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zoom RSS 神の栄光を受ける 2009/5/24 ヨハネ5:41-47

<<   作成日時 : 2009/05/24 14:06   >>

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最近、ほめられサロンという、サイトが注目されているそうです。
http://kakula.jp/homeSalon/
そこに自分の名前を入力すると、ほめ言葉がパソコンの画面にあふれだします。
それだけ、人は誰かに認められたい、ほめられたいと思っているということでしょう。

わたしたちは、誰にも認められずに生きていくということは難しいと思います。
誰かに認められたいと思います。
この41節で主イエスは「わたしは、人からの誉れは受けない」と言われます。
それに対して、あなたがたは「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない」(44節)と言われるのです。
ここで用いられている「誉れ」と訳されている言葉は、「栄光」とも訳すことができます。
私たちがよく「神様の栄光があらわれますように」と祈る「栄光」です
「栄光」のほうが教会で用いられる言葉のような気がします。
わたしたちが求めている栄光とは、まさに、他の人から認められることであり、他の人からの賞賛の声を受けることなのです。
わたしたち人間には少なからず自己顕示欲というものがあるのではないでしょうか。

私は日中、香穂と一緒にいますが、彼女は食べているか、テレビを見ている時以外は、基本的にずーっと私に話しかけてきます。
こちらが聞く耳を持って向き合っているときはいいのですが、私も一日中香穂とお話しているわけには行かないので、つい上の空になります。
生意気にもカラ返事を使用ものなら、「無視かよ!」なんておねえちゃんの口真似をします。
関心を引きたいと、突拍子もないことを言ったり、行動をとったりします。

人は誰しも注目されたいのです。
言い換えれば「人からの誉れ」がほしいのです。
日常生活の中で自分どのように見られているか、他の人の評判や評価が気になるのです。
一体、わたしたちは何のために生きているのでしょうか。
信仰者は人からではなく、神から「よい忠実なしもべ」と言われることを願っているはずです。
それが、主イエスを信じて生きることです。
信仰とは、わたしたちが人からほめられるような人間になることでも、立派だと言われるような生き方をすることでもありません。
そうではなくて、隠れたところにおられる神に出会い、その方の前に立ち、その方に向って生きることです。
神を畏れ、自分を誤魔化さず神に栄光を帰して生きることです。
良い行い、祈り、自己訓練なども他の人の目を引くためではなく、神に向ってなされるべきものです。

本日の教会学校で、申命記7章を学びました。
そこで「あなたは聖なる民だ」とモーセは言うのです。
聖なる民、聖人であると私たちのことを言うのです。
しかし、「あなたはあなたの神、主の聖なる民である」と聖書は私たちに語りかけるのです。
聖書が語る「聖」というのは、分けられたもの、分離されたものという意味です。つまり、神さまが聖であるということは、神さまはすべての者から分けられている特別なお方だという意味です。
しかもその上に、「宝の民」としてくださるのです。
宝の民ですからかけがえのないものとして扱ってくださるのです。
私たちが神さまの宝物だとモーセを通して言ってくださるのです。
なぜ神さまは、わたしたちを「宝の民」と呼んでくださるのでしょうか、
「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない」
数が多い、人口が多いと言うことは、一見価値が高いように思います。
しかし、イスラエルの民を選んだのは、つまり、新しいイスラエルである私たちを選んだのは、価値が高いからではありません。
社会的な地位が高いとか、今までの功績がたくさんあるとか、そのような理由で私たちを神さまが選んだわけではないのです。
「あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった」
むしろ、あなたたちの価値は低いというのです。価値というのは人間社会が持っている価値です。
その価値から言ったら、イスラエルの民など大した価値はないのです。
実際にイスラエルは、何度も諸外国に侵略され続けました。
力などない民です。エジプトやペルシャ、そしてギリシャなどのように文明や文化を残したかといえばそんなことはないのです。
価値のない、小さな民がイスラエルなのです。それは、現代に生きる私たちにも言えるのです。

