日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 命のパン 2009/06/28 ヨハネ6:22

<<   作成日時 : 2009/08/02 21:56   >>

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ヨハネ福音書6章は、イエスが5つのパンと2匹の魚で5,000人以上の人を満腹させた、という話から始まりました。
先週は、「私はある」という間に挟まれた箇所を学びましたが、また「パン」のお話です。

緊急用の非常持ち出し袋の中に、パンの缶詰があります。
そのパンの缶詰は「命のパン」という商品名です。
後でお見せいたしますが、緊急時には本当に「命のパン」だなぁと思いました。
私たちの周りには、パンがたくさんあります。
ヨークマートに行けば、数社、数十種類のパンが売られています。
その先のファミリーマートにもあります。ヤックスにも有ります。
私たちの周りに「パン」がなくなることはありません。
先日、セブンイレブンの賞味期限切れのお弁当についてニュースでやっていましたが、私たちの周りを見回すと、有り余るほどのパン、肉の糧があふれています。




先日学んだ箇所を挟んだ、その翌日の話が22節から始まります。
そこで「パン」についてのイエスと群集の間の問答があります。
「パン」は人のいのちを生かすもののシンボルです。
イエスと群集の間に交わされる対話で、ずっと問われているのは、「人を真に生かすものは何か」ということです。
35節でイエスは「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と宣言することになります。
なお、ここでは「イエスのものに来ること」と「イエスを信じること」は同じこととして考えられています。
が、これはきょうの箇所(37節)でも同様です。
「イエスが人を真に生かす『パン』である」とはどういうことでしょうか?
そのことを深く味わうために、5つのパンの出来事を振り返って見ましょう。

(2)このパンと魚の出来事は4つの福音書すべてが伝えている出来事です。
パンを分け与えるイエスの動作をヨハネ福音書は次のように伝えます。
「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」
パンを配るときのイエスの動作には、目だった特徴があります。
「パンを取る」のは「感謝の祈りを唱える」ためですが、まずこのパンについて神に感謝するのです。
それはただ、「ここにパンがあってラッキー」というのではありません。
「これは神が与えてくださったパンだ」ということを思い起こさせる動作です。このパンをとおしていのちの源である神とのつながりを味わうのです。
そして「分け与えられた」と続きます。
マルコ福音書ではこの箇所は、「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」となっています。
「感謝」と「賛美」は、ヘブライ語やアラム語ではもともと同じ言葉です。
ヨハネの「分け与える」とマルコの「裂いて、渡す」は同じ動作です。
このことに倣って私たちの教会でも丸く薄いパンを生産式で用いていますが、当時のパレスチナのふつうのパンは大きな円盤型のものでした。
このパンを裂いて、皆に配るのです。
この動作をとおして示されるのは、一つのパンを分かち合って食べる人と人とのつながりです。
イエスの食事の特徴は、いつもこうだったと言えるでしょう。
たくさんのパンがあるからいのちが豊かに満たされる、というのではなく、わずかなパンでも、そのパンをとおして神とのつながりを確認し、一つのパンを分かち合う人と人とのつながりを確認し合う。
ここにこそほんとうのいのちがあるのです。

聖餐式の原型は、目に見えないけれども、今も私たちと共に居られる主イエスが共にいてパンをさき、私たちに分け与えてくださるということです。
そしてそれは、来るべき世の終わり―再臨―には再び主イエスが見える形で私たちの食卓の中心においでになり、パンをさいて分け与えてくださるということの希望であります。

それは、孤立したいのちではなく、神とのつながり・人とのつながりの中にあるいのちこそ、イエスがその生涯すべてをかけて示したものだったと言えるでしょう。
「復活」とは、最後の最後まで徹底的に神に信頼し、すべての人を愛して生きたイエスのいのちが、十字架の死で終わってしまうようなものではありません。
死を超えてもっと大きないのちとして完成していった、という信仰を表す言葉です。
それは「神ご自身のいのち」と言ってもよいでしょう。
イエスが言う「永遠のいのち」も、地上のいのちのレベルを超えた「永遠の神ご自身のいのちにあずかること」だと言ったらよいでしょう。
死という厳しい現実を前にしてもなお、わたしたちはこの聖書のメッセージに希望をおくことができます。
ここに信仰と愛をもって生きるわたしたちの生き方の根拠があるのです。

37節の「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」という言葉は、まるで神が前もって信じる人と信じない人を決定されているかのような言い方です。
44節にも「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」という言葉があります。


