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zoom RSS 聖書が指し示すもの

<<   作成日時 : 2009/05/17 12:36   >>

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今回、ヨハネ福音書を丁寧に読んできて、ヨハネ福音書の深さと面白さを改めて知ったように思います。
ヨハネといえば3の16という有名な聖句がありますが、本日の5の39もそうだと思います。
この箇所によって、非常に新約聖書の性格が明確にされたと思います。
この聖書は「わたしについて書かれている」とはおっしゃわれず、“証しするものである”と答えられています。
47節の「モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」とあります。
モーセの書いたものとは旧約聖書、律法という意味です。
主イエスご自身が、新しい律法であるといわれます。
旧約聖書をかたくなに守っているファリサイ派や律法学者たちと対決する場面がたくさん出てきます。
古臭い律法などはさっさと捨てて、自分のことを信じなさい、とおっしゃったのではありません。
旧約聖書を除外したではなく、“旧約聖書を読む者は、あるいは、旧約聖書を信じる人は、わたしの言うところを受けいれるはずである”ということを前提とされています。
主イエスは、さまざまな場面で旧約聖書に基づいて教えをされました。
キリストということ自身が旧約の成就であって、“旧約なくしてキリストなし”だと言えます。
主イエスが述べておられるとおり、聖書というのは、それ自体がありがたい人間を救う何か秘密を持った言葉というようなものではないのです。
そうではなく、その中に指し示されているキリストご自身が大事なのです。


“聖書は徹頭徹尾、イエスがキリストでありたもうことを指し示す”。
カールバルトという神学者はこの方程式を、世の中で起こりうることにすべて当てはめて説明して、著作を著しました。
聖書を読んでいるうちにだんだんイエス・キリストが浮かび上がってきます。
そういう読み方をしなければならないし、そのことのゆえにどう生きるかが信仰ということになるわけです。
キリストと別に聖書それ自身を読むということは、それなりに意味もあることだし大変素晴らしいことだと思います。
確かに人間が作った文章の中で最高のもの、信仰のない人にとっても大変おもしろい、そういう書であります。
皆さん方のお知り合いの中でもそういう方がいらっしゃるかもしれません。
ギネスブックにも載っている世界のベストセラー、世界中で一番多くの言語に翻訳されている本が聖書だということは皆さんもご存知だと思います。

“もし無人島に行く場合に1冊持って行くとしたら、何を持っていきますか”。
よくこんな質問があります。
六法全書を持って行く飽きないためにとか、勉強とか、中には英語の辞典とか、しかしそういう中に、真面目に聖書と答える方がかなりおられるようです。
最近では、本ではなくパソコンを持って行くだとか、携帯を持っていくなどと答えるかもしれません。
やはり我々が孤独の時にも、なおかつ、自分の人生を考えさせられる。
いかに生きるかということが問われるときに、やはり聖書を読んでみようか、という気が起こるのかもしれません。
また、持って行くに値する、生きるにしろ死ぬにしろ、そこには自分の日常的な生活と違った別の人生が示され、あるいは豊かな生き方ができるのではないだろうか、という期待があるからです。
しかしそれだけでは不十分なわけです。

パウロが、テモテという弟子に宛ててこう言っています。
「彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することはできない」(注:テモテ第2の手紙3章7節)とずいぶんと厳しい言葉ですね。これはこの時、すでに聖書研究が盛んだったということです。

盛んに聖書研究することは結構だと思うわけですが、しかし学ぶことに興味を持っている、勉強好きというのでしょうか、あるいは探究心が旺盛、好奇心があるというのでしょうか。
その学ぶことについては興味があるけれども、真理に達することはできない。
真理というのは、ソクラテスやプラトンが言うような普遍的な抽象的なものではなく、ここで具体的な、“わたしは道であり、わたしは真理であり、命である”とおっしゃられたイエス・キリストそのものを指しているのです。
“キリストそのものが真理である”。ですから、キリストを通して真理に至るということではないのです。それでは宗教哲学です。

