日本ナザレン教団 成田キリスト教会

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zoom RSS 熱心であること ペンテコステ 使徒言行録2:1−47

<<   作成日時 : 2009/05/31 18:16   >>

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創世記11章には、バベルの塔の記事があります。
11章の1節には、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」とあります。
人々は、「天まで届く塔の町を立てよう。」と神様に挑戦して、神様は、彼らの言葉を混乱させて、それぞれにわかる言葉を持つ人々が全地に散らされていったのでした。
ペンテコステの日、いろいろな国から集まっている人々が、自分たちの母国語で福音を聞くという出来事があります。
それは散らされた人々が神の前に回復されたということを現しています。

T・S・エリオットという詩人は、「私の始まりの中に、私の終りが存在する」と言いました。
人生の始まりは、すでにその人の生涯の方向を指し示しているということです。
私たちの人生で、後で重要な意義を持っていることの多くは、私たち自身の誕生において見ることができるということでしょう。
それゆえに、私たちは大きな関心を持って、五旬節における教会の誕生に目を向けたいと思います。

⒈聖霊降臨の現象
使徒言行録2章1節には、「五旬節の日が来て」とあります。
五旬節は、もともと麦の収穫の鎌入れの祝いでありました。
別名「7週の祭り」とも言われています。
7週の祭りは、過越しの祭りから七週を過ごして、50日目から始まる1週間でした。この50日目が五旬節でした。
五旬節は刈り入れの初穂を捧げる祝いの時でした。
ペンテコステという言葉には、もともと宗教的な意味あいはなく単に50番目を意味する言葉のようです。
日本で言うところの「八十八夜」みたいな感じです。

この五旬節の日に聖霊が降り、教会が誕生したのでした。
イエス様が復活から50日目に教会が新しく形造られるということが、このように旧約聖書の律法の中に、既に予告されていたといえるのではないでしょうか。
聖霊が下った時の様子はどうだったでしょうか。
まず、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、」とあります。
御霊と風は昔から互いに類比されてきました。
内面から出て他に向かって言葉を伝える息は、命のしるしとなり、風は見えないけれど、強い活動力をもって全地上の自然に満ちています。
このように御霊は、強い風を思い起こさせるようなざわめきをもっていました。その響きは、天から弟子たちが集まっていた家にはいってきたのです。
次に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。
御霊の第二のしるしは、炎、火でした。
それは、風のざわめきが耳に対するしるしであったように、炎は目に対するしるしでした。
風は命を与える神の息、火は罪をきよめる神の火であるとある注解書は語っています。
集まった人々は、聖霊に満たされてほかの国々の言葉で話し出したのでした。
英語で、母国語をmother tongueといいますが、
舌と訳されたことばは、言語とか言葉を意味しているようです。
この舌は、福音の言葉を語らせる聖霊の働きを暗示しているように思います。
ペンテコステの日には、このような出来事があったことを聖書に記されています。

⒉一つの群れとなる
では、この不思議な出来事を通して、教会はどうなったのかを見てまいりましょう。

120名の者たちが聖霊に満たされ、エルサレムに集まっているディアスポラ、他国に散らされたユダヤ人たちは、この出来事に集まり、自分の母国語で福音を聞いたのでした。
そしてさらに、ペトロの説教を通して多くの人々、3千人の人々がバプテスマを受けたというのです。

イエス様を信じた者の群れは、次の3つのことに熱心でした。
⑴使徒の教え(ディダケー)に熱心でした。
使徒の教えとはイエス様の教えでした。
使徒を通してイエス様のこと、その教えを聞く事が出来たのです。
私たちは今、聖書の言葉を通してイエス様のこと、その教えを知ることが出来ます。

次に⑵交わり(コイノニア)に熱心でした。
多様な人々の群れから、信者として一つの統一された身体が形成されたのです。親睦というようなものではなく、この交わりという言葉には、「共有」という意味もあり、お互いに与えられているあらゆる祝福を共有するというもっと深い霊的な交わりを意味していたようです。

