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zoom RSS 恵みを分かち合う群れ 2009/06/14 ヨハネ6:1-14

<<   作成日時 : 2009/06/14 20:23   >>

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今日のテキストは、五千人の人たちに主イエスが食事をお与えになった、「5000人の給食」と呼ばれるたいへん有名な箇所です。


お読みになってこのお話の規模の大きいこと、また、非常にドラマテックな話だと思われると思います。
4つの福音書にはさまざまな奇跡の物語が記されています。
この五千人の給食だけが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に出ています。
しかしこれらがみな同じというわけではなく、その福音書の性格によっていろいろと違います。
何度がお話しておりますが、4つの福音書はそれぞれに性格があります。
福音書記者が何を語りたいかによって同じ奇跡物語も描き方が違うわけです。
すこしだけ特徴を申し上げますと、マタイやマルコは状況が細かく描かれていますが、このヨハネは主の奇跡にだけ関心があります。
たとえば、マルコをみますと、主は飼う者のない羊のような有様を深く憐れんでいろいろと教えられたとあり、そのために夕方になった、とります。
一方マタイでは、この群集はかわいそうだ、もう3日も私と一緒にいて何も食べていないのだから、とあります。
その間、身体の不自由な人や目の見えない人を癒されたとあります。
しかしヨハネヨハネにはそんなことは何も書いてありません。
むしろフィリポを試し、奇跡を行ないたもうたことに重点があります。
後日取り上げますが、26節以降にある主の説教の実例として語られています。

この物語は、非常に証人が多い事例です。
単に目撃者が多いのではなくて、多くのものに変化が現れたという点でも、ほかの奇跡の記事とはスケールが違います。
これは、読む者に与えるインパクト効果だけを目的としているのではありません。
そこには非常に深い、ヨハネで言いますと“しるし”があることを私たちは見落としてはならないと思うわけです。
ヨハネ福音書には、数えますと奇跡の物語は7つしかありません。
マルコ福音書は全体の三分の一が奇跡の物語であると言われています。
細かく小節を数えると、全体の31%が奇跡に関係のある文だそうです。
それと比べると、ヨハネ福音書は、沢山ある奇跡物語から意図的に7つを絞って記しているのでありまして、6章はその“しるし”を巡っての、お話が次々と展開されていくという箇所です。
他の福音書では、この奇跡をあらわす言葉は、しるしとは言っておりません。
これはヨハネ独特の言葉であります。
この奇跡という言葉ではなくて、ここには“力あるわざ”、そのように記されているわけです。
この“力”と言うのはどういう意味かといいますと、デューナミスという言葉、英語ではダイナミックという言葉に通じます。
そのダイナミックの語源に当たるドゥーナミス、ダイナモン、そのような意味であります。
普通の人間にはとうてい行い得ない、超人間的なそういう働きをここで指しているのです。
ところがヨハネ福音書では、こういう“力あるわざ”とか、そういう言葉は一切用いられず、“しるし”という言葉が繰り返し用いられているのです。
ここがヨハネ福音書と他の福音書とでは、たいへん違いのある点なのです。
違いがあるということは、特色があって、そこには独特のメッセージが含まれている、そういう意味なのです。
このヨハネがしるしという場合には、どういうことを言っているのでしょうか。
これは勿論、奇跡を指しているのでありますが、私は、この現代における奇跡というようなものを考えてみますと、いろんなプラスイメージとマイナスイメージがあるのではないかと思います。