このような表現は、救いの根拠は人間にあるのではなく、人間を救おうとする神の意志にある、ということを強調する表現です。
神の主導権、イニシアチブを感じます。
イエスを信じるかどうかの決断は人間に任されています。
しかし、人が信じるとすれば、「それは人間の力によるのではなく、神が信じるようにしてくださったのだ」と感じる、そのような体験がこの表現の背景にはあるのだと思います。
同じ37節の「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」は、わたしたちの教会共同体を考えるとき、たいへん示唆に富む言葉ではないでしょうか。
このイエスの心をわたしたちの教会はどのように生きることができるでしょうか。
具体的に、貧しい人、病気の人、外国から来た人、高齢の人、さまざまな障がいのある人、子どもや赤ん坊、これらの人々を決して追い出されませんでした。
それは「一人も失わない」共同体のあり方について考えてみよ、と問われるのです。

先ず、永遠のいのちに至る道について。
35節にイエスは、「わたしがいのちのパンです」と人々に言われました。
その背景にあるものに注目したいと思います。
それは、イエスが願っていることと、彼らの関心事が違っていたということです。

ヨハネのこの箇所は、新約聖書の中で重要な箇所の一つだといえます。
それは主イエスご自身が「わたしは命のパンである」と言われたことであります。
繰り返しになりますが、
1. パンは命を支えるものだからです。
それなしには命を存続できないものであります。
2. 命という言葉によって単なる存在以上のことが意味されているからです。
命は神との新しい関係、わたしたちが既に聞かされてきた、信頼、交わり、従順、愛の関係です。
3.そして、その関係は、イエス・キリストによってのみ可能になります。イエスなしには、またイエスから離れては、誰しも神との新しい関係に入ることはできません。
4. イエスが命を与えるのでだからです。
イエスがいなくても人は生きていくことができますが、それは本当の命とはいえないからです。
5. イエスが命を与えるなら、イエスが命の本質であるなら、彼を命のパンとして表すことができるのであります。イエスなくしては真の命が始まることも存続することができない、本質そのものであります。
イエスを知り、彼を迎え入れるなら、生きていくうえでの飢えや渇きはなくなります。
わたしたちがキリストを知るとき、また彼を通して神を知るとき、肉体は満たされ、霊的な祝福を受けることができるのです。


パンを食べて満腹した群衆はイエスのもとに集まって来たのです。
彼らの関心は満腹でした。
お金だったといえるかもしれません。
また、イエスを王として政治的な解決を求めていたのです。
あるいは、行いでした。
善い行いをしたら祝福され、行いのない者は祝福されないと思っていたのです。しかし、神のわざは生まれつきの盲人の上に注がれるのです(ヨハネ9:1-3)。
なんの行いもない者に与えられるのが神の恵みです。
神のわざとは、「神が遣わした者を信じること」(29節)だとイエスは言われました。
神のわざとは、イエスを信じることです。

行いとはいつか尽きてしまうものです。
この世のものはやがて朽ち果て、途絶え、消えていきます。
しかし、キリストのもとに行く者は決して飢えることもなく、渇くこともありません。
この世のものは、いつか無くなっていきます。
この世にある資源はやがて尽き果ててしまいます。
しかし、キリストが与えてくださるものは、いつまでも飢えることもなく渇くこともありません。
それは、キリストは永遠に変わらないからです。
「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」(14:19)。

次に、父のみこころについて
主役は、父なる神です。
御子イエスはいのちのパンですが、その御子をこの世に遣わしてくださったのは父なる神さまです。
ここに三位一体なる神からの祝福があります。
私たちは、この父なる神を覚えて、もっと感謝すべきです。
父なる神は、あわれみの神です。
イエスは十字架にかかられましたが、実は父なる神が御子イエスを十字架にかけられたのです。
キリストの十字架は、父なる神の十字架であったのです。
父のみこころは、御子を十字架につけることでした。
そして御子を信じる者に永遠のいのちを得させることです。

「父が与えてくださった者」とは、召された私たちです。
父が与えてくださった者を、キリストは決して拒まず、見捨てることがありません。
父のみこころは、キリストにある者を終わりの日に、よみがえらせることです。父のみこころは、私たちを神の国へ導くことです。
神の国の特色は、いのちに溢れた永遠の生命です。
それともうひとつの特色は、豊かさです。
三十倍、六十倍、百倍、さらに千倍の豊かさが約束されています。

イエス・キリストが与えられるのは、時間の中の命と永遠の命です。
イエス・キリストを受け入れるとき、人生は単なる存在ではなくなり、喜びと平和に満ちたものになります。
そして、終わりの日にも恐れが生じないのです。


カルバンはこう言いました。
「信仰は、単にキリストをはるか遠く臨み見るのではなく、キリストを受け入れ、抱きしめ、わたしたちのものとして、自分のうちに住まわせようとするものなのです。信仰は、彼に合体させ、わたしたちが彼と一つになるようにするものなのであります。」
信仰がしばしば感覚的になってしまったり、理性でとらえてしまったりします。
生活をかけた全身全霊のものでなくなってしまっていることを、この言葉によって反省させられます。
わたしたちは、「わたしに従ってきなさい」という主イエスの言葉に、決断して神の元へと歩んでゆく、具体的な行動を伴う信仰を持ち続けていきましょう。



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