次は⑶パンを裂くことに熱心でした。
食卓の交わりに集まることは、新しい群れ、共同体における霊の働きのもう一つの具体的な目に見える現れでした。
また、食事を共にするということと同時に、聖餐の行為としての意味もあったようです。
⑷祈りに熱心でした。
120名の者たちは、イエス様の約束の言葉を信じて、聖霊が与えられるように熱心に祈りました。
ひたすら祈りに励みました。
彼らは、また救われた人々は聖霊が与えられたからもう祈らないというのではなく、さらに祈りに熱心であったのです。

私たちの成田教会も、聖書のみ言葉に触れること、学ぶことに熱心でありたいと思います。
また、大きな交わり、小さな交わりを通して、ただの親睦で終わるのではなく、神様から与えられた祝福を、賜物をお互いに共有する霊的な交わりをさせていただきたいと思います。
また、大いに食事を共にさせていただきたいと思います。
毎回ご馳走を食べる必要はありません。
私は食事の招待には絶対にお断りはしませんから、共に食事をし交わりの時を持たせていただきたいと思います。
また、月に一度持たれる聖餐式を復活の主にまみえる大切な時として持たせていただき、主の恵みに預かりたいと思います。
また、二人でも三人でも集まって祈るという祈りが、いつでもどこでも自然に行われるようにありたいと願います。

⒊教会の生活
使徒言行録の2章43節に、誕生した教会の生活、信者の生活の特徴が書かれています。

⑴うるわしい交わりの教会でした。
聖書は、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」
これは、いつも一緒にいた、同じ場所で生活したという意味ではありません。
心からの親しい交わりを意味し、信者一人ひとりの心がつながっていたということだと思います。

⑵世間の評判になった教会でした。
評判にもいろいろとありますが、ここでは二つの言葉のうちに、その様子がうかがえるように思います。
43節の「すべての人に恐れが生じた。」ことと、47節の「民衆全体から好意を寄せられた。」ということです。
「恐れ」と「好意」とは一見すると正反対のことのように見えます。
しかし、ここでいう「恐れ」とは、恐怖という意味ではなく、尊敬ということばにも置き換えられるようです。
リビングバイブルでは、「恐れ敬う」というひとつの表現であらわしています。
従ってこれは、教会が、信者の群れが周囲の人々から尊敬と好意を持って関心を寄せられていたことを指しています。
彼らの敬虔な教会生活と温かい交わりの生活は、周囲の人々の関心を呼び起こさないではおれないものがあったのだと思います。
私たちの教会も、尊敬と好意を持たれる教会を目指したいと思います。

⑶神様に信任された教会でした。
聖書は、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」と記しています。
毎日、救われる人々が仲間に加えられたのは、何か大きな伝道集会を行ったとか、特別な方策を用いて熱心に伝道したからではなく、主が、神様が救い、加えて下さったということです。
仲間に加えられたのは、人間の側の何かではなくて、他の何かではなくて、神様のみわざでした。
伝道の主体、教会の成長の主体も人間ではなく、神様であるということを知る必要があります。
聖霊によって誕生した教会、信者の群れは、仲間を加えていただくにふさわしいと神様に信任された教会であったといえるのではないでしょうか。
同時に、教会もそれを願い、祈ったのでしょう。
私たちの教会にも、毎週のように新しい方々が起こしになります。
そのような方々が、私たち一人ひとりの罪の身代わりに死なれたイエス・キリスト様の十字架の恵みによって、罪の赦しをいただき、救われる人々が起こされる教会を目指したいと思います。
救われる魂が日々加えられるためには、交わりと祈りが熱心になされた結果だと思います。

