日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 潤おされる心 2009/8/30 ヨハネ7:38-39

<<   作成日時 : 2009/08/30 16:55   >>

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先週は、この少し前の個所からイエスと兄弟たちの対話、そして「イエスのとき」を学びました。
それは、仮庵の祭りが祝われようとしていたころでした。
仮庵の祭りというのは、秋祭りで、イスラエルの男子はみなエルサレムに集まり、たいへんな賑わいを見せました。

その仮庵の祭りでは、人々は布や木の枝で作った小屋を建て、そこで一週間をすごすそうです。
仮の庵、庵という字は小屋という意味です。
イスラエルがエジプトを脱出して荒野を旅した時、テントに住んだことを記念するためでした。
この時期は、穀物やオリーブ、ぶどう、いちじくなどの収穫の時期で、そうした収穫の時には、人々はぶどう畑の真中に小屋を作って過ごしましたので、仮庵の祭りはそのこととも関連がありました。
日本の農業とはスケールが違いますね。
それは、一年の収穫を喜び祝う楽しい祭りでした。
この祭りではさまざまな儀式が行なわれましたが、この祭りに特徴的な儀式は、祭壇に水を注ぐ儀式でした。
祭司は、朝、夕の犠牲をささげる時、シロアムの池に行って金の「かめ」に水を満たし、それを神殿に運び、ラッパの伴奏でイザヤ書12:3にある「あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む。」という言葉を歌いながら、その水を祭壇に注いだのです。
それは神が、荒野を旅したイスラエルに常に水を与えてくださったことを覚え感謝するためでした。

これは一種の雨乞いであったとも考えられています。
この時期は水のかれる時期ではありませんでしたが、この地方の人は水がかれる時期があり、どんなにそれが恐ろしいか知っていました。
水がなければ人間は生きていくことができません。
そんな大切な水を用いて、神様に私たちに水を切らさせないでくださいとお願いしたのです。
渇きに対する不安、滅びに対する恐れを主イエスはごらんになられたのです。
祭司たちがおこなったのは、そんな祭壇の回りに水を濡らすという儀式でした。

イエスが大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言ったのは、まさにそのような儀式の執り行われている時でした。

しかし、イエスが与える水は、「生ける水の川」となって流れ出すのです。
たとえそれが祭司や宗教家であっても、人間から受け取る水はただの水であり、それは、決して人々の渇きをいやすことはできないのです。
私たちの渇きをいやすのは、イエスが与える水だけです。
イエスは「だれでも渇いているなら」とおっしゃいました。
この「渇き」は肉体の渇き、のどが渇きというよりはむしろ、精神的な渇き、たましいの渇きのことでした。
肉体の渇きは、誰もが感じます。

水は私たちの身体を維持するためになくてならないものです。
多くの人たちのからだの半分以上は水分でできています。
水分が少なくなると、最初は、喉が渇き、次に疲れを感じます。
もっとなくなると発熱し、様々な病気を引き起こします。
局限に達すると、発狂したりもするそうです。
私たちのからだは渇けばそれに反応するのです。
しかし、精神の渇き、魂の渇きは、肉体の渇きのようには、目に見えてきません。肉体の渇きと違って、気を紛らわせたりして思いをそらせたり、渇きそのものを否定することができるからです。
しかし、渇きを満たしておかないと、私たちの生活にひびが入り、人格がしなえ、そして、魂の死にいたります。
多くの人は、自分の価値を見失い、それを求めて渇いています。
日本の若者たちが、定まった生活ができないで、社会に背を向けて、自分だけの世界に閉じこもっているのは、自分の価値を知らないからです。

また、多くの人は、孤独の中におきざりにされています。
表面ではつきあえる友達はいても、自分の心を開いて見せることができないのです。
最近では、一緒に弁当を食べてくれる友達がいなくて、トイレで弁当を食べる人がいるそうです。
人を愛することも、人から愛されることもできないで、本当の愛に渇いているのです。
そればかりではありません。
私たちのたましいの奥深くには、神への渇きがあります。
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42:1)とありました。
どの人も、魂の奥底では、神を知りたい、造り主である神に出会いたい、たましいの親である神に帰りたいという願いがあります。
誰も、まことの神を教えてくれる人、神のもとに導いてくれる人はいないのです。

しかし、イエスは、たましいの渇きを持つ人を「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と招いておられます。
イエスはまず「まずわたしのところに来なさい」と言われました。
四の五の言わずに、とりあえず、来い、とおっしゃるのです。
主イエスのところに行くと、なにかいいことがあるのでしょうか。
マタイ11:28でもイエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」と言われました。
イエスは、「ここに行けば渇きがいやされる。あそこに行けば疲れがいやされる。」とは言わず、「まずわたしのところに来なさい。」と呼びかけてくださるのです。