宗教哲学とキリスト教の宗教、つまり福音とどこが違うのでしょうか。
聖書を通して自分たちの人生の生き方を学ぶ、非常に教訓的に学ぶ、真理を学ぶ、人間の在り方を学ぶ。
ですから、キリストも一つのモデルとして存在しているわけであり、真理をよく表してくれたところの立派な先覚者である、ということになるのです。
こういう意味で聖書、あるいはキリストの教えを非常によく読んでいる人たちもいるのですけれども、それだけでは駄目です。真理に至らないのです。
大事なことは、そういう抽象的な哲学ではない、学問ではないのです。
聖書が教えるのは、我々の生き方、生き様に関係することでありまして、常に学んで教えられるというのは、聖書のある個所を格言的に、感銘を受けて、それを絶えず思い起こして反省するというだけじゃなくて、そういうものが出てくる大本であるイエス・キリストそのものに我々の目が開かれなければ、やっぱりテモテに言ったように、「彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することはできない」。
そういう聖書研究の在り方に対して、パウロは非常に批判的です。

キリストとすれ違いになってしまうような聖書の読み方は意味がないのです。
キリストに反発することはかまいません、キリストと出会って反発するということはあり得るでしょう。
けれども、キリストと出会わないで聖書をよく分かったつもりになっている人は、実は何も分かっていないのです。
何故ならば、ここに書かれているように、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」、ということがすっぽり抜けてしまっているからです。
永遠の命は聖書の中にある。
文字や言葉として有るのではなくて、その文字や言葉が指し示している、つまり聖書全体が指差しているイエス・キリストにあるのです。
調べるというのは、単に教えを学ぶということではなく、実行するということだと、ある本にありました。
キリスト教は、キリストの教えを実行することであるというように、大変誤解している人があります。

抜けてしまったのでは、どんなに聖書を読んでも、いつになっても真理に到達することはできない。意外に聖書をよく知っているけれど、“聖書読みの聖書知らず”ということに成りかねないわけです。
聖書と言いますから、清い書ですね。これは翻訳が悪いのです。
聖書とは、何かありがたい書、そういうようなイメージが強いですけれども、聖書とはバイブル、これはギリシャ語ではビブロス、英語ではブック、本という意味です。清いなどという言葉は全然入っていません。
聖書とは、神様の約束、Testamentです。NewTestamentとかOldTestamentです。
神様の我々に対する恵み、キリストを遣わすであろうという約束が旧約聖書です。その約束が成就したということが新約聖書で、内容から言うなれば、“神様のお約束”とでも訳すべきことじゃないでしょうか。

そのイエス・キリストは、どんな方でしょうか。
みなさんはどのような主イエスを思い浮かべられるでしょうか。
ヨハネ黙示録の3章20節にありますように、“絶えず私たちを訪ねて、我らの扉を叩いていらっしゃる”、そういうキリストなのです。
高台から行いを誠実に実行しているかを監視しているような方ではありません。
私たちの心の扉を叩いていらっしゃるキリスト。
その叩いていらっしゃるキリストと出会うために、私たちは内側からドアを開けなければダメなわけです。
どんなにキリストがやってまいりましても、しっかりと鍵を掛けていますと、そのキリストと出会うことはできない。
声は聞いてもキリストと出会うことはできない。
“聖書はキリストを証言する書”でありますから、どうかイエス・キリストと出会わせて下さいと祈りつつ学ぶということが、私は聖書を読むときの基本的な姿勢だろうと思うのです。

もちろん、面白いから興味があるから、それはそれで結構です。
けれど、前段階として意味があり、その前段階にいつまでも止まっていたのではいけません。
前段階からさらにもう一歩進んだTestament、約束なのです。

ですから、聖書が証ししているイエス・キリストという目標を見失いますと、聖書を読んでも、読んでも、何か、のれんに腕押しという感じになるわけです。
どうも聖書を読んでも分からんというのは、これは文字を読んで意味をそこに探ろうとして、文字や言葉が表そうとしている方に目が向いていないということなのです。
私たちはヨハネがイエス様を指し示したように、聖書が指し示すイエス・キリストについて、しっかりと目を止めたいと思います。

聖書というのは、ある意味で法的な宗教です。
情緒的な、あるいは心情的な宗教であるよりも、旧来の約束、新しい約束、Testament、約束ということです。
これはお互いに約束事で、私はあなたを信じますという、神様との約束です。
ちょうど結婚式での約束に似ています。
結婚はあなたを妻とします、私はあなたを夫としますという約束の上に成り立っています。
そういう関係が夫婦ということです。
人間の場合は横の関係ですが、これを縦に致しますと、神様との関係になります。
いろんな神様がいらっしゃいますけれども、“私はイエス・キリストの父なる神様を神として今後人生を歩みますということが、信仰ということであります”。それが本当に正しいかどうか、やはり証拠によって裏づけられるということが大事であるわけです。