主イエスは、また「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる」(43節)と言われました。
わたしたちの目が誰に向いているかが問題なのです。
わたしたちは誰の目の前で生きているのでしょうか。
神を信じて生きていると言いつつも、実は、心の中では神をそっちのけにして、人の目だけを気にして生きているのではないでしょうか。
それは、神を見ることがでず、神の声を聞くことができないからでしょう。
信仰にとって、神が見えないということが致命的なのでしょう。
それに引き換え、確かに人の存在は目で見ることができます。
人の言葉はいやでも聞こえてきます。
そのようなわたしたちに向って、主は「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」(42節)と言われるのです。

神は私たちを「宝の民」として常に見つめていてくださいます。

原文では皆さんもよくご存知の"アガペー"という、「神の愛」とあるだけです。
ですから、直訳すると「あなたがたはあなたがた自身の内に神の愛をもってはいない」と訳すことができます。
この"アガペー"は、見返りを求めない「神の愛」を意味する言葉が用いられています。
新共同訳では主に「神への愛」、口語訳では「神を愛する愛」と訳されています。
どちらも人間の側から「神を愛する愛」、つまり矢印は人間から神様に向かっています。
しかし、ここで用いられているのは「神の愛」です。
ただ、人間の側からの「神への愛」ということだけではなく、「神からの愛」と理解し、それが彼らの内になかったと読み取ることができます。

人間は「神からの愛」を知ってはじめて「神への愛」をもつことができるというのです。
ですから、神から愛されていることを知ることが、単なる知識としてではなく深く経験することが大切なのです。
主イエスこそが、まさに、神からの愛を受けて、その愛の実現のために語り、行動された方だからです。
主イエスご自身が「神からの愛」そのものなのです。
そして、その「神からの愛」を実現するためにこの世に来られたのです。
神が造られたすべてものを保持し、損なわれていたらそれを回復するために来られたのです。

さて、わたしたちは、主に「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」などと言われたら、どうでしょうか。
凹みまくるでしょうか、
ふてくされるでしょうか
絶望するでしょうか。

私たちは、この神の愛を、神からの愛をどれだけ知っているでしょうか。
本当にこのわたしのために御子を惜しまずに十字架につけてくださるほど、神がこのわたしを愛してくださっているという事実を知り、その恵を感謝しているでしょうか。

主イエスは「唯一の神からの誉れを求めることが、信じることではないか」と言われるのです。
わたしたちは、神に喜ばれるように、神のみ旨を聞き、その御心に従って生きることが求められているのです。
それなのに、どうして人から賞賛されるようなことばかりを考えていて、神から喜ばれるような、神の栄光のために生きるような生き方をしないのかと問われるのです。
そして「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない」(45節)と言われます。主イエスは、わたしたちを愛して、命を与えて生かすために来られたのです。
そのことをどうして信じて、受け入れないのかと言われるのです。

わたしたちは、今、もう一度、自分自身に向って、わたしたちは一体、誰の目の前で生きているのかということを問いたいと思います。
わたしたちは、確かに神をこの目で見ることはできません。
しかし、主イエス・キリストがわたしたちの目の前に立っておられるのです。
その主イエス・キリストがわたしたちを受け入れ、支え、導いてくださるのです。

わたしたちが、人の誉れを、とりもなおさず、自分の誉れを求めて生きようとするときには、わたしたちのなす業は、見るに耐え得ない不純なものを含んだ罪の業以外のなにものでもないでしょう。
しかし、それらのわたしたちの貧しい働きを、わたしたちを愛して、わたしたちを赦して、用いてくださる神に向ってささげるならば、それは神の栄光のための働きとして生かしてくださるのです。

すべての思いや言葉や働きを、見える人の誉れを求めずに、見えない神に向ってささげることは、神を礼拝することから始まります。
今、わたしたちは自分がどのような姿をしているのかを気にする必要はないのです。
それよりも、主イエスを仰いで、神の栄光のために、ひたすら神の生ける支配とその御心が行われるようにと祈りつつ、生きることが大切です。
なぜならば、わたしたちは神のみ手の中に捉えられ、その中で生かされているからです。


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