御霊の一致を熱心に保つということに通じます。

「平和のきずな」とありますが、「平和」とはまず神との平和が前提です。
かつて神に敵対してゾンビのように歩んでいた者が、キリストの赦しによって神との平和を頂いている。
そんな者同士が教会員同士である、ということです。
あの1万タラントを赦された男が100デナリ借金をしている男の首を絞めたとき、はっとして、「自分は主人から1万タラントの借金を赦されていた」ということを思い出せば、必ずその首を絞めていた手は相手の首から離れたはずです。

そのように生きることが、神の召しにふさわしい生き方である、とパウロは勧めているのです。
つまり私たちが召されているのは、「教会員はお互いに赦し合わなければいけない」ということを、学んだり知ったりすることだけではない、ということです。実際に赦し合うこと。
それが召しなのです。
その召しのために歩めと、今朝勧められているのです。
つまり、神が永遠の昔から私たちを召していてくださるのは、私たちが赦しの神学をより深めて頭でっかちの神学者にならせるためではありません。
実際に赦し合いを実践していく者に召しておられたのです。

パウロは冒頭で、「主の囚人である私はあなたがたに勧めます。」と言いました。ローマの牢獄に閉じ込められていることも、異邦人伝道に召されてみ言葉を異邦人に伝えたからに他なりません。
パウロはただ忠実に、主の召しに従っただけでした。
主に捕えられ、主の奴隷となっているという意味で、そのことを「主に結ばれて囚人である」と表現しています。
その結果がたとえどんなにつらくてもそして屈辱的でも、しかしそのようになることが主の囚人としての結果なのだから、喜んでその境遇を受け入れる。
この表現からそんな思いが伝わってきます。
皆さんは、自分が主に結ばれた囚人だ、ということができるでしょうか。

互いに赦し合うということを実践していくようにと、あなたがたは捕えられて、そこから逃げることができない囚人なのです。
その囚人らしく、召しにふさわしく歩め、ということなのです。

自分はあの人に傷つけられたと思う以上に、実は自分が他の人をどれだけ傷つけていることか。
そしてだからこそ「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」ということに生きることです。
それが神の御住まいであるキリストのおからだである、ということです。

パウロが奨めるように、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努め。」たいと思います。
私たちの貧しさが平和のきずなを破壊し一致を損なっているのであれば、ここでこそわたしたちは目を覚まし互いに協力して、平和を創造するために歩み寄りたいと思います。

神の御住まいとして召された者にふさわしい歩み方、それを主の囚人として実践していきましょう。



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