その、この人のところに行けば、「生きた水」がいただけるというのです。
ヨハネの福音書は、いくつかのキーワードがありますが、今日の箇所の中にある「生きた水」、「流れる水」というのもそのひとつです。
しかも、その「生きた水」が「その人の内から」流れると言うのです。
聖書に書かれている「その人」とはもちろん主イエスのことです。
そこにはエルサレムの神殿で行なわれているお祭りよりも、まことがある、とおっしゃるのです。

主イエスがこられてからは、エルサレムの神殿はもういらない、律法に縛られる必要なない、
主イエスこそがこの地上における神の臨在であるからです。
主イエスの居られるところならどこでも神をあがめることができるからです。
そこから神の命が流れてくるのです。

イエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と言われ、続けて「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言いました。
イエスに来るものはその人の渇きがいやされるだけでなく、他の人をもうるおす水が流れ出るというのです。イエスは「聖書に書いてあるとおり」言いましたから、そうした言葉が聖書のどこかにあるはずです。
調べてみましたら、イザヤ44:3にこうありました。
「わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。」
神の民に聖霊が注がれることは長い間の聖書の約束で、聖書のいたるところにあります。
またエゼキエル書47章には、神殿のから流れ出る水のことが書かれています。
その流れは最初はくるぶしがひたる程度の小さな流れなのですが、やがて、水はひざに、そして、腰に、さらにはもう、泳げるほど深く、大きな川になっていきます。
その川には多くの魚が住み、その両岸には木が茂り、その川の流れていくところで、その回りのものを生かしていくのです。
パレスチナにある川は、とても小さな流れしかありません。
ユダヤの民はそもそも大きな川など見たことがない。

イエスが「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言ったのは、このことです。
私たちひとりびとりが、聖霊の宮になり、そこから聖霊の恵みが、大きな川のように流れ出すのです。
それは蛇口から水がチョロチョロ流れ出すようなものではありません。
清らかな水をいっぱいたたえて流れる川を想像してみてください。
私たちの人生が、豊かな流れのような人生になると、イエスは約束してくださったのです。
仮庵の祭りでは祭司が祭壇に水を注ぎました。
しかし、注がれた水はすぐに乾き、決して大きな流れにはなりませんでした。
しかし、イエス・キリストが、ご自分のからだを、私たちの救いのための犠牲として、霊的な祭壇に捧げられました。
するとそこから、聖書の約束のとおり、私たちを生かす聖霊の川が流れ出たのです。
キリストは十字架で救いのみわざを成し遂げ、復活されて、父なる神のもとに帰り、そこから、キリストを信じる者たちに聖霊を注ぎました。
イエスこそが、聖書に約束されていた聖霊を私たちにくださるお方です。
イエスが「聖書に書いてあるとおり」と言ったのは、イエスによって、この聖書の約束が成就し、私たちが豊かな人生を送ることができるようになったからです。
この救いは、十字架によってなされるという予告です。
19:33,34にあるように十字架上の主から血と水が流れ出たという記事も、このことをいようとしています。
惨めな十字架の死、誰もが目を背けたくなるようなそんな十字架から流れ出た水が大河になるというのです。

聖書が約束し、イエスが私たちに与えるものは聖霊です。
神の恵みや、力だけでない、恵みの源、力の源、神ご自身である聖霊です。
聖霊は、キリストを信じる者のうちに住んでくださいます。
キリストによって私たちは罪の中から買い戻されて神のものとなり、私たちは神の中に生きるのですが、それだけでなく、聖霊によって、神が私たちの中に生きてくださるのです。
神は外側から私たちを教え、導くだけでなく、私たちの内側にいて、私たちに力を与え、支えてくださるのです。
そして、聖霊が私たちの内側にいてくださる時、私たちは聖霊によって他の人々を潤すようなものを持つことができるのです。
キリストを信じた者にはすでに聖霊が宿っておられます。
しかし、すべての信仰者から、教会から聖霊の恵みが流れ出ているとは限りません。
聖霊の恵みにうるおされ、それを人々に分け与えるためには、内に住んでいてくださる聖霊に自分の思いを、生活を導いてくださいと、祈る信仰が必要です。
新改訳聖書の注に「いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい。」とありました。
日ごとに主イエスのもとに来て、聖霊の恵みにより頼む姿勢が求められています。
ある人の本には、ここは「渇いている人を、わたしのもとに来させなさい。」とも訳すことができるとありました。
表面ではそんな顔を見せることはなくても、誰もが神を求めています。
たましいの渇きを覚えている人々をイエスのもとにお連れするようにとの呼びかけでもあるのです。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
この約束を、多くの方々とともに体験させていただきましょう。


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