イエスは「山」に登り、群衆がイエスに向かって押し寄せて来ています。
そして、山でイエスは人々と共に「食事」をしています。
何度も私の説教で繰り返していますのでお気づきになったと思いますが、「山で神と食事をする」これは、出エジプト記19章、24章にあるシナイ山のイメージが重なってくると思います。
モーセに引き連れられたイスラエルの民が、シナイ山で神と契約を交わして食事をしています。
それは、神のみことば、すなわち、契約と律法を神から受けることでした。
ですから、「イエスを囲んで皆が座る」こと、それは旧約聖書の「旧い契約」を思い起こさせながら、新約の「新しい契約」の締結である最後の晩さんの先取りをしていると思います。
そして、もう1つ大切なイメージがついてきます。
それは、「青草の上」に皆が座っている、ということです。
青草は、聖書のなかで、祝福のイメージです。
羊や牛は草の生えているところに羊飼いたちに連れて行かれ、草を食べる。
そして、安心する。
人間も同じように、神に導かれて「青草の生えているところ」に座ります。
青草の生えているところ、それは神の祝福を表す場所です。
ですから、申命記32章には、モーセが次のような歌を歌っています。
モーセは、イスラエルの全会衆にこの歌の言葉を余すところなく語り聞かせた。
天よ、耳を傾けよ、わたしは語ろう。
地よ、聞け、わたしの語る言葉を。
わたしの教えは雨のように降り注ぎ
わたしの言葉は露のように滴る。
若草の上に降る小雨のように
青草の上に降り注ぐ夕立のように。
申命記では、モーセが、神のみことばが雨のようにわたしたちに降り注ぐ、と語ります。
雨上がりのきれいな緑の情景を重ね合わせています。
もし、イスラエルのシナイの契約(出エジプト記)と、今、読んだ申命記の箇所が今日の福音の背景にあるとすれば、「青草の上に座る人々の上に、みことばが夕立のように、降り注ぐ」と言ってもいいと思います。
それは、配っても配ってもなお余るパン。
キリストの体、それはみことばのようです。
今日の箇所を丹念に読んでいくと、次のことに気づくと思います。
弟子たちは、主イエスに、5000人の人を前にして、「パンが足りません」と言います。
そして、主イエスは、どのように答えるかというと、遠く別のところにパンを買いに行ってもむだだ、ということを弟子たちに諭らせているようです。
なぜなら、神のみことば、神から与えられるパンは、テキストの福音を見ると、隣に立っている子どもがもう持っています。
みことばも、神から与えられるパンも、実は、すでに与えられています。
私たちのごく身近にすでにある、ということにお気づきになったでしょうか。
そして、このパンがわずか5つしかなくても、人々は満足しました。
現代を生きる私たちには情報や出版物、言葉があふれかえっていますが、私たちに必要なのは「神のみことば」です。
それは、一言であっても、手元にありさえすれば、私たちのこころは満足できるのではないでしょうか。

はる姉妹の前夜式・葬儀ではたくさん御言葉を読みました。
地上での礼拝は、ただ一昨日、昨日だけでしたし、ご自身で聖書を読むこともできない状況でしたから、
私には、はるさんに聞いていただきたい御言葉がたくさんあったからです。
脈略もなく、言葉は悪いですがまるで絨緞爆撃のように浴びせかけるようにみ言葉を読みました。
少しでも多くのみ言葉に触れてほしいと思いました。
これは人間的な思いだったかもしれません。


「パンが足りない、どうしよう」
困難を前にして、弟子たちは別の何かに頼って、パンを買って来る、そんな解決をしようとしました。
どこで買えばいいか、すでに迷走してしまっているといえます。
そんな弟子たちは、結局自分を見失ってしまい、どこかの誰かに依存するようになります。
しかし、主イエスは、手元にすでにある5つのパンで、この困難を引き受けていこうとしています。
弟子のように、誰かに依存するか、主イエスのように、今、手元にあるパンで、困難を引き受けていくかどうか。
その別れ道は、次のことにかかっていると思います。
わずかであっても、本当の恵みが私たちにすでに与えられている、それに気づけるかどうか、だと思います。

これは、実は3章のニコデモの問題と同じです。
目先のことだけに、体裁に、付け焼刃的な考え方ではないでしょうか。
人々は問います。
神の業を行うにはどうしたらいいのかと。
それは、つまり神の国に入るにはどうしたらいいか、生きるためには、死なないためにはどうしたらいいかということです。
そのような問いに対して主は、「新たに生まれなければ神の国には入れない」とおっしゃいます。
また、肉はあくまで肉で、人間は霊と水から生まれなければいけないとおっしゃいました。
この霊と水とはイエス・キリストの十字架による許しを指すのは言うまでもありません。
少し先の29節で、キリストを信じることが神の業であると書かれています。
それは、イエス・キリストによる罪の許しを心から信じ、これに身をゆだねることです。
そこに人間の根底にある願望への解決があるのです。
この世の与えるものは、この願望には答えないのです。
主イエスこそ唯一無二の「命のパン」だからです。

主イエスは、今手元にある、そこに与えられているパンをこともなげに、「取って」「神に感謝する」ことができました。
果たして私たちは自分たちに、恵みのパン、みことば、主イエスとの出会いが、どこか町に探しに行かなくても、誰かから買わなくても、私たちのうちに、ほんのわずかであるけれども、すでに与えられていることに気づけるでしょうか。
もしそれに気づくことができたら、そしてそれに感謝をささげることができた人は、「<青草の上>に遊ぶ小羊のようだ」ということです。
そういうように今日の福音は語っているように思いました。
天の国におられるはる姉妹、そしていつしか私たちも青草の上であそぶ子羊のように、神のみ元で安らう日のことを、心から望み、感謝の日々を歩みたいと思います。

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