前にもお話いたしましたが、この証拠という言葉、“あかし”という言葉は、新約聖書に22回出てきます。
そのうち21回は、ヨハネ福音書とヨハネ第1の手紙とヨハネ黙示録、ヨハネの名前がつくものに21回出てくるのです。
あとは使徒言行録に1回だけです。
ですから、“あかし”というのは、非常にヨハネ的な言葉ということが分かるわけです。

ヨハネの黙示録19:10。「わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である」、とあります。
“イエスのあかしびと”とはっきり言っています。
これはギリシャ語で見てみますと、“証しを持つ者”という意味です。これが“あかしびと”です。
私たちがイエスはキリストであるという証拠を、私たちが持っている、あるいは証人であるということが、クリスチャンの古代教会における条件であったと思われるわけです。
つまり、私たちがキリスト者であるということも、そこには証拠が必要だというわけです。
ユダヤ教においても裁判には証拠というものが大事にされたようです。
これは申命記(注:申命記19章15節)にあるのですが、証人が一人というときには信用してはいけないというのです。
少なくとも証人というのは複数でなければいけない。
二人、三人というのです。ある人が、“この人はこうしました。間違いありません”としても、これは駄目だというのです。
複数でなければいけない。これは客観性を重んじるということでしょう。
それからもうひとつは、自分自身について証言することは駄目だというのです。非常に不思議に思いますことは、お役所に行きますと“証明書をお持ちですか”と言われます。
毎回手続きをするときには身分確認のために免許証出してコピーをします。
“たまたま身分証を持ち合わせて無いのです”と言っても納得してくれません。
“私が言っているのですから間違いありません”と言っても、お役所では通じません。
定期かなんかありませんかとか、借用書でもありませんかとか、そういうものがあってはじめて、その人がその人であると確認するということで、自分が自分であるということを証明することは中々に難しいのです。
社会的に難しいですね。
逆に言えば、それだけ自分を偽る人が多いのかもしれません。

私たちは、この聖書の中に永遠の命があると思って調べているけれども、「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」とこう言っておりますね。
聖書は全体がイエス・キリストを証ししているものである。
同時に、その指差しているそのキリストとは、私たちと無関係なものではありません。
私たちの内に、私が聖書を読もうとするときに、すでに働いて、御業を為しておられるキリストがおられることを疑わない、ということが信仰なのです。
私たちは、キリストがそのようにおっしゃるのでしたら、よろこんで、お従いしましょう、という信頼があるわけです。
“いや、私はまだまだ”とおっしゃる方は、自分に対する自信をお持ちの方です。
こう言うまだまだに対して自信のある人は、信仰全体に対しては無知な人です。本当に謙虚なこころ砕かれた人は、“あなたは許された”というならば、“ありがとうございます”ということになのではないでしょうか。
死ぬ直前に信仰告白をすればいい、という人もいます。
裁判官が「あなた無罪だ。」と言うのに、「いやいや私はまだ有罪です、もう5年ぐらいさせて下さい、死ぬ直前でいいです。」と言うのと同じです。

イエス・キリストが、“わたしがお前の罪を負って、お前の負い目を全部引き受ける、心配するな”とこう言って下さっているのです。
“いやいや私はあなた様がまだ心配です”ということになるならば、これは信仰以前の問題です。
私たちはイエス・キリストの恵みにあずからなければならない。
聖書には、そういうキリストの恵みが、我々一人ひとりに豊かに与えられているということが、当時のヨハネ福音書を読んだ人だけでなく、私たちにもそれが与えられているということじゃないでしょうか。
そして、私たち一人ひとり、また、皆さん方一人ひとりに、“あなたがたは捕らえようとして一生懸命であるけれども、わたしは既にあなたを捕らえているんだよ”とこうおっしゃっています。
キリスト教はここに成り立っているわけです。
信仰と言うのは、ここに立脚しているのです。
ここを見失わないということが、我々信仰者の歩みです。
そして、そのために、キリストは我々のこころの扉を叩いて下さるのです。
扉を開けて受け入れて、ともに歩んでまいりましょう。

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