成田教会の今年の標語は「今もなお、働いておられる神の愛の中に生きる」としました。
「わたしの父は今にいたるまで働いておられる。だから、わたしも働くので
ある。」これが、今年度の御言葉です。
聖霊降臨によって誕生した教会はコイノニア(交わり)の教会でした。
使徒の教えをしっかりと学ぶ教会でした。
今も働いておられる神様を実感するためには、キリストの言葉、聖書の言葉が、私たちの内に豊かに宿る必要があります。
また、交わりの回復のためには、祈りが必要です。
互いに心を合わせて祈ることです。
そして、お互いのために、とりなしの祈りが必要なのです。
聖書の言葉と祈りによって、神様との深い交わりを経験し、神様のみこころを示されて、主の言葉に忠実に従って行動する。
その時に、神様のみわざが起こります。
それが、日々、救われる者を仲間に加えて下さることだと思います。


「住」という漢字は、「人」と「主」という字から成り立っています。
従って住む主人公は「人」なのです。
ですから、たとえどんなに立派な家に住んでいたとしても、その住人がいがみ合ったり、仲が悪かったり、自分本位の者たちばかりであったら、それは立派な家とはいえません。
だれでも立派な家に住んでみたいと思うでしょう。
また、逆に、俗にいうあばら家であったとしても、住む人の心があれば、それは宮殿にも等しい住みかになるように思います。
つまり、その家にどういう人が住むかが問題となります。

私たちが生きているこの世を大きな家に見立ててみましょう。
その家にどういう人が住んで家族構成をしているでしょうか。
学校に、職場に、近隣にどういう人が住んでいるのかが問題になってきます。
これは、他人にどういう人であってほしいかということを求めるだけでなく、私自身がどういう人であるのかということも問題となるのです。

私たちは家庭でも、職場でも、学校でも、相手が変われば周りがよくなるし、自分も変わることができると思い違いをしているところがあります。
これは私自身にも言えることですが、
自分自身は、頑として変わらないままで、相手を変えようとするわけです。
家が人によって住みかとなるように、この世はあなた自身によって、良くもなり、悪くもなりうるのではないでしょうか。
聖書には、神様が私たちの心の中を住みかとされると書かれています。今まで、私たちは自分自身が勝手気ままに生きてきたというところがあるのではないでしょうか。
わがままや自己中心が、頑固さや強情という形で周囲を破壊してこなかったでしょうか。
その私の心に神様が、聖霊様が住み始めると変わってくるのです。
今年の教会標語の御言葉、「今もなお、働いておられる神の愛の中に生きる」ということだと思います。
聖書の言葉を心に受け止めることによって、私の心に神様が、聖霊様が住むことになるのです。
聖霊降臨によって誕生した教会は、一人ひとりの内に、聖霊様が住んでいて下さいました。
だからこそ、交わりが生きた交わりだったのです。
わがままや自己中心、頑固さや強情を持ったままの交わりではなく、聖霊によってキリスト様の証人とされた者同志の交わりでした。
私たちの教会も一人ひとりが、聖書の言葉を通して、聖霊様が私の内に住んで下さり、ともに交わりと祈りを通して、日々救われる仲間を加えて下さるという、神様のみわざを共に共有させていただきたいと思います。
また、神様から与えられた祝福を具体的に必要としている方々を助ける事ができることを願います。
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」とあるように、私たちもこのことを実行したいと思います。
今、疲れている人がいます。
今、悲しんでいる人がいます。
今、病んでいる人がいます。
今、さびしい人がいます。
今、経済的な必要を求めている人がいます。
今、救いを必要としている人がいます。
そのような方々のために、私たちの教会は何ができるのでしょうか。
祈ることができます。
全能なる神様の御手が働いて下さるように祈りましょう。
そして、具体的な助けを実行したいと思います。
それが、真の教会の姿であり、イエス・キリストの愛と恵み、憐れみと赦しのある教会だからです。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と聖書は約束しています。
今どんなに疲れていても、悲しんでいても、聖霊によって力を受け、キリストの証人となるのです。
私たちは、成田教会は、このことを心におき、神の栄光のためにともに歩んでまいりたいと思います。

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